Abyss
「さすがに事件性がないとは言えないだろう……これは」
扇たちは現場にいた。巻風刑事の情報のお陰だ。
今は、扇とミノリ、魅美以外に誰も居ない。
それもそのはずで、夜になってしまえば――事件の時刻もこの辺りだ――照明のない峠道は真っ暗になっていた。
慣れていなければ遭難しかねない。舗装はなく砂利道だ。
運転席を倒木に直撃された赤いスポーツタイプの車は、見る影もない。
立ち入り禁止でありブルーシートがかけられているのは、承知の上で一通り調べた。
「誰かがやったんなら酷いよね。あれは」
ミノリが珍しく正義感に燃えていた。
「あの辺りも「呪われてる」らしい。……いや怒らないで下さい」
ミニバンで家に戻る最中だった。
暴れられると死ぬ。とりわけ峠道と言わなくても、そこら中がワインディングロードだ。道幅も狭い。とは言え車なしでは移動できない。医者にも行けなければ店舗にも行けない。
巻風刑事の依頼の理由は、幾らなんでも倒木に直撃されるなんてことが簡単に起きる訳がない、ということだった。
「鬼? 天狗? だったかな」
「何の話?」
「そういうものが出るらしい。あの峠には……だから怒らない」
「あのね今どきそんなものがね」
「僕も天狗を疑ってるわけじゃない。情報ですよ。ただの」
「呪い」が実在する以上、「天狗」も何らかの形で実在すると扇は思うが。
有る。居る。そう言い伝えられている以上、伝承の存在しない箇所よりは危険だ。
関係はないが首塚だってある。
人は「情報」があれば――言い方を換えれば言霊だ――実現しようとする。
「情報」に縛られ、有りもしないものが現実のものとなる。
元旧家というだけで「呪い」からはある程度自由。それが猫野ミノリの現状だ。
慎ましく暮らしてはいるが、現金ならば実は畳を外せば山ほどある。
実家に泣きついてもどうにかなる。大いなる庇護に感謝。
まあ、ミノリが冷遇されている辺りが少し、呪われている。
家、即、探偵事務所。広い庭にミニバンを停めた。
それほど駐車スペースがあるわけではない。扇が庭を、念入りに畑にしている。
一人では畑の面倒を見られない位には広い。
見栄えと味を気にしなければ――漬けられるものは全部漬物にする覚悟であれば、探偵をやる時間くらいはある。手を抜く方法は随分覚えた。
半ば棲みついている魅美――女子大の学生だ――が畑仕事を手伝ってくれることも大きい。
魅美がタダで何もかもしてくれていなければ持たない。
ミノリのファンというだけで、よくもまあ。と、思うが扇は指摘しない。
互助関係が出来ているらしいので、口を挟むものでもない。
「どう進めるかな。あの峠には監視カメラもない。信号機もない。――霧が出ることでは有名。鬼ほどもある人影が写ったりしたとか」
「――どうして、最後そっちに持って行くのよ」
「……ヘッドライトと通行人が一人いれば起きる現象です。噂にはなる。恐怖で噂は強化される」
「あの、あんまりミノリさんを苛めると、ボクだって怒りますよ?」
魅美の目が据わっている。やる気だ。
「格闘に自信がないわけじゃないけど戦いは好きじゃない。怪我をしたら病院が遠い。悪かった。なるべく……現場の情報だと思って下さい」
「捜査の一環だと言いたいなら、まあ」
「……ボク、ちょっと収まりがつかないんで走って来ます」
「魅美?」
走る気になれば幾らでもどうぞ、という道が続いている。夜道でも心配する必要は――たぶんない。
帰ってきたら夜食でも作るか、と扇は腹積もりをする。
本気でカロリー消費をする魅美だ。血中糖度が下がっているだろう。
「……じゃ、真面目に検討しますか」
扇は畳に横になる。
「今までのは何だったのよ」
「前段です。前提でもいい。――見通しが悪かった可能性はある。他に事故を起こす理由は――何だろうな」
「居眠り? 酔ってた? ……倒木は何で? うーん」
ミノリは卓袱台で肘をついて、考えている。
「そんなにタイミング良く倒れて来るか? と思う。難しいな」
とりあえず食べよう。と、塩漬けの胡瓜と沢庵、ご飯を食べ始めていた。
特売の納豆は味噌汁に入れてある。
「美味しい。こういうことだけは上手いよね、扇」
「どうも。……だけは、ね」
褒められた。扇はそう考えておく。
「――見に行った時は、あれは事故当時のままだったんでしょうかね」
「たぶん。巻風刑事はそう言ってたじゃない?」
「路肩に寄せようにも幅員が殆どない。……移動する理由はないですね」
「ね。別に……限界まで切羽詰まってもいいよ? 手がかりらしいものもないし」
ミノリがもじもじと動いていた。
限界まで何かを我慢して、「無理無理無理無理」という状態になると神のお告げ並みの閃きが――材料なしに思いつくのだからやはり宣託だ――ミノリに訪れる。
方法が方法だけに、扇としては、あまり多用はしたくなかった。
今の所、「無理無理無理無理」に持ち込む手は、手早いもので言えば一つしかなかった。
ビールかコーヒーを使う。利尿剤とする。
この間、「つねる」と「くすぐる」を提案されていたが、気が乗らない。異常者っぽい。
尿意も充分以上に変態じみているのだが、ビールかコーヒーを出して待っていればいいだけだ。凝視するわけでも苦しむ姿を見たいわけでもない。
他の手を試したこともある。だが――切羽詰まる度合い? が丁度いいらしく、解決に結びつくことが多い。
「手がかりがないわけじゃない。出来る所までは考えますよ」
頼りっぱなしでは本当に助手だ。
助手だけれども。
「スポーツタイプであの峠を走るなら、かなり速度を出そうとしていたでしょうね。山道ではあるけれども、ぎりぎりの道幅で走るのが好きだという――年代。四十代だっけ? もう少し上だったかな? ……たぶん真夜中にあの道を走ろうと言う以上、年代に関係なく危険は度外視する」
「んー。それで? 危険を冒す人だとして? 崖から落ちたとかならわかる」
「それなりに運転に自信はあり、いざと言う時は対応できる。そうじゃないとあの道は走れない」
「だからどうだっていうのよ? そうすると樹が倒れて来るわけ? 危険を冒すのと……矛盾はしてないか、そうか」
「樹が運転席に突っ込んで来るとしたら、ミノリさんならどうします? 一応、失礼、免許は持ってる身として」
「避ける? で、あ……それなら路肩から落ちる? ブレーキ踏んでも間に合わない? かな」
得心はいっていないが、仄かに状況が見えて来たように、ミノリが言う。
「倒れて来る樹の速度にもよる。で、倒れてしまったところに突っ込んだのなら、あの車の車高なら運転席に刺さらない」
「じゃ、よっぽどのタイミングで倒れて来ないと」
「そう。そこに戻る。偶然は恐ろしい、で片付けるのは――猫野探偵事務所の主義じゃない」
「ブレーキ痕がかなり前から残っていた。地面が削れるからすぐにわかる。正確に計ったわけじゃない。でも、あの樹に丁度当たるくらいの制動距離だと思う。――同じ型の車を借りに言ってもいいかな」
「レンタカー屋さんどこだっけ? 扇」
「この辺は全員車を持ってるから需要がないんです。調べないとダメ。――もう一つ。制動距離が丁度だった気がするのは、確かに運転席は酷い状態だったけれど、減速し切れてなければ車がもう少しめり込んでいる筈。――明日も現地調査かな」
意地でもミノリの特殊能力の世話にはならない。そう決めているわけではない。
大体、想像はついていたからだ。
推理というのならば、後は幾つかの手段から正解を選ぶ必要があるだけだった。
何故、ぴたりと樹の位置で止まっていたのか。考えるまでもない。
――翌日。
「早起きして、なーに? もう現地調査?」
足音を殺して扇は廊下を歩いていた。床の木が軋む音でミノリが起きていた。
「いや……起こしましたか。ガレージで実験をしたい。もう眠れないなら、魅美さんと遊んで――疲れて寝てるか。まさか峠まで自力で走って来るとは思わなかった」
「あの子ならマラソン、最初から最後まで全力疾走で行けそうね。まだ寝て五時間くらいだから寝てるわよ」
「10㎞ほどかな。それにしても普通じゃない…………ガレージに行っていいですか」
「面白いの? なら見に行く」
「いつの間に工具買ったのよ! お金ないのに」
ガレージにはいつも物が増えているが、それにしても久々に覗いたガレージは工具と、役に立たなそうなガラクタで一杯に――ミノリの見立てとして――なっていた。
「……全部二束三文。裏の山に不法投棄してる場所がある。そこで拾って修理したんですよ」
「――あそ。マメっていうかヒマっていうか」
「面白くないなら、たまには朝食でも作ってみるのはどうですか?」
「いいけど沢庵だけね。……見てたいから見てる」
扇はバネを組み合わせて、何かを作っていた。
「何なの? 罠かなんか?」
「熊の罠にも見えるかもしれない。――弓です」
「弓でどうする……あ、あー。そういうこと」
「鉄板が撃ち抜けるかどうか。5㎜厚でいいかな。実際に使われたものが何かは……現地調査で分かるかな。行ってみないと何とも言えない」
「今回、推理だけで行けそうじゃない? あ、犯人ね。ビール後何本あったっけ?」
「一ダースは有ったと思います。もっとかな。安い時に買いました」
「――うん。覚悟した。それ、出来たら教えて。居眠りする」
ミノリは汚れた椅子の埃を払うと、勝手に座って壁に背を凭せ掛けた。
「――寝て待つ。それも賢明かな」
呟くと、扇は一時間ほどで弓を完成させた。バネを引くための巻き上げ装置付きだった。
片手では引けない強度で発射できる。
「猟銃の威力には及ばない。でも誰でもこれは作れる」
完成した、とミノリを、そっと起こす。
「予想より、かっこいいじゃない」
「そう言って貰おうとは思いました。今後、何かに使えるかも知れない」
回転式の巻き上げ装置で、ぎりぎりとバネを引く。
「わくわくしてきた」
「こういうの好きなんですか?」
「5㎜鉄板貫通できるかどうか、よ。それでフロントガラスを割るんでしょ?」
「そう。距離はこの際考えない。想定は猟銃以下長弓以上」
厚さ5㎜の鉄板は貫通していた。
車のフロントガラスを粉砕しなくてもいい。ヒビが入るくらいが丁度、視界が奪えていい。
それならば、慌ててブレーキを踏むはずだ。
「車が止まった所に、急いで樹を倒す仕掛けは?」
「森で試しますよ。何本か当たりをつけておいて、伐り倒す寸前にしておけば済む」
運転席脇のガラスも割れていた。
車さえ停止していれば、金槌でも斧でも割れる。
そして殺せば、余裕をもって樹を倒せる。
「あと犯人だけじゃない! こういうの久し振り」
「――目撃者を探す、聞き込みをする、本当はそうなんですけどね」
「複数犯でしょう? きっと。誰が組んでるかわからない。魅美が起きる前にビール飲むわ。現地調査の時寝てたらごめんね」
「……ふう。いつでも緊張する。これ」
ごくごくとミノリがビールを飲む。コーヒーより効果が速いらしい。
要するに尿意が速い。
「あの子起きないわよね。本当に推理だと思ってるんだから」
「……後付けで犯人の目星はこうやってつけた、とか言っとけば大丈夫でしょう」
「そうそう。目玉が四つの時は説明も何もわけわからなかったけど、何とかした」
「無理無理無理無理無理……なんか……違う? ……ねえ、推理が全然違う方向みたいな……変なものが見える……ああああもうっ」
「……間違えたかな。すいません」
「違うの大体そうなんだけど、ああ無理無理無理無理無理……女の子! ナイフ! 血! え? あ? 私ってどういうこと? 限界限界限界……あのね……猟銃でも弓でもなんかそんな発射するものじゃない! これで許して!」
私……? 扇は畳に横になっていた。
まさか。いや、もしそうならば、誰かがいる。
ミノリのような。
そいつは何も使わずに――いや、恐らく苦痛を使った。ナイフだ。
切羽詰まるために、ナイフを使った。
血はフロントガラスにも付着していた。
ミノリの力より、少なくとも攻撃力としては上?
本気でミノリが「あっち」側に力を振ったとしても、フロントガラスにヒビを入れるほどではない。精々、殴られた程度の衝撃だ。
もう一人、いるのか?
特殊能力を持った、誰かが。
「呪い」。改めて生々しくその言葉が頭の中で反響する。
鬼。
あながち、嘘ではないのかも知れない。
――妄想だ。迷妄だ。否定して、扇は目を閉じる。
「どうしたの? 今日は元気がないようだけれど」
巻風刑事が訝しむ。
ルジボーという名の喫茶店に、扇とミノリは居た。成果の報告だった。
血液が一人のものかどうか、弾丸の破片が車内にないか、他の何かでもいいから遺留物はないか。確認は巻風刑事に委ねることになっていた。
ミノリには見えなかったのだ。ディティールも、犯人も。
「ブレーキ痕の仮説は正しいように思えるわ。周辺の樹まで調べていなかったけれど、すぐに結果は出るでしょう。伐り倒そうとした形跡があれば、これは自然現象ではなく、事件。――急がせるから待ってね。疑うわけじゃないけれど、二つ、仮説が合致していれば推理の結果として認めます。――ゆっくり、食事を楽しんでいてね。こうやって話せるだけでも、実は私、嬉しいのよ」
巻風刑事は逢うたびに、違う誰かに見える。
印象として残る場所を変えているように、扇には思える。
唇と眼鏡、髪型。アクセサリー。今は夜関係の仕事をしている、そんな感じだ。
「誰も手を出したがらないって言うのかしらね。厳しく言えば事件の隠蔽。どこにでもある話だけれど、気分は良くないわね。下種の勘繰りと言われればそれまでだけど」
謝礼を貰って、扇とミノリは店を出た。ブレーキ痕、樹への伐採の痕跡、どちらも仮説と合っていた。巻風刑事に言うべきではない、と謎の人物の介入については黙っていた。
扇としても結論は出ていない。
仮に、同程度の特殊能力だとしても――相手にするには厳しい。
ミノリには住所も顔も特定できない誰か。
扇たちはまだ混乱していた。