殺意の光
MBSラジオ短編賞に応募しております。ご一読いただけると本当に嬉しいです。
猫野探偵事務所の近所には、おおよそ百段に及ぶ――猫野ミノリは滅多に上がることはない――参道を持つ神社がある。
天気のいい、音の響く時には、失礼にあたるのかあたらないのかはミノリは知らないが、階段を上がり下がりしているどこかの運動部の声が響いたりする。
お百度参り以上に行き来している気がする。
「階段昇降、やれと言われれば出来ますよ?」
助手――大抵は逆に見られる。身長のせいだ――の大玄扇と雑談がてらに昇降できるかと聞いたら、事もなげに言った。
時に、大玄扇、185cm。
猫野ミノリ、149cm。
小学生と呼んだら埋める。
「歩幅が違うわけですよ。それはきついのはわかります」
「パーツが短いって話はナシね」
剣呑。扇は口を閉ざすと日常業務――営業、フォロー、事務一般、その他ミノリが行わない作業全部――を片付け始める。
ミノリは推理以外行わないのだから、全部だ。
探偵はそれだけでいいのかもしれないが。
「あんな急な階段、しかも夕方過ぎでしょ。そりゃ転げ落ちるわよ。全部コンクリートだし、どうなってもおかしくない」
ミノリが何度目かの文句? ――本人には推理らしい――を口にする。
はいはい、と扇は聞くふりだけはして、どうにもなりそうもない収支を見ていた。
不幸にして、あるいは幸い、ミノリの家は裕福であり、体よく追い出された――与えられた持ち家の一つがそのまま、この探偵事務所だ。
助手として文句はない。事務所兼住宅に住み込み。食事は当番制。要はまかない付き。そもそも外食をする余裕もなければ、手頃な価格の店も――高額でも――周辺には店舗というものがないけれども。
東京で開業すれば収入は増えそうだが、事務所の費用を考えると二の足を踏む。
ずっとそんな状態だった。
簡単に言うと田舎の中でも何にもない場所にある、猫野探偵事務所だ。
ネットで宣伝もしているが、わざわざやってくる客は少ない。
チャットで相談、三十分まで無料。扇としては集客に必死である。
最初から最後までリモートで解決という事件さえある。
探偵部、という稀有な部活が、とある大学にあるおかげで、肌之魅美というバイトを一人、ほぼ無料で――褒めればそれでいいらしい――使えるのがコスト削減には役立っている。
ミノリと並べると、
「お姉さんは体育会系かしらね」
と、魅美が言われたりする。ミノリが憤慨した場合、抑えるのは扇だ。
実際、あの階段を一時間くらい往復させても魅美は不平一つ言わなそうだ。バイトでは引っ越しの手伝いから居酒屋までこなす。何でミノリに懐いているのかは知らない。
「ミノリさーん! 現場、隈なく見て来ました。ボクにはちょっと、異常な点は発見できませんでしたけど」
家の外から怒鳴るのはやめてほしい。魅美。
ガラガラと引き戸を開き襖をびしびしと容赦なく開けて回る。襲撃でもする感じだ。
まあ、魅美の勢いは襲い掛かって来るのとそう変わらない。
「いつか、あの子、この家ぶっ壊すわ」
「潰すのはミノリ……いえ。何でもないです」
「気の利いたこと言いたいなら最後まで言え! ……で、」
魅美が飛び込んで来ていた。走らないと死んだりするんだろうか。
「ちわすっ。慣れてる人なら転んで落ちたりするような所はありませんでしたっ」
「夕方でも、か?」
今の所、扇にはそれ以外の原因は考えられない。
「三回目から目を瞑って走り抜けましたけど、」
「そういうのはお前だけだ。一般人のサンプルにはならない」
「ですよねえ」
「……分かってるなら「異常ナシ」とか言うなよ」
「扇。そこは鷹揚に聞いてあげて」
ごん、と机にミノリの後頭部が当たる音がした。
椅子を回して、真上、天井を見ている。
考えている姿勢らしい。
「やっぱりミノリさん、優しい」
「……ありがと。幾ら何でも目を閉じて走れるくらいだから、階段そのものに支障はない。滑るような箇所もない。そうでしょ? 魅美」
「――上から七段目が少しだけ斜めでした。転ぶ程じゃないです」
感覚が鋭敏すぎる。とは扇は言わない。
使える。後で実験だ。
「あの階段で、年間の死者は、最大でも一桁でしょ? これまで事件化されたことはない。そういうものだ、と決まっている」
「――だからウチに依頼者が来たんでしょう。ミノリさん。疑った者は――呪われる。そういう意味では、依頼頂けて幸いですが」
「あんたどこでそんな変な事調べて来たのよ!」
「――相変わらず怖がりですねえ。さて、夕食の支度でも。魅美さんも良ければ」
「ボクは、怖いものは、ない…………あ、夕食頂いて良ければ」
「顔に怖いって書いてありますよ? 魅美さん」
「何でも怖くしようとしないで。扇」
沢庵を齧りながらミノリが言う。
「わざとじゃありませんよ。……魅美さんには肉が足りないでしょうけど、はい、味噌汁」
「モヤシと豆腐は好きですから!」
「……最近何かとモヤシ多いですけどね。裏のツテで野菜回して貰えてなければ、いや、正直、米もおぼつかない」
「自分の営業力のなさを誇らない」
「……はいはい」
扇が卓袱台を見渡すと、大体、漬物ばかりだった。
不満はない。食べるものがあるだけでいい。
立派だった庭木は、殆ど畑にした。そのうち自給自足になるだろう。
「……ところで、さっき言った年間死者数は「階段から落ちた」者だけなんだ。最近でも行方不明者、それに首を括った事件があったばかりだ」
「やめてよ扇、食事時に……。ほら、魅美ちゃん下向いちゃったじゃない」
「……そんな、所を、何度も……?」
「往復していたわけだね。ああ、本当に怖い」
すっ、と茶の間の電気が消えた。
「あ……え……ええっ?」
「ミノリさんっ」
「ああ、背後から何か音がするな」
ぎしっ、そう床が鳴るような音が部屋に迫る。
「お……扇っ。何とかしてっ」
「いつもそれですねえ」
庭に残してある金木犀の樹が、風に鳴る音も続いた。
「呪われたんじゃないかな。僕たちは」
「だから何とかしなさいよっ」
「切迫してきましたか? ミノリさん」
「ちょっ。魅美ちゃんの居る所ではその話は禁止っ」
怖いのも一瞬で忘れたかのように、ミノリが卓袱台を叩く。
「蝋燭でも用意しますかね。僕は夜目が効くんで。……あ、そうだ。お祓いの方法があるんですよ。魅美さん、Y字バランス。今ここで。見えないからいいでしょう?」
「夜目が効くって言ってたじゃないですか」
渋々。半信半疑。
「……本当に効くんですかこんなの」
そう言って、魅美は片足で立った。
「あの神社は乙女の祈りに優しいらしいよ?」
「これのどこが祈りなんだか教えてください」
「ポーズが鳥に似てるよね。古来、鳥というものは神に通じる。神の使いであったり、化身であったりさえするんだ」
「……はぁ」
魅美の不審そうな声。
「真剣に。暗闇に何か見えないか、目を凝らして。そのまま続けて。五分くらいじゃ崩れもしないんだろう?」
「……そうです、けど。……ようやく、目が慣れてきたような……」
「……そうか」
瞬間、強烈な光が魅美の目を焼く。
真後ろで何かが動いたような気がした。
「ひあああっ」
魅美がバランスを崩した。祈りどころではない。
「ああ、もういい」
煌々と茶の間には光が戻っていた。
不気味な音も止んでいた。
「……夕暮れ過ぎだった、ということは、こんな事も出来るという意味だと思っているんだ」
「何言ってるのか説明して。扇」
「暗順応した目はそれだけで弱点になる。魅美さんが……へたり込むくらいだからね。光に弱い。加えて言えば、音にも敏感になる。こんな簡単な方法だったかどうかはともかく、隙は増える。暗くなったり明るくなったりしたのは、謝りますよ。実験です。仕掛けは色々と」
「……あんたが明かりを消したの?」
「間接的にはそうなりますね。謝ります。防犯を兼ねて仕込んであるんですよ」
「ねえ、ちょっと、そういうのやめない? 扇」
「怖がらせたのは謝りますが、実験は続けます」
音に反応する機器が幾つかあっただけだが、そう扇は言わない。
「方法は幾らでもあるわけですよ。――食事、片付けます」
「あ、手伝い……ます」
「魅美さん……腰が抜けてるようだから、僕がやるよ。いつものことだからね」
音が正確にどこから聞こえているか、判断するのは難しい。少しの細工で全く違う方向から聞こえるようにも出来る。
扇はかちゃかちゃと食器を洗っては、重ねる。
薄暗い台所だが、言ったように夜目は効く。
暗示をかけた積りはないが、少しの恐怖譚でも判断力は鈍る。
闇。物音。
二つも有れば充分だ。
むしろ選択肢が多すぎて、結論を出すのには時間がかかる。
殺してしまえばいいのならば、さらに強硬な手段にも出られる。
殴ってアルコールでも注射して、神社の階段の上まで運び上げる。
不可能ではない。少しばかり脅かせば慌てて階段を降りるだろう。
「ミノリさんに頼るしかないな」
冷蔵庫の中は寂しい。扇は特売のビールを一本選んで茶の間に戻った。
問題と言えば魅美を家から追い払うくらいだ。
どこからミノリを攻めるか。それは問題ではない。怪談でもビールの効果でも結果は見えている。
「そろそろ勉強でもして」
と、魅美は追い返した。
ミノリに罪があるわけでもない。罪があるから責めるのではない。切羽詰まって貰うだけだ。卓袱台を挟んでミノリと向き合って、扇は座った。
「……また、ビール?」
ミノリが500ml缶を睨んでいた。
「コーヒーでも同じ事ですが、どっちにしますか?」
「痛いっていうのでも何とかならないか、って思ったんだけど」
「僕の趣味じゃないですね。というか痛いのは嫌いです」
ミノリの極限の閃き。というか殆ど超能力だ。それを引き出すには切羽詰まって貰うしか手はない。
泣かせる? 却下。
怒らせる? 却下。
生理的限界の方が早く、確実だ。大体、感情的に追い詰める気が扇にはないし、下手をすればコンビ解消の危機だ。
もう無理無理無理無理無理無理という状況はビール一本で作り出した方がいい。
コーヒーでもいい。
「ま、扇が見てるだけならいいけどね」
「――人間じゃないらしいですからね。僕は」
「そんなこと言った? 何かの誤解でしょ。そうは思ってない」
ぷしゅ。とビールの缶をミノリが開ける。
「何でこんな因業な能力があるのかしらね」
ごきゅ、と義務的にミノリが缶のまま、飲む。
「さあ。それこそ呪いじゃないですか?」
「――恐怖を味わいたいなら、今回はそっちに振ってもいいんだけど?」
いひ。ミノリが笑みを浮かべる。
「やめましょう。この辺は病院が少ない。探して思い知りましたよ」
「切羽詰まるまで見てるの? 限界までずーっと見てるだけ?」
「――漬物持ってくるかな」
扇は腰を浮かした。
「逃げんなよコンビだろうがよ」
「……珍しく酔った?」
「まさか。ついでにコーヒー持って来て。寝れなくても関係ない。なんかそんな感じ。で、なんか話しろ。あんたでもじーっと見られてると持たないから」
「もう新しいネタなんか何にもないですけどね。あ、絶対言えないような恥ずかしい話で……限界になったりしませんかね」
「一回しか使えないでしょそれ」
「……少ないとは言え依頼は有りますからね。却下。――今何%くらいですか?」
「結局パーセント聞くだけになるんだから。まだ60%」
ミノリがコーヒーを――急いで飲めるようにアイスコーヒーだ――喉を鳴らして飲む。
「ねえ、思いつきで言うけど、くすぐる、とかは?」
「僕の趣味じゃない、というか嫌です。腕力で捻じ伏せる系は嫌いなんですよ。いつも言ってるでしょう」
「――気が向いたらやってみて。あたしは構わないから」
スーツの上から、いかにも筋肉がありますという風体の扇ではない。
いざとなれば無双に近いけど。
ミノリにはそう思える。
――90%まで来ている予感があった。
いや、体感だ。
ミノリは嫌な汗をかいていた。尿意が限界だ。
「そろそろどうでしょう?」
「90%。ヒントないのヒント。あんたのことだから考えが発散してるんでしょ」
「潰すには選択肢がないと。――認めますけどね」
「勘でも何でもいいから。100%超えは正直きついの! まだ何にも思い付かない」
「……だから頼んでるんじゃないですか。毎回申し訳ないとは思ってますよ?」
「あたしが雇用主だからいいの。変な気使うな扇助手。――来た来た来た来た来た来た来た――待って待って待って待って纏まらない。うーーーーーーーーーー」
「どうしようもなければ、明日にでも」
「見えて来てる見えて来てる……何? 目が四つ?」
「……記録してますよ。さっきから。どうぞ」
「あと、さっきの光ったやつ! ……無理無理無理無理無理無理無理無理……で、近くの林! もう、もうトイレ」
ダッシュして行くミノリの足音を聞いたのは何度目だろう。
扇はふと感慨に耽りそうになるのを抑えて、行動計画を練る。
林……捜索か。魅美を使えれば。三人がかりならば、いつも通り巻風刑事の手柄には成るだろう。何日かかるかはまた別の話だ。
目が四つ。光ったやつ。大体の想像は扇にはついていた。
探して見つかるならば僥倖と言うべきだ。
それから数日、自然に朽ちた木と密に生えた灌木の間を走り回った。
目的の物は諦めた頃に見つかった。
喫茶店、ルジボーで扇とミノリは「巻風このみ」刑事と向かい合わせで座っていた。
昨日もアイスコーヒーを急いで飲んだミノリは、美味しいとはいえ店のコーヒーからやや距離を置く感じだった。
「いつも有難うございます。お手上げでしたから。こんなに早く解決するとは」
「ほぼ、ミノリさんの推理力のおかげです」
嘘ではない。
「犯人の写真まで……」
「住所も当然、判明しています。凶器というか、犯行で使われたものは後で車のトランクまで運びます。鑑識に回せば詳しいことはわかるかと」
「……動機は聞かない約束でしたね」
「そちらで念入りにどうぞ。僕たちの範囲はここまでです」
「では何でも頼んで下さいね。謝礼はこちらの封筒に」
巻風刑事は優雅な物腰で、封筒を手渡す。
彼女も大変なのだ――と扇は思う。着任後は「何も起こらない」ようであって裏では葬られている事件に驚きを隠せないようだった。今は敏腕――代行しているけれど敏腕でいい――刑事として、事件性なし、と判断された事案を片端から解決している。
一助になればそれでいい。さらに言うと謝礼が貰えればいい。
ルジボーはビーフシチューが美味い。ミノリも頼んでいた。ここで栄養をつけておく。
さらに扇はステーキを、ミノリはハンバーグを注文していた。
普段、肉が足りないのだ。幸い植物性タンパクは摂れているけれども。
「……食事くらいならどうにでもなりますよ?」
巻風刑事も、かなりの資産家だ。実家が凄い。
「いえ、依頼も謝礼もないのに食べる気にはなれません」
そんな状態に慣れたら、ミノリはそれこそ何もしなくなる。
三日分は食べて店を出た。巻風刑事の笑顔が眩しく見えた。
「ねえ、あれ何なの? 見つけたのはいいけどさ。結局」
「目が四つで光るもの。……「推理」通りの物。もう動かないと思いますよ」
誰でも手に入る。ちょっとした改造はしてある。最近は農業でも使う。
扇たちの名前は伏せて貰っている。
本当に「呪われて」しまっては困るからだ。