「第三十二章」「スタートライン(8)」
そんな休憩時間のみの地獄のタンデム走行が4回めになった時に、田村が言った。
「そろそろ握力無いでしょう。」
怖すぎて田村の肩を強引に握りしめていた、日菜乃のての握力は殆どなくて、何時振り落とされてもおかしくないぐらいだった。
「もう・・・・限界が近いです・・・・。」
そう言った日菜乃に、田村はニコニコして言った。
「私と同じように少しだけ傾いた方に身体を傾けたら、そんなに掴んでなくても大丈夫だよ~~。」
「そんな恐ろしいこと・・・・・」
それがいい終わる前に田村は発進した。
「ひいっ。」
人間は、全身が地面に対して傾くという感覚には「恐怖」を感じる生き物だ。
今まで身につけてきたバランス感覚にしてみれば、倒れる寸前の異常事態だから。
たとえ10度傾くだけで、違和感と、物凄く傾いている錯覚を感じる。
本人は精一杯バンクしているつもりでも、はたから見ればバイクは全然傾いていないなどはよくある話だ。それほど、人間は傾きに対しては敏感だ。
自覚は無くとも、僅かでも傾いた家で生活をすると体調がおかしくなるほどに。
恐怖心を取り除くためには、この態度の傾きは大丈夫なんだ。と、身体と脳に教えるしか無い。
もう握力のない日菜乃は、田村の言ったように身体を傾けないと、確実に振り落とされそうだった。
恐怖の限界で、日菜乃は田村と同じ方向に少しずつ身体を傾け始めた。
すると、今まで日菜乃を振り回していた荷重が、シートの上のお尻の部分に、身体をどっしりと押し付けてくるようになった。
安定感と安心感が生まれた。
「コースを先読みして傾けないと、身体を切り返せないよ~~。」
(そんなの無理です。)
コースを駆け抜けながらの言葉にそんなことを言う余裕もなかった。
S字もクランクもそれで抜けた。
タイミングが合わずに、日菜乃はなんども、振り落とされたかと思った。
そのまま2周をして、バイクは止まった。
「はい、お疲れ~~。」
日菜乃は返事もせずにベンチに倒れ込んだ。
緊張と恐怖から、心臓の激しい鼓動と、肺を抜ける荒い息しか出なかった。
(私・・・ここで殺されるかも・・・・・・)
日菜乃は真面目にそう思った。
それを覗き込んで田村はニコニコしたままで言った。
「はい。今日はここまで。おつかれさん~~~。」
ハアハア息をしながら、その笑顔に日菜乃は、田村のこの穏やかな顔の下は、恐ろしい悪魔ではないのかと思い始めた。




