「第十五章」「「叶恋」と「杏樹」(1)」
「杏樹。悪いけどちょ~っとだけ。寄っていいかな?」
(ほら・・またきたわ。)
父親の運転する高級車の後ろの座席で、杏樹はため息を付いた。
その行動に父親は、ビクッとした。
「ほ、ほら、高校入学祝いの買い物には一日付き合ったじゃなか。な~ちょっとだけだからさ。」
(言い出すと絶対に行くくせに。)
「いいですわ。せめて2時間以内で終わらせてください。お父様。」
「わかった!ありがとう。」
父親はテンションが上り、鼻歌を歌いながら、車の進行方向を変えた。
日頃多忙で休みも少なく、気分転換もままならない父親が、唯一気晴らしができる場所。
それが解っているから、しぶしぶ杏樹は了承した。
杏樹とっては、最低から5番目くらいに暇で退屈な場所だったが、父親の喜ぶ姿のためなら仕方あるまい。と割り切った。
家族の中で、父親のこの行為に賛同するものは誰もいない。
まだ秘密を共有できるのは杏樹くらいのものだろう。
末っ子の杏樹と父親は、家の中でも格別に仲の良い方だった。
「よし着いたぞ。」
杏樹のテンションとは裏腹に、父親は上機嫌で車のドアを開けた。
仕方なく、のそのそと杏樹も車を降りた。
目の前の巨大な看板には「日下部ドライビングスクール」とデカデカと書かれていた。
杏樹の父親が5年前に買収した、いわゆる「教習所」である。
父親は買収と同時にリニューアルにかなり力を入れて、設備もシステムも最新になり、人気の教習所となっているらしい。
「免許取るなら「日下部かな」。予約取れなかったら他を考えるよ。」
このあたりで免許を取る人がみんな言うセリフだった。
「よし行こう。」
そう言って歩き出す父親は、ロビーなどには向かわない。
「社長」「社長」言われるために父親はここに来たわけではない。
むしろキョロキョロして、誰にも見つかりたくない雰囲気だ。
この点は杏樹も救われている。
毎回ロビーを通って「お嬢様」とか何人もに言われていたら、ここは最低から2番目くらいに来たくない場所になっていただろう。
いつものように二人は、真っ直ぐに二輪車の教習コースへ向かった。
走り抜ける多数のバイクのエンジン音。
横顔を見るだけでそれを眺める父親のテンションが上っているのが解る。
10秒ほど足を止めて、教習を受ける10台近くのバイクを眺めてから、父親は教官室に向かった。
父親のお目当ての人物は、生徒たちを引き連れてコースを走っていたが、こちらに気がついたのか、マイクで生徒たちにコース周回を支持すると、グオンとバイクを信じられない小回りでターンさせて、こちらに近寄ってきた。
「社長。いらっしゃい。杏樹ちゃんもいらっしゃい。」
ヘルメットを取ると丸顔の人の良さそうなおじさんが、いつものニコニコしている笑顔を見せた。
「田村さん。お久しぶりです。」
社長である父のほうがどう見ても低姿勢だった。
バイクが唯一の趣味の父親は、この教習所で一番力を入れたのは、二輪教習のスタッフだった。
技術のある教官をこれでもかと集めた。
その中でも「田村弘行さん」は別格で、二輪教官達が競い合う技能全国大会で何度も優勝している、バイクの達人だった。
父親は彼を引き抜くのに何度も彼の元にお願いに上がったそうだ。
温厚そうで、のんびりとした雰囲気で、いつもニコニコしていて、とてもそんな凄い人には見えないのが、杏樹には違和感だらけだった。
何かをなし得るには、その努力と熱意が必要で、本人が意識しなくてもオーラのようなものを纏っている感じがすることが多い。
だが、この田村さんからは何も感じない。
(本物?)
と疑ったこともあるくらいだ。
父親がこの田村さんとバイクのことで話し始めると、杏樹は自分の役目はここまでと、軽く会釈をして二輪教習全体が見渡せるベンチに腰掛け、ぼんやりと走っている教習生たちを眺めた。