turn
彼女は確かに学校に来てはいた。ああ、いるな、と。窓際、後ろから三番目の席に座る彼女の、そのまた一つ後ろの席から僕が顔を上げるたび、そう思う程度にはそこにいた。
彼女は毎日本を読んでいた。授業も聞かずに一日中。小説だったり、評論だったり、随筆だったりした。先生に気づかれぬように机とその上の教科書類やティッシュボックスなんかを利用して築き上げた砦に身を隠し、彼女は自分の世界を毎日生きていたのだと思う。先生に見つかるか見つからないか、そんなスリルを楽しむでもなく。ノートを取らないことについて指摘してくる先生は少なく、多分平常点を何も言わずに下げていたりするのだろう。先生から死角になるように机の左下に本を匿い、顎も左下に向けて彼女は日々を過ごしていたから、僕には彼女の体からはみ出た左側のページの更に左約五分の二程度が見えることが多かった。
僕は大して読書をする向きでもなく、彼女の読む本の題名を見ても殆ど心当たりはなかった。話題作や新作、そういったものを意図的に選ばない様にしているのではないかと思うほどで、いつもちらと題名が目に入っては、なーんだ、また知らないやつか、と顔を上げて黒板転写に没頭していった。そんな彼女の或る真冬の日の選択は、珍しくも僕のよく知る、というか僕をその作者のファンにした作品だった。僕は自身の内から沸き上がる感情が思いの外に多かったことに少なからず動揺した。それが驚愕であるのか喜びであるのか、その他の何かなのかは分らないけれど僕は特別ではない日常としてある彼女という、いわば生活の付属品、毎日通る道にある薬局のマスコットや母親がよく着ている服の様なもの、そこに差し挟まれた自身の中枢の一画を占めるアイデンティティーに敏感に感応していた。それだけは確かだった。
僕は授業を見失い、消しゴムを午前中で四度も落とした。そんな日もあるだろうと考えることもできたが、そこに自身のつまらない共感への飽くなき欲求がある様にも思えて気が気でなかった。そんなのはごめんだと思った。
視線は宙を彷徨い、恒星の周囲に侵入した隕石がぐるぐる弧を描いて落ちていくみたいに彼女の手元に吸い込まれた。頁が捲られていく、僕は、三人の銀行員が笑いながら輪になって踊っている挿し絵に指をさして、彼らの重要性について彼女に話したくて堪らなくなった。彼女にはお気の毒だが誰かとあの本の話をするためなら急に声をかけてもいいのでは無いかと僕は思い始めていた。
やあ、話すのは初めてかな?その本、僕も好きでさ、ちょっと気になってたんだ。君は主人公と宇宙人のどっちが悪いと思う?
なんて風に声を掛けても少しもおかしく無いと思う。思った。しかし次の瞬間には自分がどれだけアホらしいことをしようとしていたかに気付き赤面した。次いで赤面したことに赤面した。声くらい、掛ければいいじゃないか。ちょっと話して、それでおしまい。僕は自分の好きな本の話をできてスッキリ、彼女はもう邪魔されることなく本を読めて万歳。
僕の心中の右往左往の振動が、何かの間違いで外に漏れ出て隣の岩山さんにバレてるんじゃないかと心配になった。こんなに考えることないのだ、ちょっと神経質すぎるな。それもこれも彼女が急に僕の心の水面を波立たせるポテンシャルに溢れる本を持ち出すからいけないのだ。それが悪い。運が良くなかった。
岩山さんの脳内でどのニューロンがどう発火していても本当はどうでもいいんだけど、どうしても気になってチラリと見てしまった。
大丈夫、隣の奴を気味悪がったり、妙な行動を嘲笑い面白がったりしている訳では無さそうだ。つまらない授業の板書を意味も分らず写経しているのだろう。僕もそうしようと思い、黒板の前でこちらに背を向けたワイシャツ男を眺める。しかし、暫くするとまた岩山さんが心配になってきた。僕がページの捲れる音のたび角度次第で見え隠れする彼女の手元を探してしまうからである。
またちらと岩山さんを見る、それを三度、遂に目が合った。
負けた気がした。
そんなことがあった日の、翌日。
自宅で目を覚ました平日の朝三時頃。
空腹だったので血液に早くブドウ糖が回るように台所の砂糖を舐めた。何時もの世界じゃないような気がする。外はまだ暗い。非日常に駆り立てられるのは若者だからかもしれないけど、若者じゃないような心地でいたかった。そういう冬の早朝の非日常が欲しかった。
昨日放り出したままの通学鞄が見える、今日、彼女は来ているかなぁ。
あ、クールじゃない。しかも、何の話だかさっぱり。やっぱりまだ寝起きだから。
窓を開く。
寒い。
しんしんとも聞こえない程深々と雪の気配がする。昨晩は吹雪いていた。
散歩は今の自分の心の抱える要素全ての要望を叶える案だと思い、寝間着の上からコートを羽織る。思い立って、湯沸しを掛けたまま市販の食パンを四枚袋から取り出し、二色のジャムをパン対にそれぞれ適当に挟んでラップに包んだ。スープポットに即席のコーンスープを作りもしてそれらを通学鞄に入れる。本棚に見えた黄色い表紙も入れる。
一寸歩いた。あぁ、何処に行こうか……暗くて寒くて心細い。傘は屹度自分には及びもつかない程緩慢な重さの変化をしている。足の裏がサクサクして踝が冷たかった。
途方も無い距離を歩いた人みたいな心地がしていた。何処を歩いているかは良く分らないけど、坂道に差し掛かっていて、自分の海面からの高さと悲しみが対応していた。下らない事をしている。でもこの前はもっと下らないことをしたはずだ。岩山さんに不当な評価をされたに違いない。下手をすれば他の皆にも。でもそれは仕方がなく、全て本のせいだった。弁明の機会は無い、世の中とは得てしてそういうものだとは心得ていた。鞄から『黄色いカモメ』を取り出す。今何故か彼女とこの本の話をしておかなかったことをとても後悔していた。まるで宝石を無くした様な、受験を棒に振った様な、大切な人が死んでしまったかの様な気分。彼女が次の本に移ってしまえばもう声を掛けようとも思わず、只泥の様なやりきれなさが纏わりついて長く残るであろう。しかし彼女はもうこんな普通の長さの本とっくに読み終わってしまっているに違いなく。記憶の中最後の彼女はもう違う本を読んでいた気もした。気に入って、読み返しでもしない限り駄目なんだ……
悲しかった。ぼうと風が吹いて僕は本を庇い、傘はやっと解放されて大空へ飛び立っていった。雪が強い、まだかなり薄暗い。顔面が熱く、痛かった。涙が出ているかは分からなかった。
何か柵の間を潜って進み、見つけた木の下に入る。本をしまう。僕がここに来るのを待ってたみたいに雪が止む、風が最後に一際大きく唸り畝ってこれも又止む。
遠く地平少し上の暗雲の上辺から光の筋が幾本か出たと思ったら、まるで半分が身を乗り出したかの様にお天道様が出た。
ざーっと雪景色が展開される。眩しい。ここは坂の上の公園だった。確かに見覚えがある。晴れではないけれどさっきまで吹雪いていたのが理不尽なくらい綺麗に白い雲が照らされていて、僕の住む町が良く見えた。寒い、今までも吐く息は皆煙っていたのだろうけれどそれが今日初めてキラキラ見えた。学校の誰もいない校舎が結構近くに見える。僕と彼女の机も窓から辛うじて見える。学校より家の方が随分遠い。
ここで朝食をとることに決めた僕はパノラマを堪能できる良いベンチを見つけてスープを飲んだ。あったかい、量が足りない。サンドイッチも一つ食べ、雪を払って横になり、本を開く。先ほどの空しさが消えたわけでは無かったが、幾分マシになり、こんなところで寝たら死ぬだろうと思いつつも僕は眠ってしまった。
目を覚ますとそこは雪国で、体は液体窒素を掛けられたブロンズ像の様に冷え切っていた。木が傘になったのか体に雪は積もっていなかった。しかし周囲は僕が立っても腰から下の隠れてしまうような有様だった。眼下を覗くと活気に溢れる街が見えた。公園の時計を確認する。時刻は既に始業五分前。鞄も偶然持ってきているし、このまま登校するしかないようだ。このような高い場所から何かを叫ばなくていいのかとも思ったが、思い切りやるのは次来た時にしようと決めて、普通より少し大きい位の声量で馬鹿野郎と呟いてから歩き始めた。
抜けてきた柵から坂道へ戻って歩き出す。さく。さく。学校にはすぐについて、しかして既に始業のチャイムは鳴り終わっている時間だった。下駄箱に手を掛ける。内履きを放り出して片足ずつ突っ込む。コートのチャックを下ろし始めたところで声を上げそうになった。迂闊にも僕は午前三時の寝惚けた頭で寝間着の上にコートを引っ掛けて家を後にして来たらしい。狼狽を極める僕に、何故かこんな時間に玄関付近をうろついている担任の先生が近づいてきた。今日の一限は先生の授業の筈……僕はなおも混乱の中におり、先生は不思議そうな顔で問い掛けてきた。
「今日、大雪で休校だぞ?各家庭にメール送ったはずだが……」
そうでしたか、と返事をするのが精一杯で、僕は外履きを履き直して学校を後にした。さてこそ本日は非日常だった。学校から家へと向かう道、一際柔らかそうに積もった雪に無性に飛び込みたくなって、僕は欲望に忠実になった。全身が雪塗れで中々にひんやり爽快だった。声をあげて笑ってしまってからふと顔を上げると、目が合った。ここが坂の上のそれとは別の公園なのも、丁度東屋目の前なのも日頃横目に通学しているから知っていたが流石にこれは想定外極まる。彼女が、居た。居眠りでもしていたのか、乱れた髪と丁度頭の形に凹んだバッグが目についた。そしてその膝には……「黄色いカモメ」。雲の切れ間から光がゆっくりと降りてきて。倒れこんでいる僕と若干見下ろしがちな彼女を包み込んだ。雪塗れのまま、倒れこんだまま、呟いたのは照れ隠しだったのかもしれないけど、この際何だって構わないと思った。
「あのさ。」
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turn(動詞) - 振り向く、曲がる、ページをめくる
turn(名詞) - 曲がり角、方向転換、変わり目