第四話 日下部梨央
ほんとうに昨日は最低な日だった。
いつもより少しだけ遅く家に帰ったら、お兄ちゃんにほっぺたを叩かれた。
信じられない。ありえない。妹のことを殴るなんて。
だいたいお兄ちゃんはうるさすぎるんだ。男のくせに細かいことばっかり。
ああ、もっと優しくて面白くてカッコイイお兄ちゃんだったらよかったのに。
吹奏楽部の部長なんかじゃなくて、サッカー部とかバスケ部とかのキャプテンだったら、友達に自慢できたのに。
あー、もうマジ最悪。
お兄ちゃんなんか、大っ嫌い。
*
朝、教室に入る前は、念入りに自分の姿をチェックする。
スカートの長さおかしくないかな? 髪の色似合ってるかな? メイクは大丈夫かな? 派手過ぎないかな? 地味過ぎないかな? みんなから浮いてないかな?
開いている教室のドアから、騒がしい声が聞こえる。
うちの学校はちょっとおかしくて、夏休みだというのに『補習』という名の登校日が週に一回ある。今日がその登校日で、あたしは一週間ぶりに教室へ入る。ちょっとだけ足を震わせながら。
教室の真ん中あたりに、女の子たちが固まっていた。その中心で笑っているのが、クラスの中でも一番目立つ椎名美咲妃だ。あたしはそんな彼女の姿に向かって、ゆっくりと近づいていく。
頭からつま先まで、ピリピリと緊張が走る。
「あ、梨央」
ひとりの女の子があたしに気づいてくれた。
「おはよう」
「お、おはよう」
「ねぇ、聞いてよ、梨央。美咲妃ってば、青山くんに告られたんだってー」
話しかけられて、あたしの緊張がほどけていく。笑顔を作って、みんなの輪の中へ飛び込む。
「え、青山くんって、あのバスケ部の?」
「そうそう、あの背が高くてイケメンの」
「ヤバ……すごいじゃん」
あたしの声に、美咲妃が余裕の表情でふっと笑う。
「どこがすごいのよ? うち青山くんのことなんて、なんとも思ってないし」
「じゃあなんて答えたの?」
「『お友達でいましょ』でしょ? そこは」
「ぎゃー、美咲妃、もったいねー」
「だよねぇ。あたし、青山くんだったら全然OKなのにー」
笑い声が響いて、あたしも一緒に笑う。
大丈夫、大丈夫だ。今日もあたしはちゃんと、このグループになじんでる。
「うるせーぞ、お前ら」
数人の男子が笑いながらあたしたちのそばに寄ってきた。
オシャレでカッコよくて、クラスの中でも目立ってる男の子たちだ。
ふと顔を上げたらその中のひとりと目が合って、あたしはさりげなく視線をそらす。
「朝から男の話かよー」
「お前ら、そればっかり」
「うるさいなー、うちらの話立ち聞きすんなよ」
あたしたちが笑って、男の子たちも笑う。あたしたちはいつだって教室の中心にいる。地味で目立たない子たちの上にいる。
よかった。高校は、楽しい。
三年前、あたしが中学一年生の時、お母さんが家を出て行った。
「ごめんね、梨央」
お母さんは泣きながらそう言って、あたしとお兄ちゃんを捨てた。
学校から帰ると、いつもいたお母さんがいない。お父さんは仕事で家に帰らないことが多かったし、お兄ちゃんは部活で帰りが遅い。
あたしは誰もいないリビングでお菓子を食べながら、お兄ちゃんが帰ってくるのをいつも待っていた。
お母さんは、どうしてあたしたちを連れて行ってくれなかったんだろう。
あたしたちのことなんか、どうでもよかったのかな。
ひとりでそんなことを考えていると寂しくなって、あたしはそれを紛らわすように、ひたすらお菓子を食べ続け、五キロも太った。
そしてそんな頃、あたしは学校でもひとりになった。
小学生の頃のあたしは、男の子と遊んでばかりいて、女の子の友達があまりいなかった。それでも小さい頃はよかったんだ。
それが中学になると、男の子はあたしと遊んでくれなくなった。気がついたら、教室の中には仲良しグループができていて、その時はじめて「やばいかも」と思い始めた。
でも女の子との付き合い方がわからなかったあたしは、何気なく言った一言で、クラスのリーダー的存在の女子を怒らせてしまった。
今でも……何が間違っていたのかよくわからない。
彼女の怒りがクラス中の女子に広まって、みんなから体型のことでからかわれたり、無視されたりするようになるまで、大した時間はかからなかった。
それからの三年間は思い出したくもない。
中三の冬、あたしは家から遠い、誰も受けないような高校を受験した。あたしのことを誰も知らない学校へ行って、ダイエットをして可愛くなって、今度こそは間違えないようにしようと心に誓った。
「まーた、菓子食ってる」
休み時間、家から持ってきたポッキーをかじっていたら、隣からにゅっと手が伸びた。
「あー、なにすんの! 由良!」
「お前、菓子食い過ぎ。太るぞ?」
そんなことを言いながらあたしのポッキーを勝手に食べ始めたのは、今朝あたしと目が合った、由良洸介だ。
由良もあの目立つ男子グループにいる。髪を茶色く染めていてちょっとチャラい。でもあたしの友達の間ではけっこう人気がある。
「太るとか女子に向かって言う言葉? セクハラだよ、それって」
「は? お前女子だっけ? 知らなかったよ」
そう言ってはははっと笑うと、由良はまたあたしのポッキーに手を伸ばす。あたしはその手をパチンと叩く。
「いい加減にしろよっ」
「いいじゃん、もう一本。まだバッグの中にひと箱持ってるんだろ?」
違うよ、あと二箱だもん。バッグの中には常にお菓子が入っていないと落ち着かないんだ。
「ちょうだい。もう一本」
「うるさいなぁ、あと一本だけだよ?」
そう言って由良に一本差し出す。あたしの手からポッキーをつまんだ由良は、子どもみたいに嬉しそうに笑う。
あ、なんかヤバい。
どうしてかな。見慣れた顔のはずなのに、こんなふうに無邪気に笑いかけられると、あたしの心臓がどきどきいう。
由良はいつも笑ってる。
男子とくだらない話をしながら。女子にからかわれながら。
だいたいいつも笑ってる。
それに由良はクラスの誰にでも話しかける。あのグループの男子は、だいたい同じように目立つ女子としか話さないのに、由良は目立たない女の子にも普通に話しかける。
でもあたしは由良のそういうところ、けっこう好きだったりする。
窓から差し込む日差しが、由良の髪を明るく照らした。
由良は夏の日差しがよく似合う。そして由良と付き合う女の子も、きっと明るい女の子なんだろうななんて、なんとなく思う。
放課後になると、あたしは急いで帰りの支度をして、みんなのところへ集まる。
「帰りどっか寄ってく?」
「カラオケ行こうよ」
「いいねー、行こ行こ!」
カラオケかぁ……。あたし、ちょっと苦手なんだよね。
「梨央も行くでしょ?」
聞かれたあたしは笑顔で答える。
「うん。もちろん」
あたしはもう、ひとりぼっちにはなりたくない。
みんなで騒ぎながら教室を出る。今日も帰りは遅くなりそうだ。またお兄ちゃんに文句を言われる。
でもしょうがないじゃん。「ほんとは行きたくない」なんて絶対言えない。
「梨央」
突然背中に声をかけられた。ゆっくり振り返ると、そこに由良が立っていた。
「なに?」
「ちょっとさぁ、頼みがあるんだけど」
由良がにこにこ笑いながらあたしに言う。
「英語教えてくんない? 今日の授業さっぱりわかんなくて。来週のテストで点数悪かったら、さらに補習だろ? そんなんで夏休みつぶれるなんて絶対ヤダし」
「なんであたし?」
「だってお前得意じゃん、英語だけは」
ははっと笑う由良の肩をどんっと押す。由良はどこまで本気なのか「お礼にポッキー一箱買ってあげるから」なんて言ってる。
「梨央と由良って、仲良いよね?」
美咲妃の声が聞こえてハッとする。
「仲なんて良くないよ」
「良いじゃん。教えてあげれば? お勉強」
「でもこれからカラオケ……」
「カラオケなんかいつでも行けるっしょ?」
美咲妃が笑ってあたしの背中を押すから、あたしは由良にくっつきそうになった。それが恥ずかしくて、あたしはごまかすように言う。
「じゃあ、ポッキー二箱で」
「は? 一箱で十分だろ?」
「あたしの授業料は高いの!」
みんなが笑って、じゃあねー梨央、由良と仲良くねー、なんて言いながら教室を出て行く。
女の子のはしゃぎ声が聞こえなくなったら、やけに教室の中は静かになった。
「えっと、じゃあ勉強……」
いつの間にか教室の中にいるのは、由良とあたしだけになっていた。途端に体中が緊張してしまう。
けれどそんなあたしの前で、由良が言う。
「あー、やっぱいいや」
「は?」
「これから勉強とかだるいし。やっぱ帰ろ」
「はー? なに言ってんの? だったらあたし、みんなとカラオケ行きたかったのにー」
そう言ったあたしの耳に、由良の声が聞こえた。
「ほんとにそう思ってる?」
胸がちくりと痛んで、あたしはゆっくりと由良のことを見る。
「ほんとにカラオケ行きたかったの?」
由良と目が合う。由良はなんでもわかっているような顔つきで、あたしに笑いかける。
「なに……言ってんの?」
「いや、ほんとはお前さ。カラオケ行きたくないのかなーなんて思って」
そうだよ。その通りだよ。本当はカラオケなんか行きたくなかった。
「あたった?」
いたずらっぽい顔をして、由良があたしのことをのぞきこんでくるから、あたしは息を吐くように答えた。
「あたりだよ。あたし、ジャイアン級に超音痴だから」
由良がおかしそうに笑い出す。
「そんなに笑うことないでしょー」
「いいじゃん、いいじゃん。じゃあ一緒に帰らない? 俺と」
突然の由良の言葉に体が固まる。心臓がどきどきいって、おかしくなりそう。いや、もう、おかしくなってる。
「……ポッキーは、もらうからね?」
やっとのことであたしが言うと、由良はまた声を立てて笑った。
その日は由良と一緒に帰った。
あたしの隣を由良が歩いてる。肩に掛けた学校指定のバッグに、ストラップをじゃらじゃら揺らして。
その中のひとつをあたしもつけてる。偶然を装って、こっそり由良とおそろいのを買っちゃったんだ。
途中のコンビニに寄って、由良はあたしにポッキーをおごってくれた。期間限定の貴重なやつだ。
あたしはそれをバッグの中にしまう。大事に大事にしまう。
「お前さぁ、ほんとにお菓子好きだよな?」
並んで歩きながら、隣の由良があたしに言う。同じ制服を着た女の子たちが、ちらちらと由良のことを見てる。
由良と一緒にいると、あたしまで目立ってしまってちょっと困る。でもちょっと嬉しい。
「うん。お菓子があると落ち着くの」
「やばくね? それって」
「そだね。たぶんお菓子中毒? 三食お菓子でも大丈夫だし」
「やばいって、お前。マジでそれ」
由良が笑って、あたしも笑う。
由良と一緒の帰り道は、なんだかすごく楽しかった。
「梨央。あんたこの前、勉強なんてしなかったんでしょ?」
翌週、教室へ向かって廊下を歩いていたあたしの前に、美咲妃が現れてそう言った。
「え……なんで?」
あたしの体がぎゅっとこわばる。美咲妃は怒った顔をしている。周りの女の子達も、あたしを囲むように見ている。
「勉強なんて嘘で、由良と一緒に帰ったんでしょ? うちらとのカラオケ断って」
「あ、それは……」
言葉が上手く出てこない。何か言わなきゃ。何か上手な説明を……。
「梨央ってさ、由良のこと、好きなの?」
美咲妃が言う。他の女の子たちは黙っている。誰も笑ったりしていない。背筋がすうっと寒くなる。
「好き……なんかじゃない」
「じゃあなんなの? うちらをだましてこそこそと」
「べつにだましてなんかないよ。あたしはただ……」
美咲妃の手があたしのバッグをつかむ。由良とおそろいのストラップが揺れる。
美咲妃は勝手にファスナーを開け、それを床に放り投げた。バッグの中からばらばらとお菓子が散らばる。あの日、由良に買ってもらったポッキーも。
「まーたこんなにお菓子買って。あんた太ったんじゃない?」
美咲妃の声が耳から入り込み、頭の中を抉ってくる。
「由良に誘われて浮かれてんじゃねーよ。あんたみたいなデブ、好きになる男なんているわけねーじゃん」
床に膝をついて、お菓子を拾い集める。そんなあたしの上から、美咲妃の笑い声が聞こえる。その笑い声に、他のみんなの笑い声が重なる。
あたし……また間違えちゃったのかな。どこで間違えちゃったのかな。
美咲妃たちの足音が離れていく。あたしは廊下を這いつくばるようにして、バッグの中身をかき集める。
話したこともない同じクラスの地味な子が、憐れむような目つきであたしを見ているのがわかった。
「どうしたの?」
その声に、あたしはハッと手を止める。
「なにばらまいてんだよ? こんなところで」
おかしそうに笑いながら、由良があたしの前にしゃがみ込む。ポッキーの箱を拾って「ほら」とあたしに差し出してくれる。
目の前に由良の顔が見えた。そしてその向こうに、そんなあたしたちの様子をうかがっている美咲妃たちの姿が見える。
『由良に誘われて浮かれてんじゃねーよ』
ああ、そうか。そうだよね。どんな子にも気軽に話しかけてくれる由良だから……だからあたしみたいな子にも、話しかけてくれたんだよね。
あたしだけが――特別なんかじゃなかった。
あたしは由良の手からポッキーの箱をひったくると、それを乱暴にバッグの中へ押し込んだ。
「梨央?」
不思議そうな顔をしている由良を残し、あたしは何も言わずその場を立ち去る。
そして長い廊下を真っ直ぐ走って、そのままトイレへ駆け込んだ。
『あんた太ったんじゃない?』
美咲妃の声とみんなの笑い声が、中学の記憶と重なる。
あたしはその場にうずくまると、胃の中の物を全部便器に吐き出した。