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第一話 瀬戸翔馬

『プロ野球選手に、おれはなる!』


 小学校の卒業文集に印刷された『みんなの将来の夢』。

 誰よりも下手くそな字のくせに、やけに自信たっぷりに、漫画の主人公みたいな言葉を書いているのは十二歳の俺。

『自分を信じて追い続ければ、夢は必ず叶うものです』

 そう言った担任の先生の言葉に、何の疑いも持っていなかった。

 バカだな、ほんと。小学生なんて。

 そんなものなれっこないって、十七歳の俺はもう知っている。


 *


「ちょっと翔馬しょうま! ゲームばっかりしてないで、ちゃんと勉強しなさいよ!」

 リビングのソファーに寝ころんで、スマホをいじっていた俺を、追い払うように母さんが言う。

「まったく、部活辞めた途端、毎日家の中でゴロゴロゴロゴロ。だったら塾の夏期講習にでも通ったら? 恋乃実このみちゃんは行き始めたらしいよ?」

 うるさいな。夏休みなんだから、ゴロゴロしてたっていいじゃないか。それにどうしてここで、恋乃実の名前が出てくるわけ?

 母さんがベランダの窓を開ける。ひんやりと冷えていた空気が外へ逃げて、かわりにじめっとした熱気が強引に流れ込んでくる。

 掃除機のスイッチを入れた母さんは、わざとらしく俺のいるソファーの周りを動き回る。ウザいから、自室に戻ろうかとも思ったけれど、二日前からあの部屋のエアコンは壊れてる。

 掃除機の音を無視して、指でスマホの画面を動かし続けた。あきれたようにため息をついた母さんは、掃除機を引きずりながら、ぼそりと口を開く。

「ほんとに……どうして野球辞めちゃったのかしらねぇ、この子は」

 スマホの画面に浮かび上がる『GAME OVER』の文字。

 俺は「ちっ」と誰にも聞こえないような舌打ちをしてから、ソファーから起き上がり、何も言わずにリビングを出た。


 ハーフパンツのポケットにスマホだけを押し込んで、クロックスを履いて外へ出る。

 さっきベランダから流れ込んできたのと同じ、蒸し暑い空気が体にまとわりついてきて、部屋を出たことを少しだけ後悔する。だけど今さら母さんがいるあの部屋に戻る気はしなくて、そのままマンションの廊下をエレベーターへ向かって歩く。

 その時だ。正面からこちらへ向かって歩いてくるその人間に気づいたのは。

「あ……」

 うつむいていたそいつが俺に気づいて口を開く。

「翔馬じゃん……どこ行くの?」

 最悪。マジ最悪。いま一番会いたくない女に会ってしまった。

「別にどこだっていいだろ」

 不機嫌な俺の少し前で立ち止まったのは、生まれた時から同じマンションの同じ階に住んでいる、同い年の逢沢恋乃実。

 俺と同じ高校の制服を着ている恋乃実は、手に楽器の入ったケースをぶら下げている。午前中の部活が終わって、自転車で帰ってきたところなんだろう。ボブカットの前髪が少し汗ばんで、額にぺったりと張り付いている。

「ふうん。いいね。部活辞めて暇な人は」

 カチンと何かが、頭の中でぶつかり合うような音が聞こえて、俺はそこで足を止めた。だけどそれと同時に恋乃実が歩き出し、俺のすぐ横をすり抜けていく。

「おいっ……」

 振り返って恋乃実の背中に叫んだ。けれど恋乃実はすでに自分の家のドアを開けていて、振り向きもせずに中へ入って行く。

 見慣れたチェックのスカートが最後に揺れて、重たいドアが何もかもを閉ざすかのようにガシャンと閉まった。


 悪かったな、暇人で。悪かったな、塾行ってなくて。悪かったな、部活辞めて。

「くそっ」

 無性にイライラした。最近ずっとこんな感じだ。一学期の終わりに部活を辞めてからずっと。

 マンションのエントランスを出て、行き先も考えず、じりじりと焦げ付くようなアスファルトの上を歩く。

 真夏の日差しは容赦なく、少しだけ伸びた坊主頭に降り注ぎ、喉が渇いたと思って自販機の前で立ち止まり、財布を持っていないことに気づく。

 バカだ、俺は。何もかもがついていない。

 とりあえず涼しそうな場所を求めて、駅へと続く道を歩く。野球のユニフォームを着た小学生がふたり、自転車で前から走ってくるのが見えて、俺はさりげなく目をそらす。

 通りかかったコンビニの、自動ドアがすうっと開いた。客が出てくるのと同時に冷気をふわっと感じたけれど、財布を持っていないから、店へ入るのは気が引けた。

 立ち読みでもするふりをして、少し涼んで出てくればいいのに。だけどそれは店に悪いなんて思ってしまう、ヘンに生真面目というか、そういう勇気のない自分が嫌になる。

 コンビニの前を通り過ぎて少し歩くと、公園が見えてきた。子どもの頃よく遊んだ公園だ。そこにベンチがあったことを思い出して、俺は足を速めた。


 公園のベンチはちょうど木陰になっていて、運が良いことに誰も座っていなかった。というより、こんな真夏の真っ昼間、遊んでいる子どももいない。

 ベンチに座って、ぼんやりと誰もいない公園を眺めた。公園の半分に滑り台や砂場やちょっとした遊具があって、あとの半分は何もない広場になっている。

 ああ、そう言えば、小学生の頃よくここで、父さんとキャッチボールしたよなぁ。少年野球チームの仲間と、暗くなるまで野球ごっこをして遊んだこともあったっけ。

 あの頃の夢はもちろん『プロ野球選手』。中学生でレギュラーになって活躍して、高校生で甲子園に行って、ドラフト一位で指名されて、五億円プレーヤーになる、なんて、まさに夢を描いていた。

 そんなもの、なれるわけないのに。こんな下手くそなヤツが、プロどころか、甲子園さえも行けるはずはないのに。

 自分で自分をバカにするように、ふっと笑う。


 小学生の俺は、確かに他のみんなより野球が上手かった。中学の野球部でもそうだった。後輩たちから尊敬のまなざしで見られて、親は喜んで応援してくれて、坊主頭のくせに女の子からちょっとだけモテた。

 だから俺はひどい勘違いをしていたのだ。

 親に無理を言って、甲子園にも出場したことのある、野球の強い私立高校を受験させてもらい合格した。他のクラスの知らない生徒たちの間でも「あいつはすごい」と噂になった。

 それが誇らしくて、高校生活がめちゃくちゃ楽しみだった。俺ならやれると思った。甲子園だって夢じゃないってマジで思った。

 だけど知ってしまったんだ。上には上がいるってことを。この程度の実力では、この学校ではレギュラーにさえなれないってことを。

 全国から集まった、百人以上いる部員の中、それでも最初の一年間は必死に努力していた。だけど俺は一年生同士の練習試合にさえ出ることができなかった。風船みたいに大きく膨らんでいた夢が、どんどんしぼんでいくのを感じた。

 二年生になった頃には、もうやる気が失せてきて、周りの仲間との差がひらいていった。真面目に甲子園を目指している連中が、俺のいる世界とは違う、全く別世界の人間に見えた。

 そしてみんなと同じ夢を追えなくなった自分がそこにいることは、なんだかすごく悪いことをしている気持ちになって、俺は部活を辞めた。


「飲む?」

 突然目の前に差し出されたスポーツドリンク。驚いて顔を上げると、さっきの制服姿とは違う、Tシャツにショートパンツをはいた恋乃実が、キンキンに冷えたペットボトルを俺に差し出していた。

 ごくりと乾いた喉が鳴る。だけどあっさり手を差し出すのは、俺のプライドが許さなかった。

「……いらね」

 体と心がかみ合わない。喉が渇いてカラカラなくせに、俺は精一杯の意地を張って顔をそむける。

「あっそ」

 恋乃実がそう言って、ぽすんと俺の隣に座った。恋乃実の熱い体温が、触れそうで触れ合わないむき出しの腕に伝わってくる。

 きゅっと音を立ててキャップを開けた恋乃実が、喉を鳴らしてそれを飲む。ごくんごくんと恋乃実の喉が動くのを、俺は隣からぼんやりと見ていた。

「ふぁー……」

 冷たそうなドリンクを、一気に半分近く飲んだ恋乃実が、息を吐くように言ってから俺のことを見た。俺は慌てて目をそらす。

 きっといま、俺はものすごく、物欲しそうな顔をしていたに違いない。


「ほんっとに、素直じゃないんだから。翔馬は」

 吐き捨てるようにそう言って、恋乃実が立ち上がる。

「じゃね。あたしこれから塾なの」

「ふうん。部活もやって、塾も行って、大変だな」

「まぁね」

 俺に振り向かずにそう言って、恋乃実が歩き出す。

 小柄だけど、ぴんっと背筋を伸ばして歩く恋乃実の背中。もうずっと前から、何度も何度も数えきれないほど、俺はその背中を見ている。

 部活も勉強もなんでも一生懸命で、親からも先生からも『頑張り屋さん』と褒められる恋乃実。そんな恋乃実のことを俺は素直にすごいと思っていたし、そんな彼女と幼なじみでいられることを誇らしく思ったりもしていた。

 それなのに――『頑張り屋さん』な恋乃実のことを、煩わしく感じるようになってしまったのはいつからだろう。

「あ……」

 目線を隣に落としてから、去って行く背中を目で追いかける。一度も振り向かずに歩いて行く恋乃実の背中が、俺の視界から消えていく。

 俺はもう一度、恋乃実の座っていたベンチに目を落とした。

 飲みかけのスポーツドリンクが、そこに置いてある。

「わざとか?」

 そういうのやめてくれないかな。ますます自分が惨めになる。

 ひったくるようにペットボトルをつかんで、それを高く振り上げた。思いっきり地面に叩きつけてやろうかと思ったところで、それをやめた。

 やっぱりバカだ、俺は。


 キャップを開けて、飲みかけのドリンクをごくごくと飲んだ。乾いた体が潤って、生き返っていく気がした。それと同時に、また自分が惨めになる。

 才能がないことに今さら気づいて、なのに努力することも辞めてしまって、子どもみたいにすねて、いじけて……恋乃実に気を使ってもらって……。

 俺はなにをやっているんだろう。

 残ったドリンクを一気に飲み干した。緑の木々の隙間から日差しが差し込む。顔を上げたら、真夏の太陽が目に映って、眩しすぎて目をそらした。

 陽の当たり始めたベンチから立ち上がり、歩き出す。公園の隅にあるゴミ箱めがけて、ボールを投げるようにペットボトルを放る。小さな音を立てて、それはゴミ箱の中に消えた。

「これから……どこに行こう……」

 野球しかやってこなかったから。それしか取り柄がなかったから。

 これからどこへ進めばいいのかわからない。


 公園を出て、またあてもなく歩き始める。

 どこかの家の開けっ放しの窓からテレビの音が聞こえてくる。

 ああ、そうか。甲子園の大会、もう始まってるんだ。うちの学校は、県大会の準決勝で負けたけど。

 試合開始のサイレンの音が耳に聞こえて、それから逃げるように、俺は足を速めた。

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