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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

汚い大人のすること

 宇津木はアルコールに弱い。下戸の家系なのだと、笑って話していたのをよく覚えている。この会社は理解があって助かるとも、彼女は言っていた。確かに、飲み会でノンアルコールの類いを頼んで雰囲気だけ味わうことを許すのは、まだ稀なのだろう。そうであることを、宇津木は知っている。


 そんな彼女に酒を飲ませた私は、きっとずるい大人だ。醜く汚い、下愚。子どもが憧れる姿からはかけ離れた張りぼて、あるいは案山子か。少なくとも、純粋な少年少女諸君は私を人間扱いすることはないに違いない。


 宇津木の家のリビング。いかにもコスパとデザインで悩んだ末にどっちつかずなものを買った風な座卓の上は、コンビニのビニール袋や中身の無くなった皿が散乱していた。端の方にはグラス。逆さにしたところで、そこから一滴だって酒が零れることはない。少し離れた場所に置かれた酒瓶も同じだ。まあ、大半は私が飲んだのだけれど。


 宇津木の姿はそのすぐ側にあった。座卓にはぶつからないように、けれどフローリングに敷いたカーペットからは出ないように。身体を横にして、うつらうつらと起きているのか寝ているのか分からない。酒精のせいだろう、全体的に赤みを帯びた身体の中で、襟の隙間から覗く鎖骨の白さが妙に艶めかしかった。骨の純白さが透けて見えているような。死を想起させる宇津木のそれが綺麗なのだ。


 昔の私が、今の私を見たら。その時はなにを思うだろう。潔癖で理想に燃えていた少女は。ふとそんなことが脳の隅を掠めた。絶望した挙句、首でも括りそうだった。


 宇津木は同僚だ。友人だ、と思っている。彼女もそうなのかは分からない。でも一緒に休日を過ごしたことは何度もあるわけで、おそらくは彼女の中で私は友人にカテゴライズされているはずだ。ただの知り合いなら、何度も共にショッピングや映画鑑賞なんてしないだろう。だったら友人のはずだ。それが「親しい」なら、尚更いい。


 今から私がやろうとしていることは、それを壊す行為だ。彼女の友人であることを願って、彼女の言葉に裏で一喜一憂して、彼女と一緒に過ごす時間を得て、そういう喜びをこれから私は捨てようとしている。自室の机の引き出し、その中にある封筒を思い出す。明日は朝一番にあれを上司に渡すことになる。


 それでも構わなかった。


 本当に? 宇津木に伸ばしかけた手が止まる。本当にいいのか、これで。


 行き場を失った私の右手は、結局彼女の髪へと触れる。本当に、長くて美しい髪だ。どうやったら、こんなに触り心地がよくなるんだろう。どことなく包容力を感じる。短く切っている私とは反対だ。


 髪を梳き、頬を撫で、顔を近づけて、しかしそれでおしまい。それだけで何時間も過ごしているような気分だった。いや、本当にそうなのかもしれない。私も酒を飲み過ぎたのだろうか。そうと思いたかった。頭がくらくらして、時間感覚なんて失って。


 それでも、あと一歩が踏み出せない。踏み出せなくて当然だった。覚悟が足りないのだ。宇津木に嫌われる覚悟なんて、そう簡単にできるわけがなかった。


 これでは案山子以下じゃないか。獣を追い払う分、案山子の方がましだ。つまりあれは、本来の役割を果たしているのだから。辞職願を破り捨てたところで、これではなんの支障もないだろうに。なんのための酒だ。酔った勢いだなんて甘い考えだろう。首を括るどころか、包丁片手にかつての自分が殺しにやってきそうだった。


 ああ、可愛い横顔だな。あどけない表情で、苦しそうにしてないのは私にとっては救いだ。それに見惚れることで、自分の脳が麻痺していっているのが分かる。


 もういいじゃないか、このままで。好きな人の寝顔が見れたなら、それで十分だろうに、どうしてそれ以上を求める必要がある? 悪魔か天使か分からない囁き声。そのまま流されていく。視界がぼやけていく。ピントが宇津木にだけ合っている。指のみが動いて、彼女に触れる。幸せで、充実していた。


 このまま何事もなかったかのように、いつもに戻ればいいだろう? 起きた彼女にお酒飲ませてごめんと謝って、それで、


「……篠原、さぁん……?」


 はっと現実に戻った。宇津木の声が聞こえた。視線を下に向ければ彼女と目が合う。


 宇津木が私を見ていた。その瞳が濡れているように見えて、放すことができない。ずっと、見てしまう。


「ずっと、触ってたんですか」


 気づくと宇津木の手が私の手首にあった。熱かったのは、はたしてどちらだったのだろう。


「あ……わっ、ごめんね宇津木。ついその、いや変なことしようとかじゃ、ないん、だけど……」


 思わず手を引っ込める。しどろもどろな返答は、本当に自分の声なのかと疑ってしまうほど小さくて、震えていた。


 宇津木に、怪しまれなかっただろうか。ちゃんと私は誤魔化せただろうか。自信なんてあるはずもなく、視線が泳ぐ。もう彼女を見ることなんて出来なかった。許されないような気がして、もう視界に入れることすら私の意思では不可能に思える。普段はこんなことないのに。なにか呪いでもかけられたと言われた方が、説得力がありそうだった。


「……篠原さん、髪にごみがついてますよ。後ろ向いてください」


 ああそうだ。呪いだ。きっと呪いだったのだ、これは。宇津木は私に呪いをかけたのだ。


 言われるままに後ろを向き、背中に宇津木の感触を覚える。脳内はめちゃくちゃだ。そこかしこから焦りや恐怖が躍り出て、冷静さというものを根こそぎ奪っていく。さながらハーメルンのそれ。気が動転していたなんてものじゃない。


 だからだ。いつまで経っても彼女が私の髪に触れた気配がないだとか、首元から聞こえた布擦れの音だとか。まるで気がつかない。


 つまり宇津木の言葉や動きは呪いで、私の思考力だとかそういう頭のよさそうなものはそれに封じられてしまっていたのだ。


 暗転。瞼を閉じたのでもなく、照明が突然消えたのでもない。それは目隠しによるものだ。即席のアイマスク、彼女が私に似合いそうだと言っていたネクタイ。いつかの休日に一緒に買ったもの。今日、私の首に巻かれていたそれは、今や私の目を覆っていた。


「なっ、あ……え」


 言葉が言葉にならなかった。意味のある単語が一つとして口から外へ出ることはなく、役立たずの口を見限って頭の中で勝手にレースを始める。私をどれだけ混乱させられるかの競争を。どうにかなってしまいそうだった。なる寸前だったのだ。いつ常識と良識を手放してしまうか分からなかった。悲鳴が上がらなかったのはただの奇跡か偶然だ。


 きっと私の顔は赤くなったり、青くなったり、目まぐるしく変化しているだろう。さながら、感情のままに動く赤子のように。ネクタイの動きに合わせて、こめかみに冷たさを感じた。思わず涙が出てしまったなんて、そんなことはない。酒か水が元々かかっていたのだ。そう自分に言い聞かせる。


 一度小気味のよい音が鳴ると、もういくら首を回したってネクタイは動かなかった。頭の後ろで結ばれたのだ。そう気づくまで、時間はいらない。


 完全に視界を奪われたのだと理解すると、途端に私は怖くなった。なにも見えない暗闇が恐ろしくてたまらなかったのだ。それは幼少期以来の感覚だった。闇が怖いなんて子どもっぽい感情はとうの昔に捨てたと思っていたのに、今は背中の感触が唯一の安心で。欲しくて仕方なかった。もっとちょうだいと、気を抜けばそんなことを口走ってしまいそうだった。


「……ねえ、篠原さん。私これでも怒ってるんですよ」


 耳に息がかかる。ぞわり、と背筋に寒気が走った。つまるところ、死刑宣告された人間の気分とはきっとこんな風なんだろう。


 暗闇が恐ろしいだなんて、それこそ子どもの戯言だった。それよりも怖いものを知らないから、そう思う。今のこれに比べれば、ずいぶんとましな代物だ、それは。


 ごめんなさい。その一言すら言えない。歯の根が合わず、唇がうまく動かない。今度こそ涙が溢れてネクタイに染みを作る。惨めだった。いっそ死んでいまいたかった。殺して欲しかった。肩甲骨に当たっている体温が今はただ恐ろしかった。これをもっとだなんて、本当に気が狂ってしまう。


「私が、なにも考えてないとでも、本当に思ったんですか……?」

「…………ご……め、」

「そんなの聞きたくないです」


 そんな言葉と一緒に、私の咥内になにかが入ってくる。宇津木の指だった。ほっそりとしたそれが、私の舌に絡められる。歯茎をなぞられる。ゆっくり、嬲られていく。


 抵抗なんてできない。だってこれは罰だから。身勝手で浅ましい行いの、罰なのだ。だから私はどんな責苦だって耐えなければいけなかった。


 涙が止まらない。口の端から流れ出る唾液も、後から噴出する感情も。


「私のなにがダメなんですか……教えてくださいよ」


 項に額が押し付けられる。指の動きが止まる。


「篠原さん……」


 口の中にあった異物感が消えた。宇津木は動かない。


「…………私のことは、嫌いですか」


 耳に入る音に嗚咽が交じる。これは誰のものだろう? 未だ涙の止まらない私だろうか。首筋にぽたり、と落ちた冷たさは幻覚だったのだろうか。


「――好きだよ」


 小さな呟き。これが限界だった。今できる私の精一杯はこの程度。なんて小さく、価値のない言葉だろう。膨れ上がって収拾がつかなくなった感情を、たったの四文字で伝えられるはずがないのに。そんな都合のいい言葉は、この世界に存在しない。


 それこそ誤魔化しだった。言葉を尽くすべきだった。それが出来ないから、こんなずるい言葉でどうにかしようとする。これは昔の私が最も嫌い、恥ずべきだとした行為だ。


 だってあまりにもずるい。いくらでも相手に任せられるじゃないか。自分が持つ説明の義務を放り投げて、相手にすべて委ねるなんて自分勝手にもほどがある。それはとても恥ずかしいことだろう。


 でも今の私は汚い大人だ。好きな人に酒を盛るような大人なのだ。昔の自分なんて、ほとんど残っていやしない。あの潔癖さも理想も、もう失ったものだ。


 だから許して欲しい、どうか。


「好きだから、ダメで……お酒でなんて、やっぱり嫌なの……ちゃんとしたいの」


 はらり、とネクタイが解けた。布の質が結ぶのには向いていなかったのかもしれない。


 首を回すと俯いている宇津木の顔が見えた。ひどい顔だった。おそらく私も似たようなものだろう。目は真っ赤で、頬には涙の跡。大人になってからまたこうなるなんて、考えたこともなかった。


 顔を少し上げて、宇津木が口を開く。


「じゃあ、ちゃんとしてください」


 思わず、深呼吸。向き合った後、脳の奥底から引っ張り出されたのは、何度もシミュレーションした末に諦めていたイメージ。酒を買ったときに捨てていたはずのもの。場所、微妙。二人とも泣いたあとで、理想からは程遠い。でも雰囲気は、まだ。


「宇津木さん、私と、付き合ってください」


 私の言葉を聞いた宇津木の顔は、その日で一番綺麗だった。

ネクタイ目隠し百合っていいよね、という思いだけで書きました

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