その四。
翌日、俺は仕事を終え、家まで車で帰った。薄暗がりの雲は不穏な空気を覆い逃さず、妙に湿った地面は嫌な予感を外の人々に感じさせた。
その予感を感じ取ったのは俺も例外ではなかった。俺は車を運転している最中、昨日遭った出来事をふと思い出した。
人間とは思えない(実際人間ではないらしいが)強さで俺の腕を掴み、そしてまるで暴れ馬かのような力で俺の腕を引っ張ってきたあの恐ろしい右手。もし、螢太が奴に襲われでもしたら、きっと一言の悲鳴も上げずに、奴の手に落ちてしまうだろう。
でも大丈夫だ。螢太には絶対に二階へ行くなと執拗に伝えた。螢太自身の意思で二階へ行くということはありえない。俺は不安を消そうと無理してポジティブになろうとした。案じることはない。きっと、大丈夫だ。
しかし、車のハンドルを持つ俺の手は震えていた。理性とは別の場所から震えは発生していた。第六感が危険信号を発していた。
信号に止まると、俺は窓越しに外を見てみた。そこにあるのはガードレールに泊まる一羽の烏のみだった。とてもじっとしている。数秒間、俺はその烏と目が合っていた。
車を駐車場に停めて、俺は家の扉へ向かって歩いた。二階の方を見ると、なぜか大量の烏がざわざわと集まり騒いでいた。そいつらは低い声で、俺に聞こえないように、何かを語り合っているようだった。
自分の家は、見たところ特に変わったところはなかった。それで俺はやっと安心できた。何も変わらない家庭がそこにはあったからだ。螢太も、妻も健在で楽しい家庭が俺の帰るべき場所としてあった――
ガチャッ――螢太が、その家から出てくるまでは――
「おい螢太! どうしたんだ!」と俺はとっさに螢太に呼びかけた。どうにも不自然だった。まさか俺を迎えに来たとでも言うのだろうか。と一瞬思った。だが、今まで螢太がそんなことをすることなんて一度もなかった。
螢太は俺の声など微塵も聞こえていないようだった。呆然とした様子で暗い空を見上げていた。
また、螢太はまるで誰かに体を操られているようでもあった。おぼつかない足取り、固定されたような頭部、とろんとした両目に半開きの口、そして何かに引っ張られているような螢太自身の動き、それらが俺に奇妙な違和感を覚えさせたのだった。それから螢太はある方向へゆっくりと歩き出した。しかし、その方向とは――二階へ上がるための階段であった!
それに気付いた瞬間、俺の警鐘は鋭く鳴らされた。「螢太! 待て! そっちに行くな!」。俺は全速力で走り出した。両足に力を込めて、眼球をぎらぎらと輝かせて、俺は全力で走った。
しかし、俺が走っていると、急に十数羽の烏が俺の前に立ちはだかってきた! 何かを訴えるように鳴いている。ここは我々の縄張りだとでも威嚇しているのだろうか。俺が前方に進もうとすると、烏は漆黒の翼をばたつかせ、俺を怯ませようとした。一瞬だけ烏の壁の隙間から螢太の姿が見えた。しかし、それも束の間、螢太は階段の陰に隠れて、見えなくなった。
「螢太! 螢太!」と俺は無我夢中で叫んだ。烏を蹴飛ばし、腕を大きく振り回して、なんとしてでも螢太を連れ戻しに行こうとした。だが烏の数は一向に減らない。むしろどんどん増えている。烏の仲間意識というのはとても恐ろしいものだった。一声で大勢の増援がやってくる。
俺は何分くらい烏と格闘していただろう。五分、十分、いや二十分ほど立往生していたかもしれない。気付けば、俺の顔や腕は烏の引っ掻き傷だらけになっていた。足元にたくさんの烏の死骸が転がっている感覚がある。それでも烏は減ることなく俺の邪魔をする。駄目だ。こんなこともうしていられない!
「ああああぁぁぁああ!」と俺は阿鼻叫喚の声を上げた。
きりがなかったのだ。だから、大きな声を出して烏をビビらせれば、一瞬の隙を突いてここを突破できるかもしれない。そんな希望を持って俺は叫んだのだ。
すると、烏の大群は見事俺の希望通り、疾風の如き速さで俺から離れ去り、それから四方八方の空へ消えていった。俺の周りの夜が突然に夕方になった。しかし地面に転がっていると思われた烏の死骸はなかった。おかしい。あの足元の感覚は気のせいだったのだろうか。
とにかく、烏がいなくなると、俺は走り出した。顔や腕の切り傷が風に染みるが、それに構わず階段まで一直線に疾走し、体が慣性に振り回されないように手すりををがっしりと掴み、怒涛の勢いで階段を駆け上った。
202号室! 俺はすぐにその部屋の扉を見た。すると、その扉の前に螢太はぼんやりと立ち尽くし、そこの扉をじーっと凝視していた。
「ああ、螢太、二階へ行っちゃ駄目って言ったじゃないか……」と俺は螢太を諭しながらも安堵した。約束は破られてしまったが、螢太の身には何も起こっていない。それだけで俺は十分安心できた。
螢太は何も聞こえていないかのようにじっと202号室の扉を見ている。
「何をしているんだ。さあ螢太、帰ろう――」と俺は立ったまま動かない螢太に手を差し伸べた。そのときだった――