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その三。

 急にそこの扉が開き、その中からとてつもない勢いで飛び出てきた何者かの右手が、俺の無防備な右腕をすさまじい強さで掴み、さらにおぞましい力で中へ引っ張ろうとしてきた!



「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」。俺は阿鼻叫喚の悲鳴を上げた。



 なんだこの人並み外れた握力は! と俺はとっさに恐れた。その強さは、一瞬で俺の腕をもいだと錯覚させるほど強烈でとんでもないものだった。


 引っ張る力も人の手によるものとは思えなかった。まるで俺の腕が気性の荒い馬に紐で繋げられ、全力で引っ張られているようだった。それは古代の中国にあった処刑方法を彷彿(ほうふつ)させた。


 俺は謎の手に対して必死に抵抗した。掴まれていない左手でドアの取手を掴み、中へ引っ張りこまれないように無我夢中で抵抗した。しかし、俺の力と身体は数秒しか保つことができなかった。


 このとんでもない握力の手はいったい誰のなんだ! 中に人はいなかったんじゃないのか! 俺はそのようなことを一瞬で考えることができた。人間は死ぬ間際、周りがスローに見えるらしい。感覚としては走馬灯と同じであろう。ものすごい勢いで思考回路が回転した。


 そして、その頭が回転している間、俺はここで死ぬんだとも悟った。そのとき――



幾雄いくお!」



 いつの間にかトミさんが俺の横に立っていて、大きな声で自分の孫の名前を叫んだ!


 すると、俺の腕を掴んでいた右手はぱっと俺の腕を放し、するするっと逃げるように部屋の中へ退散していった。鍵は再びかけられていた。


「はあ、はあ……、あれは、いったい?」と俺は息を切らしながらトミさんに尋ねた。


「あれは、幾雄の悪霊よ」とトミさんは険しい表情で応えた。


「幾雄君の悪霊! でもあの手は三歳のものでは――」と俺は言いかけると――


「幾雄は死にながら成長したのよ。あれから二十年、きっと死んだ幾雄は二十三歳になっているはずよ」とトミさんが目を赤くして言った。


「トミさんは、そのこと知っていたんですか」。未だに呼吸が乱れていた。


「確信はしていなかったわ。だけどよく夢に成長した幾雄が現れた。そして幾雄は、202号室に住んでいた」とトミさんは202号室の札を凝視して言った。


「殺されたという無念が、幾雄君を成仏させなかった」と俺は段々と呼吸を整えながら言った。「だけど、どうしてよりによって事件に関係のない俺をこの部屋に引きずり込もうと……?」


「きっと、幾雄は暴走し始めたんだと思うわ。殺されたというこの世への憎しみが、時を経て大きくなり、そして無差別に大山おおやまさんを殺そうとしたのかもしれない」


「そんな……」と俺は茫然自失した。


「ここだけの話、私は二十年前のことをよく憶えているわ」とトミさんは俺の両肩を掴んで言った。「幾雄が殺される前日、私と幾雄は202号室からドンドンドンという何かを強く叩く音を聞いたわ。それはさっき私達が聞いた物音と全く同じだった。だから、もしかしたら、今起こった出来事と二十年前に幾雄が殺された事件は繋がっているかもしれないわ」


「まさか、二十年前の事件と同じことがまた繰り返されると……」と俺は手を震わせながら言った。


「その可能性は無きにしも(あら)ずよ」とトミさんははっきりとした口調で言った。「いい、大山さん。しばらくの間、二階には来ないようにして。きっとさっきみたいに、腕を掴まれ、中へ引きずり込まれるわ。他の人も同様よ。奥さんにも、螢太けいた君にも伝えて。もし螢太君が独りになるようなことがあったら、私が下に行って面倒を見るわ」


「分かりました。絶対に上に行かないよう、きちんと伝えておきます」と俺も芯の通った口調で応えた。


「いい? 必ずよ」とトミさんは俺に念に念を押した。



 それから、俺は無事に家へ帰り、妻と螢太にトミさんから聞いた話を、始めから終わりまで、欠くところなく全て話した。二十年前、202号室で殺人事件があったということ。その事件の被害者がトミさんのお孫さん――幾雄君だったということ。そして、そこには殺された幾雄君の悪霊が住み憑いているということ。さらに、それに加えて、俺がその部屋の前で恐ろしい目に遭ったということ。これからしばらくは絶対に二階へ行ってはいけないということ。それらを俺は念入りに螢太達に伝えた。


 妻は始め、半ば疑いの目で俺の話を聞いていたが、話をしているうちに、きちんと俺を信用してくれた。螢太は話の内容をよく解していなかったので、俺は二階には絶対に行ってはいけないということだけを教えた。


 これで少なくとも家族に危険は及ばない。と俺は思った。何事もなく今まで通りの生活を送っていける。


 そのはずだった。確かに、そのはずだったのだ――

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