『会津暦』
徳川御三家には、そのへんの大名より石高・態度ともにデカイい家来――附家老――がいる。
附家老とは、徳川宗家から連枝を補佐するために附けられた重臣のことで、御三家の場合、家康・秀忠・家光が選んだ譜代の臣が派遣され、現在にいたっている。
附家老は多いときには十人以上いたらしいが、なかでも、
尾張徳川家の犬山城主三万五千石・成瀬家
同 美濃今尾三万八千石・竹腰家
紀伊田辺城主三万八千石・安藤家
同 新宮城主三万五千石・水野家
水戸常陸松岡二万五千石・中山家
この五家がダントツで、石高・待遇はふつうの大名なみなのに、肩書は陪臣という微妙なポジションの殿さまだ。
(大名なみだけど陪臣……たとえば「江戸屋敷は拝領しているが、殿席はない」みたいな)
そして、いま、そのうちのひとり、成瀬なんちゃらが俺の対面で大汗をかいている。
「た、台命とはいえ、あまりに……(ごにょごにょ)……」
オッサンは、下向中の主君・尾張大納言徳川慶恕にかわり、面談を申し入れてきたのだが、なにやら内心修羅場ってるごようす。
「多摩の御鷹場……代々……当家……歴代……楽しみ……無体……(ぼそぼそ)……」
ひとり言のようにイジイジ抗議しつつ、あいまあいまにこっちをチラチラ。
「…………」
入室してきたときからつづく、「ね、言わなくてもわかるでしょ?」な『察してチャン』オーラに、沸点の高い俺もさすがにイライラ。
「はて、なんのことやら。不敏なわたしにはさっぱりわからぬのう」
「ですから、従来よりお認めいただいていた多摩の御鷹場を返上せよとは……当家としては……あ、いや、当家ばかりでなく他の紀伊さま水戸さまも同意見で……なんというか……いささか得心がいきかねるというか、ご説明いただきたいというか……(もごもご)……」
「おお、その儀であったか!」
相手の要望を承知のうえで、さわやかにすっとぼける。
「ならば最初からそう申せばよいものを。遠まわしすぎて気づかなんだ。
わたしも多忙の身なれば、まだるっこしい物言いは遠慮してもらいたいのう」
敷居を隔てた彼方から、ギリッという音が聞こえてくる。
奥歯をかみしめ、懸命に耐えているようだ。
「殿」
傍らのアラサー男が半眼で俺をにらむ。
「多忙とおおせになるならば、すなおに御用向きを聴いてさしあげてはいかがですか?」
つまらない正論をかます近習に、成瀬は感謝のまなざしを送る。
ふん、よけいなことを。
用向きなんて、聞かんでもわかっとるわい!
どうせ、「鷹場収公命令を撤回しろ!」に決まってんだろ。
だがな、それを命じたのは俺じゃねぇ。
たしかに、きっかけを作ったのは俺だったかもしれないが、問題をここまでを大きくしたのはあいつだ!
俺は茶飲み話がてらにちょろっと相談しただけで……。
なのに、そのクレームが俺のところに持ちこまれるという毎度おなじみの理不尽展開。
バカヤロー!
眼前のオヤジをにらみつつ、俺は、府内某所で毒菓子作りにはげんでいるにちがいない某将軍に、怨念を飛ばしまくった。
今回の騒動――すなわち、江戸周辺の御三家御鷹場廃止宣言と、それに対する猛反発――は善意にみちたある出来事からはじまった。
発端は、あの新せ……(げふんげふん)……農民隊だった。
勢いと思いつきだけでスタートした新撰……農民隊結成プランは、意外にも将軍・幕閣からさっくり承認され、あれよあれよという間に具体化。
そうなると行きがかり上、会津が設立手続きをバックアップすることとなり、組織立ち上げの打ち合わせが、連日、和田倉屋敷でおこなわれるようになった。
(やっぱ『会津藩御預り』になるらしい……ぐすん……)
そんなある日。
新撰ぐ……農民隊幹部とのミーティングがいつも以上にのび、戌の刻(夜八時)ちかくになった夜。
こんな時間じゃ、さすがに腹もへるだろうと、嶋崎たちにも夕飯を出してやることになった。
じつは、参与就任以降、多忙をきわめる当家では、パワーブレックファスト(※忙しいビジネスマンが朝メシを食いながら会議・情報交換話し合いをするアレ)ならぬ、『評定メシ』というのを導入している。
これは、時短のため、主従がいっしょにメシを食いながら会議・打ち合わせをするというもの。
なので、このときも夕食をともにして、打ち合わせをつづけるつもりだった。
会議出席者全員の膳が運びこまれ、めちゃめちゃ恐縮しながらも、うれしそうな新撰……(あ゛ー、面倒くさっ! もう新撰組でいいわ!)メンバー。
ところが、目の前に置かれた膳を見たとたんフリーズ。
そして、自分のと俺の膳を交互にチェック。
「うわ、失礼なやっちゃなー! どれもいっしょだ! 俺だけ品数が多いとかはないからなっ!」と、切れかかったほどのシゲシゲマジマジっぷり。
すると、
「おいたわしや……」
大きく見開いた眼からぼろぼろ涙をこぼす嶋崎。
(……は……?)
「勝っちゃん」
こちらも涙目の土方と、
「勝太」
逆サイドの井上も滝涙。
むさくるしく抱き合いながら、俺をガン見する不気味な男たち。
「侯は……いつもかような御膳を……?」
いつかどこかで聞いたようなセリフを吐き、はげしく嗚咽する嶋崎。
「かねてより会津窮乏のうわさは聞いておりましたが……」
しゃくり上げつつ俺を見すえる土方。
「事態はかくも深刻であったとは」と、頬をぬらす井上。
「「「これが……御家門大名の夕餉とは……」」」
呆然とする俺たち主従をよそに、勝手に盛りあがる新撰組幹部。
「「「まことにおいたわしや……(号泣)」」」
「――――」
(……それな……?)
どうも俺は誤解していたようだ。
嶋崎たちがキョロキョロしていたのは、「自分たちにだけ、しょぼいメシを出された!」と、勘ちがいしてひがんでるのかと思いきや。
むしろそれとは逆で、大々名の俺とやつらの膳がまったく同じなのを確認し、愕然としたらしい。
それゆえの「おいたわしや」発言……。
つーても、窮乏?
事態は深刻?
いやいや、よく見てみい!
今日のメニューは、サンマの塩焼き、卯の花、大根の皮のキンピラ、ニンジンの葉っぱ入りミソ汁。
みごとなまでの一汁三菜。
しかもお頭つきだぞ?
十分すぎるくらいの大ごちそうじゃねぇか!
お手頃価格の食材を使いながら、栄養価はパーフェクト。
見た目はジミだが、みんなの健康を考えた身体にもおサイフにもやさしい、愛情たっぷりご飯。
称賛されこそすれ、同情されるいわれなどないっ!
あー、ところで、いま会津藩では、他藩ではやってない江戸勤番下士への給食をおこなっています。
これはすごく画期的な試みで、どの藩でも藩士の食事は原則自弁。
うちもいままでは食事は自弁・賄ナシでした。
でも、自弁といっても物価の高い江戸で特別な手当ても出さず、「自分の役料の中でやりくりしろ!」というのはちょっとひどい話です。
まぁ、藩によっては地域手当が出るところもありますが、うちは地域手当どころか基本給すらカット。
「給料減額している以上、食事くらい出してやってもいいんじゃね?」と、ボクは考えました。
なんせ、ビンボーな家計で削れるところといえば食費くらい。
藩士が食費を削ったせいで身体をこわしたら、雇用主としての責任を問われます。
ってことで、会津藩では、おもに下士を対象として朝夕二回食事を提供することにしました。
ただし、昼は時間がまちまちなので、それは自己調達してもらいます。
一日のうち二食である程度栄養が取れたら、最悪、昼抜きでも栄養失調にはなりません。
さて、この給食の食材は浜や農家からまとめ買いしているので、かなり安く調達できます。
そして、いままで藩主と家族の食事は、毒見用として二十食分ほどよけいに作っていたので、食品ロスもけっこう出ていました。
そこで今回、殿さま家臣すべて同一メニューで調理し、ロシアンルーレット方式で配膳することにしました。
これなら毒見がいらなくなるのでロスは出ません。
そのうえ、温めなおしも不要となり、燃料代が節約できます。
いままで殿さまの膳は何段階もの毒見を経るため、ボクのところに届くころには料理がすっかり冷めており、小姓が火鉢で再加熱していました。
これが冬も夏もですから、炭代もバカになりません。
といっても、大野氏のような給食希望の上士どもからは、キッチリ食事代をいただいております。
なんせ、救済対象はビンボーな下士さんたちですから。
ただし『評定メシ』は全員タダです。
(……あれ、なんか、話し方ヘンじゃね?)
話をもどそう。
せっかくごちそうしてやったにもかかわらず、よろこぶどころか、勝手に同情してくれた嶋崎たち。
「食わぬなら下げるぞ!」
好意を無にされ、超ムカムカ。
「出された食事にとやかくいう輩には、二度と馳走はせぬっ!」
冷たく言い放つと、三人はあわてて箸を取った。
ちきしょー、今日はふだんより豪華なのに。
サンマだって丸ごと一匹だし!
魚、豆類(おからだけど)、野菜、味噌汁、雑穀米――完璧じゃん。
栄養バランスがどんだけ重要かも知らないくせにさ……プンプン。
「殿、お怒りになられてのお食事は、身体にようございませぬ」
いつもの差し出口男がするどくダメ出し。
「わかっておる!」
「「「ああ、われらのせいで諍いが……」」」
心配そうにこっちをチラチラ盗み見ながら、急いで食事を終える三人。
そこに、食後の白湯が運ばれてくる。
「……茶ではなく、白湯とは、あわれ――」
うっかりつぶやいた土方は、ふたりにボコボコにされた。
「白湯しかのうて、すまぬな! 今年植えた茶の木が育つまで、当家では茶が飲めぬのじゃ」
思いっきりイヤミな口調で教えてやる。
(あ、でもね、客がVIPのときは、じいがポケットマネーで買った茶を出してるんだ。
ホント、じいはミエっぱりなんだから……ぶつぶつ……)
「「「……茶が……?」」」
VIPじゃない三人の目にふたたび涙が。
と、いきなり額を寄せあい、こそこそナイショ話。
「まさか、われらより粗末な食事――」
「茶も飲めぬとは」
「武士なら食さぬ三馬のごとき下魚を――」
「よほどお困りで」
「かくなるうえは御恩返し――」
「実家に――」
「親類縁者に――」
「頼もう」
「大根、ゴボウを――」
「うちはのらぼう・白菜・ほうれん草――」
「豆と雑穀――」
「薪も入り用」
「いささかなりと――」
「足しに――」
「うむ」
「「「承知」」」
……ぼそぼそぼそぼそ……。
あやしげな密談後、三人はなぜかすっきりした顔で帰宅していった。
そして、次の日からふしぎな現象がおこりはじめた。
毎日、藩邸勝手口に野菜てんこ盛りの籠と薪の束が出現するようになったのだ。
こ、これは……もしや……?
「ゴンぎつねーーーっっっ!?」
……ではなく、おそらくあいつらだろ。
たぶんあの粗食に同情し、貧乏チックな会津藩に差し入れてくれたようだ。
あら~、気ぃ使わせちゃってゴメンね~。
だが、来るもの拒まずっ!
正直いって助かりますぅ ♡
なにしろ、各藩が借金まみれ・大赤字なのは江戸滞在費がかさむせいなのだ。
この江戸は日本一物価が高い都市。
コメは国許から運んでくるとしても、日々の副菜の材料――生鮮食料品はここで調達するしかない。
野菜・魚・調味料・薪・燈油などなど大量の生活必需品代が藩財政を圧迫し、とくに参勤交代を停止されている幕閣のところはワイロで補填しなきゃいけない大赤字。
(くそっ!)
ということで、会津藩も三田屋敷の庭園をぶっつぶし、サツマイモやら小松菜やらを作ろうとしたのだが、
「土津公がお造りになられた由緒ある箕田園をイモ畑になさるおつもりですかー!!!」と、じいが発狂して手がつけられなくなったので、下屋敷菜園化計画は頓挫した(涙)。
しかたがないので、世田谷に土地を借り(井伊のあっせん)、家庭菜園経験者の下士たちにその管理運営をまかせたのだが、なんせまだはじめたばかりで食材すべてをまかないきれない。
だから、善意の差し入れはいつでも大歓迎~。
お金のワイロはまずいけど、野菜ならいいよね?
やっぱ新撰組は松平容保の味方~。
とはいえ、もらいっぱなしなのもなんなので、なにかお礼でも。
う~ん、なにがいいかな~?
―― ピコーン! ――
そうだ、アレだ、アレがいい!
鷹場指定の解除が!
いきなりですが、江戸近郊には将軍家や御三家の鷹場がいっぱいあります。
武家にとっては、リクレーションであると同時に軍事演習の意味合いがある鷹狩。
とくに体育会系将軍・暴れん坊吉宗さんは鷹狩が大好きで、しょっちゅう鷹狩だの鹿狩だの巻狩だのに興じていました。
かくいう会津藩も、殿さまが国入りした際は『追い鳥狩り』という狩りで兵士の錬成をおこないます。
でも、そんなのはすべて、オサムライさんサイドの話。
地元の農民にとって、この●●狩は大迷惑以外のなにものでもないのです。
まず、農作業の繁忙期だろうとなんだろうと、イベントには強制参加。
なぜならば、ショーグンサマやオトノサマがうまく仕留められるよう、獲物を追いこむ勢子がおおぜい必要だからです。
さらに、やんごとない方々がお通りになるルート上の村々は、地域総出での大掃除が義務づけられ、ボロい物置小屋などは撤去するよう命じられたりします。
そのほか、該当エリア内では、家を増改築するにもいちいち上の許可を得なくてはなりません。
また、鷹の餌用の小鳥・カエル、獲物用のウサギ・雉・雁・鴨をキープするのはわかりますが、なぜか鷹場内は全域禁猟。
よく訓練された鷹でも「さすがにこれはムリっしょ?」な鹿・イノシシまでもが殺生禁止です。
ウサギ・雉はまだいいのですが、農作物を荒らす害獣に手出しできないという禁令は、農民にとっては死活問題。
つまり、鷹場は「マジ勘弁」なのです。
そして、多摩には尾張徳川家の鷹場が点在しています。
新撰組のみなさんのホームは多摩。
多摩にかけられている鷹場指定を解除すれば、嶋崎たちの実家も助かるでしょうし、害獣に荒らされている畑の収穫量が上がれば、もっと差し入れがふえるかもしれません、うっしっし。
(あれ、また……)
(……げふんげふん……)とはいえ、多摩だけを取り上げたら、尾張藩爆ギレ必至。
だから、この際、江戸近郊のすべての鷹場――将軍家・御三家用フィールドを全廃してしまえば、ピンポイントで尾張を狙ったとは言われないはず。
なにしろ、サダっちは汚料理が趣味のインドア派。
鷹場がなくなっても、全然問題ない。
御三家ナンバーツーの紀州は、藩主の慶福が家定の御養君となり、空いた家督は一門の伊予西条藩からの養子が継いだばかり。
しかも新当主は十歳の子どもで、「鷹狩、命!」なはずもなく、こっちもだいじょうぶそう。
水戸家は、体育会系のジジイは押込め中。
現当主慶篤はオヤジとちがって、ひそかに「よかろうさま」(=家臣の意見すべてにOKと答えてしまうヘタレ)と呼ばれてるくらいなので、一度幕命が下りてしまえば、文句を言ってくる可能性はひくい。
問題なのは、まさに多摩に鷹場をもつ尾張徳川家。
尾張は代々アウトドア派の殿さまが多く、鷹場指定解除には難色を示すかも、とは思っていたが。
案の定、抗議しにきたのは尾張藩附家老だけ。
さっき成瀬は「(鷹場返上反対は)当家ばかりでなく他の紀伊・水戸も同意見」と言っていたが、これはおそらくウソ。
たぶん、この件で御三家間の横の連携は取れていないはず。
そして、これこそがサダっちの狙いなのだ。
幕政改革を目指すサダっちにしてみたら、一番厄介で面倒くさいのは、もっとも将軍位にちかい親戚――御三家。
この三家がタッグを組んで改革に反対してきたら、将軍といえども無視できない。
また、三家が核となり、守旧派大名を糾合するようなことになれば、幕内クーデターが起き、サダっちは強制隠居、いや、ヘタしたら暗殺されるおそれも。
ところで、「将軍位に未練はない」と言っていた家定が、なぜそんな陰謀めいたことを仕かけるのかというと、あれから考えがかわったせいらしい。
ヤツがかねてより構想していた『上からの改革』は、俺と言う便利なパシリを得たおかげで劇的に進み、家定自身も「改革成就のためには権力が必要!」とハラをくくったようだ。
啓蒙君主化したサダっちは、抵抗勢力になりそうな権門の既得権をそぎ落とす機会をうかがっていた。
とくに尾張・水戸には、
『もし幕府と朝廷が対立したら、迷うことなく将軍を討て!』というオソロシイ家訓があり、宗家にとって二家は外様大名以上に警戒すべき存在。
そしていまなら、あの『公方さまご勘気事件』のあとなので、尾張も水戸も表だって逆らいづらい。
てなわけで、俺がこの件を持ちこむと、サダっちは江戸近郊の御鷹場・御狩場の全廃をちゃっちゃと即決。
御三家分断・連携阻止の取っかかりとして、これを利用したのだ(怖っ!)。
そんなこんなで、三家にあたえられていた特権の一部はあっさり取り上げられ、以後『御三家ブランド』はもはや通用しないことが天下に知れ渡った。
と同時に、これにより尾張徳川家では、幕府の横暴に対し、ともに抗しなかった他の二家への不信感が芽ばえた。
まさにサダっちの目論見どおり。
鷹場が全廃されてほどなく、和田倉藩邸にあやしい一団が押しかけてきた。
門番が問いただしたところ、
「わたくしは日野本郷名主にして、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主の佐藤彦五郎と申します。こちらでお世話になっております(?)歳三の義兄でございます。本日は肥後守さまに御礼を申しあげたく、参上つかまつりました。なにとぞお取次ぎのほどを」
なんかよくわからないが、歳さんの義兄なら、例の差し入れがらみか?
拒否って差し入れを止められても困るので、会ってみることにした。
面会をゆるすと、取次役は一同を大書院前の庭先に案内。
名主は武士なんかよりよっぽど裕福なのだが、身分的には百姓。
この時代、大名と百姓が同じ空間で対面するなんて制度上ありえないので、これはただしい対応なのだが、嶋崎たちとはすでにいっしょにメシまで食った仲。
その食糧支援関係者たちを地面に座らせるのもどーよ? と、思ったので、特別に大書院次之間に通した。
すると、それだけでもう崩壊状態の名主たち。
「ありがたや」
「われら百姓を、御座敷にあげてくださるとは」
「勝太や歳から聞いたとおりだ」
「なんと慈悲ぶかい御方」
「「「ゆえに御鷹場を!」」」などとささやきながら大感激。
白湯を飲んでひと息ついたオッサンたちは、つぎつぎに鷹場廃止のお礼を述べはじめた。
ただ、佐藤彦五郎の担当地区・日野は鷹場ではないが、会津藩と懇意にしているということで(……いえ、初対面ですが?)案内役をかって出、多摩の名主連中を率い、野菜満載荷車付お礼言上ツアーを敢行したんだとか?
「まことに助かりました」
「御鷹場には各村々も長年泣かされ――」
「それがなくなり――」
「イノシシどもを――」
「鹿も――」
「ガンガン撃ち放題」
「これで来年は豊作まちがいなし!」
「会津侯われらの神のごとき――」
「足をむけては――」
「大恩人!」
「多摩の民――」
「感謝感激!」
「すばらしい!」
「「「賢侯!!!」」」
口々にほめそやす名主たち。
「むふふ、よさぬか、賢侯はともかく、神などと…………」
――――――――
…… 神 ……?
か …… み ……!?
!!!!!
脳内のLEDライトがピカーっと点灯。
『豊作』……『神』……こ、これだーーー!!!
啓示、キターっ!!!
いきなり頭脳がフル回転。
もう矢も楯もたまらず、目の前のオヤジどもにテキトーなねぎらいの言葉を投げかけ、こいつらをどこかの部屋にブチこんで酒でも飲ませてやれと近習に命じ、そそくさと広間をあとにする。
猛ダッシュで居室に飛び込み、うかんだアイディアをつぎつぎに書き止めるうち、いつしか秋の陽が障子を染める刻限に。
そして!
ついにできました新規事業計画案!!!
ニヤニヤしながら分厚い企画書を読みかえしていると、
「会心の出来のようですね?」
人気のない部屋の隅からわきあがる声。
「なにから手配いたせば、よろしゅうございますか?」
そこにはいつものサトリ妖怪が一体。
「なれば、ただちに国許に使いを送り、諏方社の勧請と暦の原版を入手いたせ」
「ほほぅ?」
刹那、サトリの目にやどる感嘆の色。
「察するところ、赤羽橋の水天宮のごときものを造られるおつもりですな?」
「さすが、会津一の知恵者。なんでもお見通しじゃのう」
「いえいえ、殿ほどでは」
「ぐふふふふ、正直者めが」
諏方社は、会津の大鎮守六社の筆頭で、鶴ヶ城郭内に建つ唯一の神社。
元禄期にはときの天皇から正一位を授けられた格式の高い神社だ。
そして、ここでは、室町時代より『会津暦』または『諏方暦』とよばれる地方暦を発行している。
日本の暦は、九世紀半ばの平安時代から十七世紀後半までの八百年以上、唐代につくられた太陰太陽暦――宣明暦が使われていた。
貞享二年一月一日(1685年2月4日)、徳川幕府は、はじめて日本人(渋川春海)によって編纂された和暦・貞享暦を採用し、以後の編暦は幕府の天文方で行うことを定めた。
よって、会津暦は貞享暦の二百五十年以上前からつくられていたことになる。
こうした由緒をもつ会津諏方社の暦は、伊勢・三島・南都(奈良)・江戸などとともに、国内数か所にしかみとめられていない『暦を出版する権利』をあたえられ、『会津暦(諏方暦)』は関東以北でよくつかわれている。
そこで今回、俺はこの格式の高い諏方社と、『関東以北』にとどまっている会津暦の需要を全国展開しようと思いついた。
なにしろ、この新規事業――神さまビジネスにはすでに成功例がある。
それが、赤羽橋にある久留米藩有馬家上屋敷内の水天宮だ。
二十一世紀には日本橋に移転しているが、もともと水天宮は赤羽橋・有馬家上屋敷内にあったもの。
江戸には全国のローカル神社が多いが、それは各大名が自家の守り神として、ご当地神社を屋敷地内に勧請したから。
水天宮もそのひとつで、祭神は水天というインド・イラン系の水分神。
本来は、子どもやお産とはまったく無縁な神なのだが、水つながりで日本の『天之水分神・国之水分神』と習合。
「みくまり」が「みごもり」と語感が似てるから(?)、いつのまにか安産・子育て・子ども守護の神さまにバージョンアップしたらしい。
で、これをサイドビジネスに使おうと思いついたのが、商才にたけた久留米藩のみなさん。
通常は庶民が入れない屋敷地に水天宮参拝日を設定し、その日だけは【特別に】敷地への入場を許可した。
医学が進んでいない江戸時代は、お産で命を落とすママが多く、乳幼児の死亡率も高かった。
なので、この『安産』『子ども守護』という御利益と、めったに入れない場所という特別感が大ヒットし、年間二千両ものお賽銭収入が入るウハウハビジネスに成長したそうだ。
ほかにも讃岐丸亀藩と讃岐高松藩も金毘羅さまでけっこう稼いでいるようだし、そんなうまい話なら、ぜひうちもあやかりたいっ!
御祭神がかぶらなけりゃ、ちょっとくらい乗っかってもいいだろ?
それに、近ごろは出版事業も頭打ちで、暦の発行にはかなり期待している。
錦絵の出版自体は相かわらず順調なのだが、イケメン貴公子というコンセプトはやはり女性層(と一部のオトコ)にしか受けないようで、なかなかすそ野がひろがらない。
そこへいくと、神さまなら老若男女すべての層をカバーできる。
そのうえ、お賽銭という現金収入も見込める!
敷地内に社を造って賽銭箱を置いとくだけで銭が……労せずしてウハウハ!
「たしかに、宗教はもうかりますな」
「うむ、遅まきながら会津も宗教ビジネスに参入いたし、御府内一のガッポガッポ神社を造るぞ!」
「慧眼にございまする」
「世辞を申すな」
「いえ、世辞ではございませぬ。しかし、人々の信仰心につけ入ろうなどとは、殿もなかなかのワルにございまするな」
「なんの、それを即座に見抜くとは、そなたも同類じゃ」
「「くくく …… ぶっふぁっふぁっふぁ!」」
どうみても悪代官と越後屋の図だ。
「して、どちらに勧請を?」
勧請とは、既存の神仏を分霊し、別のところに祀ること。
まぁ、早い話、神社仏閣のフランチャイズみたいなものだ。
なので、こっちにあたらしく造った神社のアガリの一部を、本社の方に上納することになるが、会津の神社がうるおうのだから異存はない。
「三田がよかろう」
「なるほど。三田屋敷は芝とはちがい木立も多く、閑静。神域としてふさわしゅうございますな」
「さよう。それにくわえ、かの屋敷には箕田園がある。
参詣者にはこの庭を【有料で】見せてやろうかと思うてのう」
「町人に庭を【有料で】開放なさるのですか?」
「うむ、この方面においては、われらはいわば後発。
既存の寺社に対抗するには差別化せねばなるまい?
当家に参らば、ふだんは目にすることもかなわぬ大名庭園も見られるとなれば、江戸中の評判になるであろう?」
いまになってみれば、木々を伐採し池をつぶす菜園計画に反対したじいのおかげで箕田園は残った。
三田屋敷の観光資源を失わずにすんだのは、いわばじいのお手柄。
亀の甲より年の功とはよく言ったもんだ。
「おお、そうじゃ。庭の泉水を整備するついでに、趣味のよい茶店でも造るか?」
「茶店を?」
俺のとどまるところを知らぬ構想力に唖然とする近臣。
「参拝におとずれた客は賽銭をじゃんじゃん放りこみ、みやげとして暦を買う。
そして【有料の】うつくしい大名庭園を散策し、うまい茶菓でその疲れを癒す。
これならば、客単価が飛躍的にのびるではないか?」
「…………」
突如、目をウルウルさせ、黙りこくる大野。
「どうした? なにか不備でもあったか?」
げぇぇ、またダメ出しかよ?
「いえ、不備など……じつはそれがし、おのが不明を恥じておりました」
「不明?」
…………ってか、そのらしくない涙目、すんげー引くんだけど?
「どうも長らくお傍にいすぎたため、殿という御方を少々見誤っていたようでございます」と言いつつ、取り出した懐紙で目元を押さえるサトリ。
「お小さい時分の印象が、それがしの目を曇らせていたのでございますな」
らしくないウルんだ声で妙な昔語り。
「……な、なにを泣いておる?」
おい、やめろよ、そーゆーの。
辛気くさいのは苦手なんだ!
「あのボーっとした、おかわいらしい御子が、かくもこすっからい一面をお持ちだったとは……。
あ、これは褒め言葉でございまするぞ?」
ボーっと……こすっからい……全然褒めてねぇだろ?
「なんの、そなたこそ、銭金勘定はいやしきものと蔑む会津の士風とはなじまぬ、えげつないほどの計算高さ。これからの侍はこうでなくてはのう」
「ははは、これはひどい皮肉でございまするな~」
半泣きのまま破顔する忠臣。
(よしよし、笑った笑った)
「なにを申す。褒めておるのじゃぞ~」
「そうは聞こえませぬな~」
「お返しじゃ~」
「「わっはっはっは」」
ってなことで、新規事業がスタート。
まずは錦絵カレンダーの作成。
神さまのイメージモデルは、いつものように会津を代表するイケメン・容さん。
髪は月代なしの美豆良ヘアにアレンジ。
コスチュームは古墳時代っぽい筒袖と、紐で膝をきゅっとむすんだ褌と皮履に勾玉ネックレス。
それを、稲穂・野菜・魚・綿花・楮・桑・漆がぐるっと取り囲む構図で。
これは、もともと諏方社の会津暦が東日本の農家でよく使われていたのを考慮し、神社の御利益を『豊作・商売繁盛』としたため。
とはいえ、あまり生身の人間を全面に押し出すのもなんなので、結局、会津暦本体には表紙だけ容さん像を採用。
これに月数分の錦絵を付録でつける。
このカレンダー、発売開始とともに品切れ続出。
何度再版してもなかなか追いつかないほどのバカ売れ状態。
そのうえ、この新版・会津暦には思わぬ余波が。
なんでも鷹場廃止の恩恵にあずかった関八州の村々では、あの神さまコスプレの容さんが『五穀豊穣の守り神』として崇められはじめたんだとか。
聞くところによると、家の神棚横にこのブロマイドを貼り、朝夕に手を合わせ五穀豊饒を祈ると獣害に遭わないらしい。
(マジで?)
そのせいなのか、最近、毎日の差し入れに『供物』という木札が刺さるようになり、どう見ても多摩では取れなそうなコメ、魚貝類、イノシシ・鹿肉まで届くようになった。
うちの養豚事業は、いまは頭数を増やすことが優先で、とうぶん肉は食えないと思ってたから、野生鳥獣はうれしいプレゼント……なのだが。
イノシシや鹿は、上総・下総・常陸あたりのものでは?
しかも差し入れ量がハンパない。
なんか……供給エリアがすんごく拡大してるような……?
これって、あとあと面倒くさいことになったりはしないよね?
水利の乏しい多摩地域は、日本のほかの地域にくらべると水田はすくないですが、日野など多摩川流域では稲作も行われていました。
なので、多摩ではコメが全くとれないということはないです (*_*)