Sequestro di persona~誘拐~
月光に透けた天海の波が、地上へと映りこむ闇夜。
蒼い葉を持つ木々が生い茂る蒼森の中を、一人の少年が走り抜けていた。
肩に少女を担ぎ上げ、絹の様な白銀の髪を乱しながら、乱雑した木々の間を縫うように駆けていく。
少年の後方からは、三人の人影が追ってきていた。一人は女、もう二人は男のようだ。
少年は、慌てる様子もなく冷静に判断し、走るスピードを上げようとした。
その瞬間――。
「避けて!!」
悲鳴のように甲高い声が、耳元で聞こえた。同時に、後方から銃声が響いた。
足が縺れ、視界がぐらつく。
後方から放たれた銃弾が、少年の右足を貫通したのだ。月光の下に、血飛沫が上がった。
その場に崩れ落ち、少女が投げ出される。
右足を引き摺りながら立ち上がると、盲目の筈の少女が、覚束ない足取りで近寄ってきた。
気配だけを便りにして来たのだと考えると、胸が締め付けられるように苦しかった。少年の表情に、僅かな苦しみが滲み出る。
少女の頭を一撫でしてやると、無表情の瞳を僅かに細めた。
追っ手の三人は、距離を置いて少年を囲む。隙がなく、逃げられそうにない。
右頬に傷のある男――アレックスが、両手の銃を構え一歩前に出た。
「我々は、“ディバイン”の世界王で在らせられるマグナ王直属の騎士団『神聖ゲルニカ十騎団』だ。巫女様誘拐及び、『結界の屋敷』襲撃の罪により、本国へと連行する!」
「観念なさい、坊や♡」
右目を隠している前髪で遊びながら、おネエ口調の男――アオイが剣を突き付ける。
両目にベルトの様な眼帯を付けた女性――レイナは、何も言わず静観していた。
少年は、淡々と周囲の様子を伺っていた。動揺など、微塵もない。
巫女と呼ばれる少女が、涙声で訴える。
「もう良いです、私を置いて逃げてーー」
下さい、と続くはずだったが、少年から口を塞がれてしまった。
月光に光る涙は美しかったが、その瞳には光がなく、闇を抱えていた。
少年は安心させるように、ただ一言だけを囁いた。
「大丈夫だから、黙ってろ」
はねのけられるような言葉だったが、少女は安心したように後ろへと下がった。
その様子を見ていたアレックスは、不自然さを感じたが口には出さなかった。
少年は一歩前に出ると、三人を一瞥してこう言った。
「死にたくなければ、5秒以内に消え失せろ」
場が、静まり返った。
アオイが愉快そうな表情で、嘲笑を上げた。
「何を寝惚けたことを言ってくれてるのかしら、このクソガキ♡」
「自分の状況、分かってる?」
そこで、始めてレイナが言葉を口にする。
敵ながら、呆れた様子で溜め息をついた。
「私達の話、聞いてたわよね?」
「お前たちは、僕を知らない」
少年はそう言うと、銃撃を受けた右足の傷口に、自らの指を捩じ込んだ。
その光景に、三人は絶句する。
アレックスが、制止するように声を上げた。
「おい、止めろ!俺達は別に命までとろうなんて――」
そこまで言って、言葉が途切れた。
目の前の光景に、続けることができなくなったのだ。
少年は、右足から大量の血を流していたが、その鮮血がまるで生きているように蠢いていた。
それは、まるで蛇のように身体中を這い回り、両腕を伝って掌へと収束されていく。
そして、歪な形を何度も繰り返した後、二本の赤黒い大鎌へと姿を変えた。
アレックスが、譫言のように呟く。
「あの、血で形成された双鎌は、伝説の......“双鎌使いの一族 《ファルチェ》”」
「嘘でしょ!? 彼らは、数年前に世界の平和を脅かした存在として、マグナ王の手で殲滅されたはずなのに......」
焦りの混じる声でレイナがそう言うと、アオイは剣を構え直しながら叫んだ。
「慌てないで! こっちは団長クラス三人よ、焦ることはないわ♡」
叱咤された二人は苦渋の表情を浮かべ、アレックスは銃を構え、レイナは眼帯を外そうとした。
だが、少年はそれよりも早く動いていた。
完全に気配を絶ち、アレックスとの距離を一瞬で詰めると、二丁の拳銃を双鎌で切り刻んだ。
それから、アオイの懐へと滑り込み、反撃の隙を与えることなく全身を切りつけ、双鎌の片割れを右肩に刺した。
森閑とした中で、アオイが絶叫を上げながら倒れる。
そして、それに気を取られたレイナの背後に一瞬で回り込むと、右腕で両目を塞ぎ、首元に大鎌を突き付けた。
僅か10秒間の出来事であった。
三人は、呆然としていた。正確には、呆然とするしかなかった。
「言っただろう。死にたくなければ、5秒以内に消えろと」
少年は無感動に呟くと、アレックスの方へと視線を移す。
「どうする、まだやるか?」
予備の新たな銃を構えているアレックスに、少年は冷めたような瞳を向けてそう言った。
「お前だけは許さない!!」
怒りと恐怖により修羅の様な形相をしているアレックスに、少年は意外な言葉を浴びせかけた。
「周りを見ても、優先すべきは俺を殺すことだと?」
少年の視線が、僅かに横へとずれる。その視線の先を追うと、血塗れで倒れるアオイの姿が映った。
アレックスは我に返り、弾かれるように少年を見た。
僅かに口角を上げた妖艶な笑みが、瞳から脳裏へと刻む込まれる。
「アレックス、こいつを逃がしては駄目よ!」
それまで黙っていたレイナが、叱咤するように声を上げる。
「アオイだって……私だって、覚悟して任務に来てるの、だからっ!!」
「なら、あんたから死ぬか?」
戸惑うアレックスを尻目に、少年は首元の鎌を僅かに食い込ませる。レイナの首元から一筋の血が流れた。
それが、彼の限界だった。
「......分かった。お前を見逃すから、レイナを放せ」
「アレックス!!」
悲鳴のように名を叫ばれるが、何も言い返せず苦渋の表情を浮かべていた。
少年は一つ溜息を吐くと、鎌を退けて解放した。
そして、アレックスへと向かって、一言だけ投げかけた。
「お前は、まだ救いようがあるな」
はっとなり俯いた顔を上げるが、そこに少年と巫女の姿はなく、ただ夜の冷たい風だけが頬を撫でた。