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「はろー。ミナサマおそろいですのね」
いやに機嫌がいい。
透子が微笑んでいる時と機嫌がいいときは、要注意だ。
「あ、透子ちゃん」
「相変わらずおばかな顔してんねぇ。ほれ、おみやげ」
「なに?」
「長野の栗ようかん」
「わ」
しばらく姿を見ないと思っていたら長野に行っていたらしい。
透子の放浪癖は今に始まったことではない。
なぜ長野に行ったのか、聞いたところでまともな返答は得られない。
透子は、自分自身のことに関して、ほとんど語らない。
「山崎、何作ってんの?餃子?あたしも手伝う」
二人がキッチンに行ってしまって、叶は正直、困り果てていた。
いつものようにしあに軽口が叩けないでいたからだ。
内心の動揺を悟られまいと思ったが、しあは気にした様子も無く、ぼんやりとテレビを見ている。
コマーシャルに変わる。
なんてことはない、車の宣伝だ。
いきなり、しあは立ち上がった。
「あ。…あー!」
初めて聞くしあの大声。
そして初めて見る、慌てているらしいしあ。
驚いた山崎と透子もキッチンからすぐに駆けつけた。
ピアノ室に駆け込み、しばらくしてもでてこない。
どうしたのかと思ってのぞいてみると、楽譜を目の前に、途方にくれていた。
「どうしたの?」
「プーランク、忘れた…」
「え?」
「今日、5時から、プーランク…」
――――――――――
「はい、ごめんなさい。…あした、ですか。はい。…5時に5号館。はい」
何とか解決したらしいところを見て、透子、山崎、叶の3人はため息をついた。
聞けば、今日、クラリネットの伴奏の約束をしていたのに、忘れていたのだ。
今日の5時から伴奏合わせ、という約束も、楽譜をもらっていたことすら。
テレビの車の宣伝で、バックにその曲が流れていたから、思い出したのだという。
慌てて携帯電話を出させると、案の定、不在着信が何件もあった。
すぐに謝罪の電話をかけさせて、事なきを得たわけだ。
「相手、怒ってた?」
「笑ってた」
「そか。とりあえず、明日は遅れるんじゃないわよ?」
「おまえほんとバカだな」
時間が遅いので、今日はもう、練習できない。
透子が今更焦ってもしょうがないでしょ、と笑う。
しあはソファに置いたままの楽譜を未練がましく見つめながら、ダイニングテーブルのいつもの指定席、山崎の隣、透子の前へ座る。
「しあちゃん、プーランクのクラリネットソナタ聞いたことあるでしょ?」
「うん」
「じゃあ、何とかなるんじゃない?明日夕方まで時間あるんだし」
「いや、何とかしろよ、責任もって」
めずらしく叶がしあのピアノのことに関して口を挟んだ。
ピアノの技術にではなく、一般常識に関してなら、叶にも言えることはある。
「うん」
めずらしく神妙な面持ちで、しあはこっくりと頷いた。
「あんたさ、誰かの伴奏するのって初めてじゃない?去年は伴奏なんてやってなかったわよね?」
「うん。でも、必修だから。1回は伴奏で、試験受けるの」
分かるようで分からない説明。
さすがの透子も、解読しきれない。
透子は山崎に敬礼して言った。
「山崎、通訳!」
はいはい、と笑って山崎はまず、しあの小皿に餃子をとり分けた。こうしておかないと透子と叶に食い尽くされてしまう。