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その一  由利と俊介

「ゆ~り!」


まだ、風寒い、真冬の二月の大学構内。


「ゆ~り。ねぇ、ゆりってば!」


何か聞こえるような気もするが。

妙に甘ったれた口調で、その癖耳に変に響く低音ボイス。――――良い声だなんて思ってないぞ絶対に。


「ゆり! ゆ~り!」


聞こえない、聞こえない。

あたしにこの声は聞こえない。


「ゆ~り! ねぇ、ゆり! ゆ~りゆりゆり由利」

「…いい加減にしろ!」

「あ! やっぱり聞こえてんじゃん! ひっどいな~、無視していくなんて」


出来るもんならしたかったてんだ、このボケ!


「何度も何度も連呼すんな!」


あたしの名前を安売りすんじゃねぇ!


「だって、一回で振り向いてくんなかったじゃん。だったら、何回でも呼ばないと」


にっこり笑ってあたしの前に立つ男。

染めた茶髪に、こげ茶の目。ストリート系とやらのファッションがやたらと似合うチャラ男君。

ぶっちゃけ、顔は二枚目半、性格はしっかり三枚目半。


「用も無いのに、人の名前を連呼する必要があるのか、君には」

「用なら、ある!」

「…なに?」

「ノート、貸して!」


ガクッと体の力が抜け掛るのを、寸での所で食いとめる。

こんな奴の為に動揺するなんて、たとえ死んでもしてやるもんか!


「…講義中、何をしていたのかな?君は。確か、先週の講義の後も同じセリフをこの口から聞いた様な気がするが?」

「ちゃんと出席はしてました!」

「当り前だ!」


そんな事を聞いてるんじゃねぇ!


「ノートも、取ろうとしたんだよぉ~ でもさ、あの教授の声ってば睡眠薬だと思わない? 抑揚が~余りにも~ 俺のリズムにあっちゃってさ~」

「…で?」


……なにがどうしたって?


「完全熟睡いたしました! ノート、貸してください!」

「このボケ!」


べチン!

叩き倒す右手にも、もう容赦なんて欠片も無い。


「てめーの不始末はてめーでつけろ! あたしに何の義理が有る!」

「だって、五分はがんばったんだよ~」

「自慢にならん!」


ゲイン!

今度は固く握りしめた拳をお見舞いしてやる。

なんだって、こんな奴の知り合いになっちまう羽目になったのか…


「…で、応用物理だけで、良いのか?」

「あ… あ~出来れば、電気工学も…」


溜息と共に、背負ったリュックから目的のノートを二冊取りだす。


「何時も通り、二日で返せ。コピーは不可。他人への譲渡も厳禁。破った場合は二度と貸さん。…いいな?」


コクン…と、小さくうなずいた後…


「ありがとう!! やっぱり由利だよ~!! もう、めちゃくちゃ愛してる!」

「…最後の一言はいらん」

「え~なんで?」


――――― 誰にでも言ってる、心のこもってない言葉など、誰が欲しいと思うのか。


「あ、やばい。時間!」

「今日は、誰だ?」

「え~と、文学部の紗希子姫。一か月口説きまくった成果だよ~」

「はいはい… …わかってるな? 浮かれまくって約条なんぞ違えた時は…」


コクコクコク…

一瞬真っ青になって、思いっきり頸を縦に振りやがる。

ふん! わかってんなら、それでいい。


「…ゆり…怖い…」

「そう思ってんなら近付くな」

「ええ~ せっかくの、たった二人の同郷なのに」


…好きで、そうなっちまったと思ってんのか、バカ野郎。


「うわっち!マジ、やばい! 由利、ごめん!サンキュウな!」


はいはい… ひらひらと手を振るあたしなんかもうその眼中に入れる事も無く、門の外へすっ飛んで行く奴を、あえて目の中に入れない様に踵を返す。


「ゆ~り!」


その途端、掛けられた声に一瞬強張る。

見返した先に居たのは、さっき目の前に居たのとは似ても似つかぬほっそりとした小柄な人影で。


「…何だ、美咲か…」

「ま~た、橋本君? 今日の略奪品は?」

「応用物理と電気工学のノート」

「…つくづく、由利ってばお人よし。あんなのほっとけばいいのよ、ほっとけば!」


あたしの代わりの様に怒ってくれる美咲に、なんともいえない苦笑を返すしかない。


篠原美咲。

あたしの数少ない学友様。


真っ黒な重たい髪をただめんどくさいから後ろで束ねただけのあたしとは違い、少し癖っ毛のある明るい茶色のショート。はっきりとした顔立ちは綺麗と言うより、キュートとでも言ってやりたいほどの雰囲気で。飾り気のないセーターにジーンズ、ダッフルのコートと言う組み合わせは、けっして華美では無いのに、その仕草や表情が、同性のあたしから見ても、ハッとするほど可愛らしい。


その外見に惹かれて男ばかりのこの学部で、毎日と言っていいほど声を掛けられているみたいだが、さっぱりなびく様子は無い。むしろ、その見かけを裏切る毒舌ぶりに、バッサリとぶった切られた哀れな男どもは既に軽くふたケタ以上――――― あくまで、あたしが知っている範囲でしかないが。


「由利と橋本くんって同郷だって?」

「そう。考えたくないけど、中学高校と、クラスも同じ腐れ縁」

「それでかね~ 由利が、橋本君に甘いのって…」

「甘やかしてるつもりはないが…」

「うわっ! 無自覚だと尚更悪い。甘やかしも大概にしとかないと、付けあがっちゃうタイプよ、あーゆーのは」


――――― あんなタイプだって知らなかったんだからしょうがないだろ…


今さら言っても仕方がないので、反論しかけた口を大急ぎで噤む。


同じ中学、同じ高校。

数少ない理系進学クラスは、高校三年間クラス替えなど無かったから、丸々三年以上同じ教室で同じ空気を吸っていた筈なのに。


何も無い。

何も、知らない。

その頃は奴の事など、あたしはこれっぽっちも知っちゃいないのだ。

お互いの顔と名前の一致がかろうじて。

その程度しか、何の接点も無かった筈なのに。


唯のクラスメートとしか認識していなかった相手に、郷里を遠く離れたこの場所で――――― なんでこんなにくっついてこられなくちゃならない!

そんなもん、一回だって、あたしは望んでなんぞいないんだ!


理不尽だ。

余りにも理不尽だ。

せめて、高校の時みたいに、空気みたいに扱ってくれればこんなに振り回されずに済んだのに。




―――――橋本俊介。


ただ一人同郷の、あたしの学部の同級生。


茶髪の軽い、お調子者の二枚目半。



なのに、なんだって、あたしは奴があたしに関わる事を許してしまっているのだろう。






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