第八話 愛を信じる国家ほど貨幣の信用は脆いものなのですわ
本日17時も投稿します
数日後、王国の王宮。
「……これは、どういうことだ?」
王の手には一通の書簡。封蝋にはガリア帝国皇帝の紋章。そして、そのすぐ下に二度と見たくないはずの名前が書かれていた――リーティア・ヴァーレン。
「帝国が我が国の負担を減らすため、救済の手を差し伸べたというのか……?」
王太子シリウスが、信じられないという表情で書状を覗き込んでいた。
「賠償金の支払い期限延長、利率の引き下げ、さらに帝国が王国債務の一部を引き受けるだと! こ、これでは……」
「これでは帝国の施しで我らが立っている、そう言いたいのだ……」
王の声には怒りと屈辱が滲んでいた。
セシリアが、おずおずと口を開く。
「ですが、これで民たちの暮らしは少しは楽になります。冬を越せない村も減るでしょうし、リーティア様も考えを改めて――」
「その名前を軽々しく口にするな!」
「ひっ!? も、申し訳ありません……」
シリウスが思わずセシリアに怒鳴る。彼が見ていたのは書状の最後の一文。
『本協定案に含まれる全ての金融条項は、前王国会計院副総裁リーティア・ヴァーレン殿の監修のもと作成されたものである』。
静まり返った大広間に、紙の擦れる音だけが響いた。
「奴は帝国に寝返っただけでは飽き足らず、今度は帝国の名を借りて、我らの喉元に新しい縄をかけに来たんだ……」
「だが、受けねばならぬ。今の我らには他に手立てがないのだ……」
王国は自ら新しい契約書にサインをする。その片隅に、変わらない名前を添える――リーティア・ヴァーレン、と。
◇
ほどなくして、締結済み契約書が帝都の執務室に届いた。
「さて、一枚目のサインは綺麗に決まりましたわね」
机の上でペンをくるりと回しながら、私は新しい白紙を引き寄せた。
「次は、どの積み木から崩して差し上げましょうか」
白い紙束の端に視線を落とす。
王国の王家の印章。
帝国皇帝の印章。
そしてすぐ隣に並ぶ、私の署名。
この帝国で、いや、大陸中で最も重い契約書の一つだ。
「ご苦労だったな」
背後から声がして振り返ると、皇帝ヴォルフガング陛下が執務室に姿を現した。
「まさか陛下が直々にお越しとは珍しいことでございますわ」
「見届けに来ただけだ。新しい鎖が王国の首に嵌った瞬間をな」
私は小さく笑い、机に置かれた書類を整える。
「ええ、確かに嵌まりましたわ。王国はこれで帝国の善意なしには立ち行かなくなる」
「それでいい。奴らが誇りを守るのか飢えるかで足踏みをしている間に、帝国は先へ進めばよい」
皇帝が契約書に目を落とす。
その灰色の瞳に揺らぎは一切見えない。
怒りでも哀れみでもなく、ただ利益だけを見る目。
(やはり嫌いではありませんわ、こういう人は)
皇帝は数秒の沈黙の後、低く問いかけてくる。
「ヴァーレン嬢、次は何だ?」
「陛下のお望みは王国から奪うことですか? それとも帝国を太らせることですの?」
「どちらもだ」
「承知しました。それならば、次は心臓ですわね」
「心臓だと?」
「税収の源ですわ。その中心にどの貨幣を流すかで国家の血流は決まります。今回の協定で王国はすでに『帝国貨を用いた決済の優遇』を認めてしまいましたもの」
「ふむ……だが、まだ王国貨は残る」
「王国はまだ帝国貨より自国貨を信じています。商人たちもまだ完全には移っていない。ですから今後は王国貨を自国で使い続けても不便ではないが、帝国貨で取引した方が明らかに得をする。そんな環境を整えて参りますわ」
「ふっ、なるほどな。奪うのではなく選ばせるのだな」
「ええ、人は損をするより、得をしている気分でいる方が喜んで縛られますもの」
皇帝の口元がわずかに吊り上がる。
「変わらず面白い女だ」
「光栄ですわ。ただ一点、差し迫った懸念がございます」
「言え」
「王国が帝国貨への依存を自覚すれば、必ず対抗策を取ってきますわ。『王国貨の価値の維持』、あるいは『独自市場の形成』。手段は貧しい国ほど汚くなるものですから」
「それを防ぐ策はあるのか?」
「もちろんございます。帝国貨を流し込む前に王国貨の足元を先に崩してしまえばいいのですわ」
「どうやって崩すというのだ?」
「信用ですわ。貨幣の価値とは数字ではなく、信じられている量ですから」
その瞬間、皇帝の瞳が鋭く光った。
「それを崩せるのは王国貨に最も精通していた者だけだな」
「ええ、元王国契約統括署名者が適任でしょう?」
皇帝の沈黙は短かった。
そして、すぐに結論が下される。
「よい。続けろ、ヴァーレン嬢。帝国が好きなだけ遊ばせてやる。その代わり、分かっているな?」
「結果がすべて、ですわね?」
「話が早い」
その時、扉が激しく叩かれた。
「失礼します! 皇帝陛下、緊急の書状が届いております!」
使者が差し出した封筒には、王国の紋章。
皇帝は封を破り、視線を走らせると、口元をわずかに歪めた。
「王国が帝国貨優遇の方針に歓迎の声明を出したぞ」
「あら、予想よりずっと早いですわね」
私はペンを指で転がしながら、静かに微笑んだ。
「王国は助けてもらった相手に礼を示さなければならないと思う時、いつだって最悪の判断をなさいますのよ」
皇帝は笑い、書状を机に放った。
「見事だ。王国は自分で縄を太くしたぞ」
「さすがは愛を信じる国家ですわ」
そして、私は新しい書類を引き寄せた。
「では次の契約を始めましょうか。積み木はまだまだ崩れませんわよ。むしろ、ここから楽しくなりますわ」




