第十九話 第二幕は静かな監査から始めますわ
エルネシア滞在、最終日の朝。
「財政顧問殿、本当にお帰りになるのですか?」
港の桟橋で、ラルドが告げた。
その背後には都市連合会館から運び込まれた、新しい帳簿棚の列。すでに『帝国貨決済記録』と『海貨取引記録』の札が貼られている。
「エルネシアの台所は意外と早く片付いていましたもの。後は火加減と調味料の配分だけですわ」
「配分を間違えると鍋ごと吹きこぼれる気もしますがね」
ラルドの視線が港の外縁に停泊している新海諸国連合の商船に向けられる。昨日より少しだけ寄港地を外しているのは、税関の扱いが変わったせいだろう。
「海貨の味見はいかがでした?」
わざとらしく問うと、ラルドは苦笑した。
「まだ一口かじっただけですな。表面は甘いが、噛み締めると脂っこい。……そんな感じです」
「なるほど。喉に詰まりそうでしたら、遠慮なく帝都宛てに吐き出した分の数字を送ってくださいませ」
「物騒な料理帳だ」
ラルドは小さく笑うと、レオンハルト殿下へ視線を移した。
「殿下、帝国にお戻りになったらお伝えください。エルネシアは当面、帝国貨の心臓として鼓動し続けるつもりだと」
「心臓にしては、ずいぶんと逃げ腰な条文を書かせていたがな」
「死なない心臓ほど、商売に便利なものはありませんので」
軽口の応酬を聞きながら、ミーナが両手で抱えている紙包みを見せてきた。
「リーティア様、本当にこんなにお菓子もらってよかったんでしょうか……」
「『歓待費』として帳簿に載せてあるでしょうし、問題ありませんわ。後で帝都分とエルネシア分に仕分けしておきましょうか」
「仕分け……」
ミーナの頭から、数字の積み木が崩れ落ちていく音が聞こえた気がする。
「では、ラルド殿。今度は帝都の帳簿の隅で、あなたの名前を見るのを楽しみにしておりますわ」
「お手柔らかに願いたい所ですが、望みは薄そうだ」
ラルドは片手を胸に当て、商人流の礼を返す。
「エルネシアはこれからも数字に忠実に。そして時々、あなたの悪魔じみたレシピを思い出すでしょう」
馬車が街門をくぐると、門前の人たちが遠ざかっていく中、ラルドだけは最後までこちらを見ていた。
「さて、港の心臓には避雷針も立てましたし……次は本丸ですわね」
帝都ヘルツェインへの帰路は、行きよりも短く感じた。馬車の中で、私は書類を積み木のように並べ、ミーナは崩さないように両手で押さえ、レオンハルト殿下は呆れ顔で眺めている。
「……なあ、リーティア」
「はい、殿下」
「お前の積み木遊び、すでに机からはみ出していないか?」
帝国、王国、エルネシア、新海諸国連合。大陸の地図が、殿下の頭の中で一枚の帳簿に重ねられているのだろう。
「はみ出した分は、また新しい机を用意すればよろしいでしょう?」
「帝国の机にも、脚の強度というものがあるぞ」
「でしたら、その脚を太くするのがわたくしの役目ですわね」
そう言いながら、一枚の紙を指で弾く。
「王国共同監査契約書。お忘れではありませんわね?」
「……忘れる方が難しいな。シリウス殿下が帝都を発った後の報告が毎日のように届いている。王都の財務官僚が、真っ青な顔で帳簿を抱えて走り回っているそうだ」
「それは良い運動ですこと。紙は重いですもの。数字の重みを体で覚えていただくのは大切ですわ」
「お前は本当に容赦がないな……」
「ようやく数字と向き合う覚悟ができたのでしょう」
私は王国から届いた最新の写しを軽く振ってみせた。救貧基金の支出、帝国からの融資枠、王都大聖堂での配分額。どれもぎりぎりの綱渡りだ。
「帝都に戻ったら、まずは陛下とクラウス様にエルネシアの報告。その後、王国共同監査団の編成に取り掛からねばなりませんわ」
「つまり、休む暇はないと」
「仕事があるというのは、何よりの贅沢ですもの」
「リ、リーティア様、王国の帳簿って、エルネシアより多いんですよね……?」
「ええ、桁違いですわ」
私があっさり言うと、ミーナが少し青ざめる。
「桁違いですか……」
「その分、崩した時の音も立派でしょうね。楽しみですわ」
「楽しみって言いました……?」
「ええ、非常に楽しみよ」
「うぅ……」
ミーナが視線を向けてきたが、その目がすぐにとろんと落ちる。ここ数日の港仕事と長旅で、さすがに疲れが出たのだろう。
眠る侍女を眺めながら、私は王国行きの書類束を整える。
レオンハルト殿下が、その様子を見て苦笑いした。
「……こうして見ると、ただの過労気味の書記官と、積み木遊びの好きな女にしか見えんな」
「断罪された悪役令嬢と、帝国皇子殿下と仰ってくださってもよろしいのですよ?」
「わざわざ言う必要はないな」
殿下は窓の外に視線を戻し、ぼそりと続けた。
「王都に戻るのは怖くないのか?」
「怖くはありませんわ。いえ、正確に言うと怖がる暇もないほどやり残しがある、ですわね。……あの日、わたくしは物語の中で断罪されました。なら今度は、物語の外、つまり帳簿の上で王国側に『支払うべき分』を払っていただきませんと」
王都の民のために支払う分。
帝国に対して支払う分。
王家自身が自分たちの物語のツケとして支払う分。それらをきちんと並べて、最後の行に線を引く。それが今回の王都行きの目的。
「……全く、お前らしいな。普通なら断罪された側が『ざまあみろ』と言いたくて戻るんだろうが、お前は『決算書を締めに行く』と言う」
「どちらも大差ありませんわ。ただ、『ざまあみろ』は一日で終わりますが、決算は少なくとも一年単位で効きますもの」
レオンハルト殿下が思わず吹き出し、すぐに咳払いで誤魔化した。
「……王国の連中が聞いたら、本気で震えるぞ」
「そのぐらいが丁度よろしいのですわ。震えた手で押した印の方が長く残りますもの」
どれほど国が痩せ細っていようと、心臓さえ動いているのであれば、数字の上ではいくらでも蘇生の余地がある。
逆に言えば、一本のペンでその鼓動を止めることもできる。
「わたくしの王国への断罪に叫び声も華々しい舞台も必要ありません。決算書の一行を容赦なく引き直すだけで十分ですの」
「やはり、お前は恐ろしい奴だ……」
「殿下、最高の褒め言葉をありがとうございます」
「わたくしの王国への断罪に叫び声も華々しい舞台も必要ありません。決算書の一行を容赦なく引き直すだけで十分ですの」
「やはり、お前は恐ろしい奴だ……」
「殿下、最高の褒め言葉をありがとうございます」
(あの日、わたくしを断罪なさった王太子殿下と、その王国に、今度は帝都から、きちんと支払うべき請求書を突き付けて差し上げますわ)




