第十八話 海貨に断罪予告するお時間ですわ
「……行ってしまいましたね、ラルドさん」
「大丈夫ですわ。あの方は自分の懐に穴を開ける前に、必ず他人の懐の穴の数を数え終えるタイプですもの」
「それ、安心していいんでしょうか……?」
ミーナが首をかしげる横で、レオンハルト殿下が呆れたように、しかし深く息を吐いた。
「しかし、本当に良かったのか?」
「何がですの、殿下」
「新海とかいう連中の通貨に、最初の一刺しを許したことだ。帝国貨と王国貨の天秤だけで手一杯だろうに。これ以上盤上の駒を増やしてどうする」
「減らせるなら、とっくに減らしておりますわ」
私は仮の執務机に向かい、羽ペンをインク壺に浸した。
「通貨も国も人の感情も、『存在しないことにする』ことは一番の愚策ですもの。ならば、最初からどこを通り、どこに溜まり、どこで濁るか、すべて見ておいた方が後々の『掃除』が楽になるでしょう?」
「楽、ね……」
「ええ、後から『知らなかった』と嘆くよりは、最初から『知っていて黙っていた』方が、わたくしの性に合いますわ」
さらさらとペンが走る。本日の契約書の付則、その空白にたった一行を書き加える。
『新海諸国連合発行通貨の海貨に関するエルネシア内取引記録は、帝国監査局と共有されるものとする』。
「……なるほど。たった一行であの黒い旗の動きをすべてこちらの筒抜けにするつもりか」
「殿下、これを安いと見るか高いと見るかは、お好み次第ですわ」
その時、ミーナが「やっぱり悪役だ……」と小さく囁き、私の袖を掴んだ。
「リーティア様、その新しい通貨って……またレートとか難しいお話になりますか?」
「なりますわね。とても複雑でとても楽しいお話に」
「うぅ……。私の頭の積み木が崩れちゃいます……」
「ミーナには高く積んでおりませんから大丈夫ですわ。崩れてもすぐに積み直せます」
「それ褒めてます……?」
「もちろん」
私は微笑みながら契約書に封蝋を落とした。
赤い蝋が垂れる様は、まるで新しい血管が帝国に繋がれたようにも見えた。
◇
その夜、客船宿の一室。
窓の外には夜の海に浮かぶ無数の船の灯りが見える。
「お前は、どこまでやるつもりなんだ?」
レオンハルト殿下が、潮風に当たりながら静かに告げた。
「王国を片付け、エルネシアを巻き込み、次は新海諸国連合か、それとも大陸全土か」
「殿下の言い方ですと、わたくしが世界征服でも企んでいるように聞こえますわね」
「違うのか?」
冗談めかした口調の裏に、帝国の皇子としての鋭い警戒色が滲む。
「どうぞご安心なさいませ。世界征服などという野心は持ち合わせておりませんわ」
「なら、何を望む?」
「ただ、『断罪の続きを』最後まで見る権利ぐらいはいただいてもよろしいでしょう?」
「断罪……」
「王国は『物語』を信じて自分で信用を壊しました。エルネシアは『取引』を信じて自分たちで穴を塞ごうとしている。そして次は海。彼らが何を信じ、どう崩れるのか。その結末を数字で示すのが、わたくしの仕事です」
殿下はしばらく黙り込んだ後、ふっと力を抜いて笑った。
「お前が『ただの仕事』と言う時ほど信用できない言葉はないな」
「ひどい言われようですわね」
だが、その言葉には確かな信頼が含まれていた。
共犯者だけが共有できる、奇妙な安堵感と共に。
◇
翌朝。エルネシア港、税関前。
まだ夜明け前の薄暗い港に、男の怒号が響き渡った。
「あっちだ! 海貨を使用する荷は別枠だぞ!」
税関職員たちが一団の荷車を強引に足止めしていた。その事を初めて知った船乗りたちが、食って掛かる。
「何だと! 昨日までは通してたじゃねえか!」
「今日から手続きが変わったのだ! 新海諸国連合の通貨『海貨』での支払いは、一度エルネシア票に変換してから納税されることになった!」
私たちは少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
「仕事が早いですわね、ラルド殿」
「財政顧問殿に恥をかかせるわけにはいきませんからな」
いつのまにか隣に並んでいたラルドが、涼しい顔で肩をすくめる。
「昨夜の契約通り、臨時条項を施行しました。海貨の直接使用を停止。代わりに我々の両替所で手数料を払い、帝国貨かエルネシア票に変えていただく」
「つまり彼らは二重に手数料を搾り取られるわけですね」
「今までこの港を迂回して税を逃れようとしていた分の、ささやかな『お礼』ということです」
レオンハルト殿下が騒ぎの中心にいる男を見て、目を細めた。
「新海諸国連合の連中か」
海貨を握りしめた若い船長が苛立ちを隠せずにいる。海貨に刻まれた波と島の紋章は、彼らの誇りそのものだ。
私は殿下にだけ聞こえる声で囁く。
「『自分たちの貨幣を持ちたい』。発想としては嫌いではありませんわ。ですが、信用を広めるのに一番時間がかかるのは、『正しい物語』ではなく『最後まで責任を取った実績』ですのよ」
「王国のようにな」
「ええ、彼らが本気で自分たちの海貨を守りたければ、いずれどこかで血を流す覚悟を決めるでしょう。今はまだ、その覚悟を測っている段階です」
その時、船長が耐えかねたように叫ぶ。
「なら、今回は帝国貨で支払ってやる! だが覚えておけ、エルネシア! いつかこの港を通らない航路だけで商売できるようにしてやる!」
ラルドが続けて口を開く。
「その日が来ることを、心からお祈りしましょう。しかしその時、あなた方がこの港と通貨をどう扱ってきたか、きっと数字が綺麗に教えてくれますので」
「……っ!? 商人風情が生意気なことを!」
船長は銀貨の袋を地面に叩きつけるように投げ出し、去っていった。
残されたのは、朝の冷たい風と静寂。
「今のは少し言いすぎではなくて?」
「海貨を扱っている両替商の一人は、かつての私の仲間でしてね」
ラルドは遠ざかる背中を見つめ、寂しげに笑った。
「情のこもった一言でしたのね」
「ええ、情がなければ、この街は続きませんから」
ミーナが私の袖をつつく。
「リーティア様、あの人たちは悪い人なんですか?」
「さあ、どうでしょうね。きっと彼らにも『自分たちこそ正しい』という物語があるのでしょう。王国にもエルネシアにもあるように」
「……では、誰が正しいんです?」
ミーナの問いに、私は即答する。
「数字ですわ」
「出た……」
「物語は人の心を動かします。でも数字は最後に誰が立っていたかだけを冷酷に教えてくれる。だからこそ、いずれこの海の上でも『断罪』が行われるでしょうね。どの通貨が沈み、どの通貨が浮かぶのか。その時になって泣き叫ぶ悪役が出ないように、今から契約の網を張っておくだけですわ」
レオンハルト殿下が呆れながらも、楽しげに笑った。
「その悪役に自分がもう一度選ばれるかもしれないとは考えないのか?」
「構いませんわ。役名が変わらないなら舞台が増えるのは大歓迎ですもの」
私の言葉に、ラルドがくすりと笑い声を漏らす。
「なるほど、帝国がこの街に連れてきたのは、守護神でも疫病神でもなく、『雷』ですな」
「雷ですか?」
「ええ、落ちた場所を焼き払うのではなく、落ちると分かっている場所に、慌てて避雷針を立てさせるための雷です」
妙な喩えだが、あながち間違ってはいないかもしれない。
「お気に召しましたなら、その表現、今後の契約書のどこかに盛り込んでおきましょうか」
「勘弁してください。さすがに私の心臓が持ちません」
港へ吹き込む風が、新しい時代の匂いを運んでくる。
王国は数字を見ずに物語を選んだ。
エルネシアは数字と物語の釣り合いを探している。
そして新海諸国連合は、これから自分たちの物語を数字で裏打ちしようと足掻いている。
「大陸の地図の余白が足りなくなってきましたわね」
悪役令嬢の遊び場は、今や大陸全土へと広がろうとしていた。
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