第十七話 海から来る新しい通貨に挨拶する時間ですわ
本日21時も投稿します。
明日は12時、17時、21時となります。
契約の骨組みが固まり、会館の空気が軽くなった。
先ほどまで眉間に皺を寄せていた商人たちが、ほっと息を吐いていた。
「では、詳細条文は後ほど詰めるとして、今は料理を冷まさない方がよろしいでしょう」
ラルドが手を打つと、待っていましたと言わんばかりに給仕たちが動き出した。香草をまぶした魚のロースト、熱々のスープ、香辛料の利いた肉の串焼き。
机の上を占めていた帳簿の山が、次々と端へ追いやられていく。
「リーティア様、すごいです……お肉が、こんなにたくさん!」
「ミーナ、涎が落ちそうですわよ」
「す、すみません……」
慌てて口元を押さえるミーナの背後で、レオンハルト殿下が小さく笑った。
「王都の晩餐とは、ずいぶん雰囲気が違うな」
「王宮は見栄のために銀器を並べ、こちらは生き延びるために皿を並べる。どちらも悪くありませんわ」
私はスープに口をつけ、塩加減と香辛料の配分を確かめる。この街は数字だけでなく、料理も悪くないようだ。配分が整っているものは、料理でも帳簿でも心地いい。
「所で財政顧問殿、先ほどの『逃げ席』の条文ですがな」
「ええ」
「あなたの書きぶりですと、まるで帝国が沈みかけたら真っ先に逃げ出してよい、とお墨付きをもらったようなものだ」
「事実ですもの。沈みゆく船にしがみつきたい方など、そうはいないでしょう?」
「普通の国なら怒りますぞ?」
「帝国は普通ではございませんから」
そう言うと、レオンハルト殿下が苦いような、誇らしいような複雑な表情をした。
「……少なくとも財政顧問殿がいる間は沈まないでいてほしいものだな」
「そのために飼っていただいておりますもの」
ミーナが「飼って……」と小声で呟いた。
食事が一段落した頃、各都市の代表たちは席を外し、それぞれの持ち場に戻って行った。
残ったのは、ラルドと数人の連合幹部、それと私たち帝国組。
「……本当に引き返せない所まで来てしまいましたな」
窓際に立った年老いた商人が、港を見下ろしながら小さく漏らした。
「エルネシアはずっと『どちらにも付かない』ことで生きてきた。帝国にも、王国にも、適度に媚びて、適度に裏切って、上手くやってきたつもりでしたが」
「それはそれで一つの方法ですわ」
私は窓辺に歩み寄り、並んで海を見た。夕陽を背にした帆柱が黒い影となって並び、波頭だけが白く光っている。
「ですが、今はどちらにも付かないことが一番の『偏り』になっておりますのよ。帝国貨が血流を握り、王国貨が息を切らしている今、『真ん中』に立つ者ほど足元を掬われやすい」
「……耳が痛いですな」
年老いた商人が苦笑いした。
ラルドは机に広げた地図の上で指を滑らせている。
「だからこそですよ。帝国の旗は掲げない。だが帝国の心臓に片足を突っ込む。そうしておけば、どちらが倒れても『どちらか』の血で生き延びられる」
「殿下、それはあまり公に口にしてはなりませんわ。エルネシアの方々が本音を隠しにくいでしょう」
「ほう、公には言えない本音、と」
ラルドが面白そうに顔を上げた。
「いやはや、帝国殿下まで商人のような物言いをなさるとは」
「悪いが、俺はこの女に財政から叩き込まれているのでな」
「それはそれは。ではいずれ商会に一口乗っていただきたいものですな」
「あの、リーティア様、先ほどから窓の外に変な旗の船が見えます……」
後ろから、ミーナにそっと袖を引かれた。
「変な旗ですか?」
私は窓から顔を出し、港の沖合を探した。
帝国旗、王国旗、エルネシア連合旗。見慣れた模様の中に、確かに一際異質な紋章が揺れていた。
黒地に銀の輪。輪の中には、波と星が交差する簡素な図案。
「ラルド殿、あれはどこの旗ですの?」
「ああ……」
ラルドは少しだけ言いにくそうに頭をかいた。
「噂をすれば影と言いますか。あれは、さらに西の海を越えた先にある『新海諸国連合』の商船です」
「新海諸国連合ですか……」
聞き覚えのある名だ。帝国に届く報告書の中に、ここ数年で出てきた連合国。
「正確には諸国連合の中でも一番図々しい国の船ですね。自分たちの貨幣 『海貨』 を『大陸共通の第三通貨』にしようと動いている連中です」
「第三通貨の海貨ですか……」
帝国貨と王国貨。今まさに、その二つの天秤の傾き方を調整している最中に、第三の皿を持ってこようとしているのだ。
「エルネシアは海の表玄関ですからな。大陸に新しい財布を売り込もうとするなら、まずはここを抑える。数字の流れを見る目がある方なら、誰でもそう考えます」
「では、あの船は」
「ええ、帝国と王国が足の引っ張り合いをしている隙に、『我々の貨幣は安定してますよ』と売り込みに来るのでしょうな。財政顧問殿、あなたが今、帝国貨と王国貨の間に張り巡らせている網は確かに見事です。ですが、もう一つ目が増えれば、どう料理なさるおつもりで?」
ミーナが不安そうに私を見る。
「リーティア様、また積み木が増えてしまいそうです……」
「ええ、そうですわね。ですが積み木が増えることは良いことですわ。崩れ方が、より一層華やかになりますもの」
「少しは控えめに言え」
レオンハルト殿下が呆れ混じりに突っ込むが、その目はどこか期待しているようにも見えた。
「ラルド殿、本日の契約書には新海諸国連合のことは一言も書かれておりませんわ。ですので、あの船の相手は、まずエルネシアにお任せいたします」
「……よろしいのですかな?」
ラルドが片眉を上げる。
断られているのではなく、背中を押されていると気づくまで、一拍の間があった。
「帝国がここで『第三の通貨はすべて帝国窓口を通れ』などと書き加えたら、さすがのあなた方も筆を止めるでしょう? 最初の一皿ぐらいはご自由にどうぞ。味見をした上で毒か薬か教えていただければ十分ですわ」
「なるほど。まずは我々が試食係というわけですな。毒ならこちらで薬を飲み、薬なら帝国へ樽ごと送ると」
「ええ、その代わり、本日の契約の付則に一文だけ付け加えますわ。『新海諸国連合発行通貨で決済された大口取引の記録は、エルネシア共同窓口を経て帝国にも共有される』、と」
ラルドが笑い、周囲の商人たちが顔を見合わせる。
「取引の中身は我々の喉元で止めてよいが、流れた量だけはすべて帝国に見せろ、そういうわけですか」
「そうですわ。どれほどの水位が上がっているのかを知らずに、堤防を作るのは無謀ですもの」
その時、窓の外で低く汽笛が鳴った。新海諸国の船が港の外縁をゆっくりと回り込み始めている。
「では、こうしている間にも新しい財布の売り込みが始まるわけですな。財政顧問殿。あなたの網の目の外側で、私が少し泳いで参りましょう」
「ご自由に。ただし、泳いだ水飛沫がどれだけの高さだったかは、数字で報告していただきますわよ?」
「ええ、そこは商人としての信義にかけて」
ラルドが帽子に手を添え、軽く頭を下げた。
「ようこそ、エルネシアへ。帝国の悪役令嬢殿、あなたのサインがこの街の契約書に何行並ぶのか、楽しみにしておりますぞ」
「あまり期待なさいませんように。わたくしのサインは、本来『並ぶ』のではなく『絡みつく』ものですの。一度絡まれば、ほどくのはとても骨が折れますわよ?」
「それはそれは。でしたら、こちらも覚悟を決めて絡まれるとしましょうかね。財政顧問殿。また近いうちに」
「ええ、近いうちに、ですわ」




