第十六話 帝国に都合の良い独立都市にして差し上げますわ
エルネシアの街路は喧騒そのものだった。
帝国兵の鎧の列のすぐ隣を、王国風の外套を羽織った船乗りが笑いながらすり抜けていく。道端では焼き魚の香りと香辛料の匂いが入り混じり、どこの国とも知れぬ言葉が飛び交っていた。
「ミーナ、財布をしっかり押さえておきなさいませ」
「こ、こんなに人が……は、はいっ、押さえます!」
慌てて腰の小袋を両手で握るミーナを横目に、ラルドが肩をすくめる。
「ご安心を、お嬢さん。エルネシアで一番よく盗まれるのは財布ではなく、情報でして」
「それはそれで安心できませんわね」
私が応じると、ラルドは「ご最もです」と笑った。
「着きました。ここが西方商業都市連合の会館です」
案内された建物は城というには小さく、役所というには豪奢だった。石造りの正面階段、大きな両開きの扉、その上には例の標語が再度刻まれていた。
『信義と利得、天秤にかけて釣り合う所に商いは成る』。
(ずいぶん自分たちを分かっている街ですこと)
中に入ると、すぐに奥の大広間へ通された。
長い机の上には軽食と葡萄酒。
そして、書類が料理より多い。
「食べきれないほど並べておくのが、もてなしの基本でして」
ラルドが肩をすくめた。
机の片側には連合に属する各都市の代表者たち、反対側にはエルネシアの主だった商会の主たちが座っていた。どの顔にも疲れと好奇心が滲んでいる。
「では改めて、帝国財政顧問リーティア・ヴァーレン殿をお迎えできたこと、エルネシアの商人一同、心より歓迎いたします」
「光栄ですわ」
淑女としての礼を返し、椅子に腰を下ろす。
「まずは乾杯でも」
葡萄酒の杯が配られていく。
レオンハルト殿下も形式上は一商人として席に着き、ミーナは私の後ろに控えた。
「我らの街が明日も『誰のものでもない』と胸を張れるように。そして、本日集まった顔ぶれが明日も無事に笑っていられますように」
ラルドの乾杯の言葉は、どこまでも商人らしかった。
(明日も無事に笑う、ですのね。そこまで切羽詰まっていると)
「さて、歓迎の場ではございますが、数字の都合で長居はできませんの。『おもてなし』と『本題』、どちらを先にいたしましょう?」
「料理より先に帳簿をと仰るお客は久しぶりですな」
ラルドが口の端を上げる。
「では半分だけ本題にいたしましょうか。料理が冷めないうちに、せめて『何が焦げかけているか』だけでもご説明を」
山と積まれた帳簿と報告書の中から、私はごく一部だけを抜き取った。
エルネシア港の入港税収、両替税、倉庫使用料。そして帝国貨と王国貨、それぞれの取扱高の推移。
「ラルド殿、この数字だけ並べてみますと、帝国貨の取り扱いは昨年の二倍以上。王国貨は半分以下にも関わらず、都市の税収全体はほとんど増えておりませんわね?」
何人かの代表が顔を見合わせた。
「で、ですが港の賑わいは増えておりますぞ? 船も人もこの数年で倍だ」
「そうですわね。『通っただけ』ならですが」
私は別の紙を一枚重ねる。
「ここエルネシアを経由せず、帝国の南方港と新興の小港へ直接向かう航路。帝国船と王国船の寄港回数が、綺麗に反比例して動いておりますわ」
「……それは船乗りが言うには、ここ最近の荒天で西方航路の一部が」
「荒天が三年も続くのなら、気候の方を疑いますわ」
くすりと笑うと、ラルドが「参った」と小さく呟いた。
「つまり、エルネシアは『通っていたはずの金』を横から抜かれ始めている。表向きは以前と同じように賑わっているのに、腰の財布だけが軽くなっている状態ですわ」
「……やはり、そこまで見抜かれますか。南方の新興都市群が、帝国の一部商会と結託して我々を迂回する航路を整えつつある。王国貨が弱った今が好機だと見ているのです」
「その南方商会に、ラルド殿の旧友が何人か含まれている、と」
帳簿の片隅に残された古い署名。
同じ筆跡で書かれた別都市の契約書。
数字は友情も裏切りもよく覚えている。
「おやおや、そこまで炊事場を覗かれるとは」
ラルドが頭をかいた。
周囲の商人たちの視線が彼と私の間を行き来する。
「ラルド殿、帝国はエルネシアを『港』としては必要としていますわ。ですが、『替えが利かない』存在にするか、『便利な寄港地の一つ』にするかを決める権利は、まだこちらにありますの」
「……つまり?」
「簡単ですわ。帝国はエルネシアを通る航路を優遇する代わりに、エルネシアは『帝国貨の心臓』としての役割を引き受ける。南方の小港に流れかけている血流ごと、こちらに引き戻す契約を結びますの」
一人の代表が眉をひそめた。
「しかし、それでは我らが帝国の属港と見なされてしまうのでは? 『誰のものでもない』価値が……」
「そこですわ。属港にはなりませんわ。あくまで『帝国に最も都合の良い独立都市』でいていただきたいのですもの」
「都合の良い……」
ざわっ、と空気が揺れる。
ラルドだけが楽しげにその揺れを眺めていた。
「帝国の旗は掲げなくて結構。軍も常駐させません。その代わり、帝国貨で決済される全ての大口取引の記録をエルネシア経由にする。それを管理する窓口を『都市連合の共同機関』として置いていただきますわ」
「それはつまり……」
「帝国の金融の扉の一つを、この街に置く。鍵は帝国とエルネシアで二本ずつ持ち合い、その代わりエルネシアを迂回する航路には、帝国として相応の『不便』を用意する」
ラルドがゆっくりと息を吐いた。
「ずいぶんと思い切った台所改革ですな」
「帝国にとっても安くはない投資ですわ。ですのでラルド・オルフォート殿、あなた個人にも少しばかり痛みを負っていただきます」
「ほう?」
周囲の視線が一斉に集まった。
「南方の新興港に出資しているあなたの商会。そこから得ている配当を一定期間、エルネシアの共同基金に流す契約。これがなければ帝国としては『台所の穴を塞ぐより、そのまま沈むのを眺めていた方が安い』と判断せざるを得ませんわ」
「……っ!」
ラルドの手が一瞬だけ止まる。
しかし彼はすぐに笑みを取り戻した。
「なるほど。帝国の料理人殿は火の調整だけでなく、鍋ごと持ち替えろと仰るか」
「古い鍋にこびり付いた油は一度洗い流した方が綺麗に煮えますもの」
沈黙。会館の外からは港の喧騒がかすかに聞こえてくる中、口を開いたのは年老いた商人だった。
「……ラルド、お前が出した火種なら、お前の金で消してもらうのが筋だろう」
「そうだ。俺たちはずっとエルネシアは一つの卓だと言ってきたはずだ」
いくつもの声が、静かにラルドに向けられる。
「やれやれ」
ラルドは両手を上げて見せた。
「これだから古い仲間は嫌なんですよ。情というやつが残っている」
「都合の良い時だけ『情』という言葉を使わないでくださる?」
思わず口を挟むと、ラルドが肩を震わせて笑った。
「……いいでしょう」
彼は椅子から立ち上がり、私たちの前まで歩み出る。
「帝国財政顧問殿、エルネシア代表、ラルド・オルフォートとして。条件付きでその提案を受けましょう」
「条件とは?」
「帝国がこの街を『都合の良い独立都市』として扱うと誓うのなら、いつか帝国が傾いた時には我々が『都合よく見捨てられる側』にならないよう、退路も用意しておいていただきたい」
「……それは、面白い交渉ですわね」
帝国が傾く未来。
そんなもの数字の上ではいくらでも想像できる。
「よろしいですわ。その条項、最後の一行に書き加えておきましょう。『エルネシアは常に最も早く逃げられる客席を一つ保証される』、と」
レオンハルト殿下が「随分な書きぶりだな」と呟き、ミーナは「逃げ席……?」と首を傾げる。
ラルドはその奇妙な条文案を聞いて、心底楽しそうに笑っていた。
「やはり来ていただいて正解でしたな、財政顧問殿。あなたは確かに『悪魔』だが、少なくとも料理は焦がさない」
「お褒めに預かり光栄ですわ。悪魔もきちんとレシピ通りに作るのは得意ですもの」
机の上の白紙に最初の一筆を置く。
帝国と、エルネシア。そして数字を信じる者たちの新しい契約の輪郭が、静かに描かれ始めた。




