第十五話 誰のものでもない街へのご挨拶ですわ
二章の開幕となります。
帝都ヘルツェインから西へ三日。
軍用街道を外れ、商人たちが好んで使う迂回路を馬車で進むことになったのは、もちろん私の趣味ではなく、数字の都合である。
「揺れますわね」
車輪が石畳から土道に乗り上げるたび、馬車の中で書類束が小さく跳ねる。私の膝の上で積み木のように整えておいた契約案が、一枚だけ滑り落ちた。
「リーティア、馬車の中で書類を積み上げるのはやめろと言っただろう」
向かいの席で腕を組んでいるレオンハルト殿下が、呆れたように眉をひそめる。
「崩れ方を確認しているだけですわ」
「本物の積み木で遊べ」
「本物の積み木は崩れても誰も破産しませんでしょう? 退屈ですわ」
拾い上げた紙を指で整えながら答えると、殿下は諦めたようにため息を吐いた。
「それで、西方商業都市エルネシアだったな。あそこは帝国領でも王国領でもない独立都市だ。今度の相手は王家でも聖女でもない。ただの商人たちだが」
「『ただの』でしょうか?」
思わず笑いが溢れる。
「殿下、兵士が戦場で命を張るように商人は帳簿の上で命を張りますのよ。王家よりよほど数字に忠実な愛すべき生き物ですわ」
「お前の愛情表現はだいたい物騒だな」
そう言った殿下の隣で、ミーナが申し訳なさそうにこちらを見た。
「あ、あのリーティア様、さっきから本を見てると酔いそうで……」
「それなら眠っていても構いませんわよ?」
「いえ、そのお役に立ちたくて……」
ミーナの膝の上にはエルネシアの地図と簡単な商業統計の写し。彼女なりに『財政顧問付き侍女』として勉強をしてくれているのは素直に可愛く思う。
「そうですわね。では一問だけ簡単な確認をいたしましょうか」
「ひっ……」
ミーナの顔が一瞬で青くなった。
「この都市、エルネシアが帝国ではなく『都市同盟』を名乗っている理由は?」
「り、理由ですか……?」
「ええ、帝国に正式に組み込まれた方が兵の保護も関税の優遇も受けられるはずでしょう? それでも独立を選んでいる。なぜかしら?」
「え、えっと……」
ミーナが必死に地図とメモを見比べていると、レオンハルト殿下が助け舟を出した。
「帝国と王国の商人が共同で作った港だからだ。どちらかに正式に付けば片方の商人に嫌われるからな」
「正解ですわ、殿下」
「テストを受けていたのは俺じゃないんだが」
「あ、ありがとうございます、殿下!」
ミーナはほっと息を吐き、こっそり窓の外に視線を逃がした。丘を越えた彼方、まだ白くかすんでいるが、薄い煙の帯がちらちらと見え始めている。
あれが西方最大の港町エルネシアだ。
「エルネシアは『誰のものでもない』からこそ価値がある。だからこそ今度はそこを『誰のものか曖昧なまま帝国の懐に近づける』のですわ」
「まっすぐ属州にしてしまった方が早いと思うが?」
「それでは殺してしまうのと同じですわ。あそこは獣ではなく、金の卵を産む雌鳥ですもの。首を刎ねてしまっては意味がありませんわ」
殿下が少しだけ身を乗り出した。
「それで、その雌鳥の世話係が、ラルド・オルフォートと言ったか?」
「ええ、ラルドは西方商業都市連合の顔役。依頼状に名を連ねていた商人の一人です」
「どんな男だ?」
「少なくとも手紙だけで見るなら誠実で謙虚な方ですわ。『帝国のご厚情にすがる他なく』と、何度も書いてましたから」
「お前が一番疑うタイプの文面だな」
「さすが殿下、よくご存じで」
馬車が大きく揺れ、窓の外の景色が開ける。丘を下りきった先、海と空の境目に無数の帆柱が林立していた。石造りの防波堤、色とりどりの旗、行き交う小舟。帝国の港とも王国の港とも違う、雑多で喧騒に満ちた匂いが遠くからでも感じ取れる。
――数字の匂いがする。
通貨も言語も雑多に入り混じる場所は、往々にして『帳簿の綻び』が生まれやすい。そして、そこには必ず誰かが意図的に作った穴があるものだ。
「リーティア様、港ですよ! 船があんなに!」
「ミーナ、あれは『船』ではなく『動いている税収』とお呼びなさいませ」
「は、はいっ!?」
「いずれ慣れますわ」
私が冗談めかして言うと、レオンハルト殿下が小さく笑った。
「やはり、お前は楽しそうだな」
「ええ、とても。王国は『物語』を信じる国でしたが、ここは『取引』を信じる街ですもの。きっと話が早くて助かりますわ」
◇
「関税証を確認する! 帝国の通行証を持つ者は右へ、王国の証を持つ者は左へ、それ以外は中央へ進むように!」
エルネシアの街門は帝都とはまるで違っていた。
門番の叫び声が飛び交い、荷車と商人たちが三つの列に分かれていく。城壁はそう高くはないが、代わりに門前には検問所と両替所が何重にも並ぶ。
それぞれの屋台に掲げられた札には、帝国貨、王国貨、エルネシア独自の商業札と、数字がぎっしりと書き込まれている。
「やあ、帝国の御一行さんかい?」
馬車を降りた時、軽い声が私たちに飛んできた。
「ようこそ、西方の小さな財布へ。これほどの顔ぶれが揃っているとなると、相当分厚い契約書を抱えていらっしゃると見た」
声の主は門前の喧騒にも全く動じる様子のない男。
年は四十手前。太くも細くもない体格に、くたびれかけた上等の上着。何より目立つのは、その目だ。笑っているのに一切の隙がない。
「西方商業都市連合代表の一人、ラルド・オルフォートと申します」
ラルドは帝国式でも王国式でもない、商人流の挨拶で頭を下げた。
「遠路はるばる帝国財政顧問殿をお迎えできるとは恐悦至極。いやはや手紙でお見せした苦しい台所事情だけでは足りなかったようで」
「ラルド殿」
レオンハルト殿下が一歩前に出る。
だが、ラルドは殿下ではなく、最初から私の方だけを見ていた。
(礼儀知らず、ではありませんわね。相手をよく知っている目……)
わざとらしく微笑み、彼に一礼を返す。
「帝国財政顧問、リーティア・ヴァーレンと申します。エルネシアの台所を拝見しに参りましたわ」
「こちらこそ噂の『契約の悪魔』に炊事場を覗かれる日が来るとは思いませんでした」
ミーナが「悪魔……」と小声で震え、殿下が小さく咳払いをした。
「その呼び名は帝国内ではあまり広めないでいただけると助かりますわ。侍女が怯えますもの」
「では、今はただの『腕のいい料理人』ということにしておきましょうか」
ラルドの目がほんの僅か笑う。
「帝国も、王国も、我々にとっては大事なお得意様。ですが、どちらか片方だけと食卓を囲めと言われると少し困る。そこで今日は帝国の料理人殿に相談したいことが山ほどありまして」
「料理と呼ぶには、かなり血の味が混ざる献立になりそうですわね」
「こちらとしても少しばかり血を吐きかけられておりまして」
ラルドの視線が門前の両替所の札に向く。
そこでは、すでに帝国貨優遇の数字が王国貨をじわじわと締め上げていた。
「帝国が王国の喉元に回した紐の端っこが、どういうわけかこの街の首にまで絡んでおりましてな」
「それは失礼いたしました」
私は少しだけ申し訳なさそうに頭を傾げてみせた。
「ですがご安心を。結び目の扱いは得意ですの。どちらに締めるかを選ぶ権利は、まだそちらに残っているのでしょう?」
「さあ、どうでしょう。それを確かめていただくためにも、まずは街へ。書類の山と、問題の山と、それから少しばかりの歓迎の席をご用意しております」
歓迎と聞いて、ミーナの目がきらりと光る。
「リーティア様! 歓迎ってことは、その甘いお菓子とか……?」
「ミーナ」
「はいっ、仕事ですね!」
慌てて背筋を伸ばす彼女を見て、ラルドが楽しげに笑った。
「良い随員をお連れだ。ようこそ、エルネシアへ、財政顧問殿。ここは帝国でも王国でもない。ただ『数字がすべてを決める街』。あなたのような方にはきっと居心地がいいでしょう」
「それは嬉しいお言葉ですわ」
(数字がすべてを決めるですって?)
私は視線だけで門の上を見上げた。
石造りのアーチには、この街の古い標語が刻まれている。
『信義と利得、天秤にかけて釣り合う所に商いは成る』。
「では、ラルド殿。その天秤に帝国の分銅を一つほど乗せさせていただきましょうか」
ラルドはまるで心底面白がっているかのように目を細めた。
「お好きなだけ。ただし、こちらもただで乗せられるつもりはありませんので」
こうして悪役令嬢と数字を愛する商人たちによる新しい『遊び』が、西方の港町で幕を開けた。




