第十二話 その招待状は殿下への復讐ですわ
「陛下! これ以上、帝国貨を優遇するなど正気の沙汰ではございません!」
「最近では市中の両替商まで帝国貨を持つ者ばかりを優遇しておりますぞ!」
「それだけではございません! 王都の商人連中が『帝国の方が話が早い』などと言い出しております!」
長机の左右から、貴族や官僚たちの声が飛び交う。
その中央で、シリウス殿下は拳を握りしめていた。
(そんなことは分かっている! だが、打つ手がないのだ……)
帝国との新協定で一時的に財政の首は緩んだ。だが、その代わりに流通する貨幣はじわじわと帝国側に傾き始めている。最近では市場で王国貨お断りとまではいかないにせよ、露骨に嫌な顔をされる噂まで立ち始めていた。
騒つく中で、財務官僚の一人が口を開く。
「王都大聖堂が帝国救貧基金への協力を正式に宣言した件ですが、民の間では『帝国の方が民のことを考えている』といった声も出始めております」
「大聖堂まで帝国の金にすがっているというか……」
王が重い声で呟いた。
その視線が末席に控えていたセシリアへと向く。
「セシリアよ、帝国の基金を受け入れたのは、そなたの進言だと聞いている」
「……はい。困窮信徒の支援のためには必要だと、神官長と共に判断しました」
セシリアは拳を握り、膝の上で押さえ込んだ。
「施し箱は空に近く、冬を越せない人たちが増えています。王宮からの支給もこれ以上は難しいと伺いました。ならば、差し伸べられた手を――」
「その手が首にかけられた縄だったとしてもか?」
思わず、シリウス殿下の言葉が刺さるように飛び出した。
「……殿下?」
セシリアが顔を上げる。その瞳には驚きとかすかな傷つきが浮かんでいた。
「帝国は善意だけで動く国ではない。戦場でも講和の席でも、いかに我らを縛るかを考えていた連中だ。その金を王国の神殿を通してばら撒く意味が分からぬはずがないだろう」
「分かっています。それでも……」
セシリアは唇を噛み、それからまっすぐにシリウス殿下を見る。
「それでも飢えた子を見捨てることはできません。帝国の思惑がどうであれ、今日生き延びる人たちがいるなら、その事実は消えません」
「だが、その選択が王国の誇りを――」
「誇りでお腹は膨れません」
静かな声だった。声を荒げたわけでもないのに、その一言で会議室のざわめきがぴたりと止まった。
「私は聖女として祈りを求める人たちの前から目を背けることはできません。それが結果的に王国を傷つけることになるのなら、その責めは私が受けます」
(殿下にもきっと責められる。それでも……)
胸の奥でセシリアは小さく呟いた。
シリウス殿下は言葉を失い、拳を握りしめるしかなかった。帝国の思惑も財政の数字も分かっている。セシリアの言葉も間違ってはいない。
「もうよい。今は互いを責めている暇はない。帝国は救貧基金とやらで民の心を掴みに来ておる。ならば我らは我らの手で王国の形を守る道を探さねばならぬ」
その時だった。
扉の向こうで近侍の声が高く響く。
「陛下! ガリア帝国より、特使が到着いたしました!」
会議室の空気が一瞬で張り詰める。
「……通せ」
王の命で扉が開かれる。
入ってきたのは深い緑の礼装をまとった中年の男と、その後ろに続く数名の随行員。胸元には見慣れたあの紋章、ガリア帝国皇帝の双頭の鷲。
「ガリア帝国陛下の名代として参上いたしました、外務卿代理エルンスト・ヴァルナーにございます」
男は恭しく一礼した。
「本日は救貧基金の拡充と王国経済の安定化についてのご提案をお持ちいたしました」
(安定化、だと……?)
シリウスは思わず眉根を寄せる。
エルンストは丁寧な仕草で封筒を差し出した。
「こちらが帝国よりの協定案となります」
書状が王からシリウスの手へと渡る。
彼は素早く目を走らせた。
救貧基金の拡充。
帝国貨建ての長期融資枠の設定。
王国市場における帝国商会の活動優遇。
そこまでは予想の範囲内だった。だが、最後の一文でシリウス殿下の指が止まった。
「……何のつもりだ、これは」
「『本協定の調印および発表はガリア帝都ヘルツェインにて行うものとする』。『王国よりは国王陛下のご健康を慮り、王太子シリウス殿下を公式代表としてお迎えしたく存じます』だと……?」
「王太子殿下には、以前より帝国との交渉の場でご活躍いただいていたと伺っております。今回の協定も両国の未来を繋ぐ重要な一歩。是非とも、殿下ご自身のお言葉で民と世界に示していただきたく思います」
シリウスのこめかみがぴくりと震えた。
(帝都、ヘルツェイン……そして、この文体……)
書状の末尾に添えられた付属文書へ、視線が滑っていく。
『協定案金融条項監修者』。
そこに見慣れた名前、『ガリア帝国財政顧問 リーティア・ヴァーレン』。
指先から血の気が引いていく感覚がする。
「リーティア……!」
たまらず名を呼んでしまったシリウス殿下に、エルンストはわずかに目を細めた。
「殿下もご存じの通り、財政顧問殿は王国財政においても長くご尽力なさっていたとか。陛下も、かの方の知見を高く評価しておられます。今回の協定案もまた殿下をよくご存じの方が、王国の事情を慮って設計されたものにございます」
その言葉は礼節に包まれたまま、鋭い刃のようにシリウス殿下の胸に突き刺さった。
(俺をよく知っているだと? あの日、断罪した女が……)
セシリアは息を呑み、シリウス殿下は拳を握りしめ、視線を封筒に落とす。
帝都での調印、王太子の出席、救貧基金の拡充。
どれも断る理由は山ほどある。それでも拒める状況ではないことは誰の目にも明らかだった。
「……返答までの猶予は?」
「一週間ほどでご回答いただければと。もちろん王国側の事情がおありでしたら、延長もやぶさかではございません。ですが、救貧基金の拡充分につきましては寒さが厳しくなる前にお届けできればと陛下は案じておられます」
会議室の奥で数人の貴族が顔をしかめる。
「民のため」と言われてしまえば完全な拒絶は難しい。
王は深く息をつき、重々しく頷いた。
「よかろう。書状の内容はしかと受け取った。返答は追って使者を通じて伝える」
「恐れ入ります」
エルンストが下がり、会議室の扉が閉じられる。
残されたのは王とシリウス殿下、セシリア、そして蒼白な顔をした貴族たち。
「シリウス、お前はどう考える?」
シリウス殿下は返答に詰まった。帝都に赴くということは、相手の土俵に自らの足を踏み入れるということだ。
そこにリーティアがいる。
(あの日、俺が断罪し、追放した女が。今度は帝国の顔として俺の前に立つだと……)
喉の奥が焼けつくように熱く、苦い。
「殿下」
小さな声が響いた。
セシリアが一歩前へ出ていた。
「私は……行かれるべきだと思います。帝国の思惑がどうであれ、今、民を繋ぎ止めているのはあの基金です。寒さが厳しくなる前に支援が届かなければ、飢えて凍える人がもっと増えます。それに、リーティア様はきっと殿下が来ることを前提にこの協定を作っているはずです」
その名を口にした瞬間、会議室の空気がさらに張り詰めた。
「どういう意味だ……?」
「あの方はいつも誰がどこに立つかまで計算していました。断罪の場も、今こうして王国が帝国に縋らざるを得なくなっているのも、すべて。きっと今回も殿下が来なかった時の筋書きと来た時の筋書き、両方を用意しているはずです」
沈黙。
やがてシリウス殿下は自嘲気味に笑った。
「ならば俺がどう動いても、リーティアの掌の上というわけか」
「……そうかもしれません。それでも、私は殿下に行ってほしいのです。民のためにも、王国のためにも、そしてあの日の断罪の結末を殿下ご自身の目で見届けるべきだと思います」
あの日。
大理石の上に響いた自分の言葉。
『お前のような女はもはや王家には不要なのだ!』。
――結果はどうだ?
不要と切り捨てた女のペン先一つで、今や国の血流は握られている。
シリウス殿下は目を閉じ、深く息を吸った。
「……分かった。父上、もし帝国がこの協定を本気で進めるつもりなら、王国側の代表は私が行くべきでしょう」
王は息子をしばし見つめると、ゆっくりと頷いた。
「行け。だが忘れるな。お前は王太子として行くのだ。決してあの女の思惑に踊らされるでないぞ」
「心得ております」
シリウス殿下はそう答えながら、胸の奥で別の言葉を噛み締めていた。
(踊らされるかどうかは、会ってみなければ分からないさ、リーティア)




