第十一話 王都の舞台にもう一度幕を上げますわ
王都大聖堂は、冬の冷気と身を寄せ合う人々の息づかいで白く曇っていた。石床には毛布も持てない子どもたちが座り込み、その隣では手を合わせたまま動かない老人たちが静かに祈りを続けていた。
その間を縫うように、セシリアは歩いている。
「聖女様!? また顔を見せてくださったのかい」
かすれた声がいくつも重なる中、セシリアはしゃがみ込み、一人の老婆の手をそっと握った。
「大丈夫です。神は見ています」
本当は、私にできることなんてほとんどない。
祈りの言葉とは裏腹に、胸の奥にじわりと無力感が広がる。
「聖女様」
奥から現れた神官長が、セシリアに小さく会釈をした。
「王宮からの支給は、やはり……?」
「増やすことは難しいとのことです。ですが陛下も殿下も、どうにか他の道を探してくださっているようで……」
どれだけ綺麗に包んでも『金がない』という現実は消えない。神官長もそれを分かっているのだろう。肩を落とし、それでも笑おうとする。
「そうですか……では、我らは我らにできることをするしかないですな」
その時、聖堂の扉が重たく開いた。
「失礼いたします」
冷たい外気と共に、見慣れぬ男が数名の従者を連れて入ってくる。地味だが質の良い衣服。胸元には王国の紋章ではない、見慣れぬ紋章が光っていた。
「こちらが王都大聖堂で間違いございませんな?」
神官長が一歩前へ出る。
「そうですが……そなたは?」
「ガリア帝国帝都大神殿より派遣されました、巡回司祭ルドルフと申します。本日は皇帝陛下、並びに帝国宗務院からの書簡を携え、参りました」
「帝国……!?」
ざわっ、と聖堂内が揺れる。
帝国、戦争、賠償――重たい言葉が民たちの間を小さく行き交う。
セシリアも思わず息を呑んだ。
(帝国……リーティア様の今いる場所ね……)
「差し出がましいようですが、我らの皇帝陛下は隣国において戦の傷に苦しむ信徒たちのことを案じておられます。つきましては――」
ルドルフと名乗った男が封筒を差し出す。
神官長は受け取ると、震える指で封を切った。
「帝国救貧、戦災遺児基金、設立の報せ……? 『王国における困窮信徒への支援のため、帝国貨での寄付を受け付ける窓口を王都大聖堂に設けてほしい』。さらに『寄付金の一部は大聖堂の維持費として還元される』とある。なんと、あの帝国が神の慈悲を説くとは……」
「我らはただ、陛下の御心をお伝えするのみです」
施し箱の中身は、ほとんど空。
王宮からの支給も、すでに頭打ち。
それでも目の前の人々は祈りにすがるしかない。
「帝国が我らの民を助けると?」
「我ら帝国正典教も同じ神の前に立つ信徒でございます。国は違えど、苦しむ者を助けよという教えに違いはございません」
セシリアの胸が締め付けられる。
(本当に神が差し伸べた手? それとも、あの人の……)
脳裏をよぎるのは、あの断罪の日の光景。契約書を積み上げた冷たい広間。そして、そこから追われていった女の頬笑み。
(これを受けたら、きっと王宮で責められる。殿下にも裏切ったと……それでも私は……)
セシリアは目の前の子どもたちを見る。凍えた指先、痩せた頬、祈るしかできない瞳。
「……受けましょう」
「聖女様、それは……」
「助けを差し伸べてくれる手があるのなら掴みます。例えそれが帝国からのものであったとしても、私は神を信じています。この申し出が誰の思惑から出たものであっても、飢えた子が一人でも少なくなるのなら、それは神も望んでいるはずです」
それは祈りに限りなく近い宣言。
ルドルフは胸の奥で小さく息を吐く。
(やはり噂通りだ)
彼は知らない。この基金を設計した女の名までは。ただ、書簡の隅に小さく記された署名だけが、帝国の一部の人間にその存在を知らせている。
――帝国財政顧問、リーティア・ヴァーレン。
◇
帝都、リーティアの執務室。
「王都大聖堂、帝国救貧基金への協力を表明。帝国貨による寄付窓口の開設を、説教の場で公に宣言」
クラウスが読み上げる報告書を、私は紅茶を飲みながら聞き流した。
「想定より、少し早いですわね」
「聖女セシリアとやらが、かなり強く賛成したようです」
レオンハルト殿下が報告書の一文を指で軽く叩く。
「『神は国境を見ない』。そう言って帝国の申し出を受け入れたそうです」
「綺麗なお言葉ですわ。だからこそ通貨単位も見ないのでしょうね」
私が肩をすくめると、クラウスが苦い顔をした。
「……本当に良いのですかな。ここまでやる必要があるのかと、ふと考えてしまいます」
「ここまで、とは?」
「民を救うための言葉さえ、あなたの積み木遊びに組み込まれているように見えるのです」
クラウスの声音には非難というより、純粋な戸惑いが混ざっていた。
「クラウス様、帝国は困窮信徒を助ける基金を作りましたわ」
「……はい」
「王国の聖女様はそれを使って民を救う道を選ばれた。彼女の善意も民の祈りも本物でしょう」
そこまで言って一拍置く。
「わたくしがしているのは、その箱の底にどの色の貨幣が残るかを決めているだけですわ」
レオンハルト殿下が、小さく息を吐いた。
「少しとは言い難い気もするがな」
「当人たちの物語は何一つ変えておりませんもの。聖女様は民を救い、帝国は慈悲を示し、王国は誇りを守ろうとする。素敵なお話ですわ。ただ、その結末の数字だけは正しく合わせて差し上げませんと」
断罪の場で泣きながら私を責めた女。
その瞳に宿っていたのは、幼い正義感と『世界は愛で救われる』と信じて疑わない光。それを否定する気は、あまりない。
「愛も信仰も世界を動かす力になります。ただし、決算書の下段に並ぶ数字は別の真実を語りますわ」
レオンハルト殿下が、じっとこちらを見つめているのに気づき、私は首を傾げる。
「どうかなさいまして?」
「いや、あなたが王国にいた頃の帳簿を少し見てみたくなっただけだ」
「それは残念ですわ。あの国の帳簿はもうわたくしの管轄外ですもの」
しばらくの沈黙。だが、それを破ったのは扉を叩く軽い音だった。
「リーティア様、失礼いたします!」
ミーナが顔を覗かせる。いつもの元気さの中に、どこか複雑な色が混ざっている。
「さっき市場に行ってきた侍女仲間から帝国の王国救済の噂が広まってると聞きました。何でも『帝国の方が優しいかもしれない』と言ってる人もいるって聞きました」
「噂の広がりは早い方がよろしいですわ。ただし勘違いしてはいけませんわね。優しいのは帝国ではなく、金の流れを正しく整えようとする者ですわ」
「……リーティア様って、本当に悪役なんですか?」
ぽつりと落ちた一言に、部屋の空気が少し和らいだ気がした。
私はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「悪役令嬢と呼ばれておりますもの。名刺代わりみたいなものですわね」
「でも、今助かっている人たちもいるんですよね?」
「結果としてそうなるでしょうね」
「じゃあ私の中では少し怖いけど頼れる人ってことにしておきます!」
「ずいぶんと長い肩書きですわね」
思わず吹き出すと、レオンハルト殿下も小さく笑った。
――積み木の塔は、まだ高い。
王国の誇りも、聖女の祈りも、その上に乗っている。
私は新しい束の契約書を机の中央に置く。
「殿下、そろそろ王都の舞台にもう一度幕を上げて差し上げませんと。断罪劇の続きはまだでしたわね?」
「……シリウス王太子を再び舞台に上げるというのか?」
「ええ、せっかくあれだけ盛大に私を断罪してくださった主役ですもの。終幕まできちんと出演していただきませんと帳簿が合いませんわ」
悪役令嬢の遊びは、まだ終わらないのだから。




