第十話 次に崩す積み木は『信仰』ですわ
「入っても構わないか?」
商人たちが去った後、レオンハルト殿下が執務室に訪れてきた。
「もちろんですわ、殿下。今一つ目の網を張り終えた所ですの」
殿下は机の上に広げられた契約書の山に目をやると、わずかに目を見開いた。
「……これを今日一日で?」
「骨子は既に昨晩のうちに出来上がっておりましたから。商人の方々に合わせて飾り文句を少し変えただけですわ」
レオンハルト殿下は書類の一部を手に取り、ざっと目を通す。
「帝国貨での決済に優遇措置、王国貨での大口取引に自主的な事前報告義務……」
「自主的と書いてございますでしょう? 強制ではありませんのよ? ただ報告してくれた方が明らかに得をするだけですわ」
「……やはり恐ろしいな、あなたは」
殿下は書類を静かに置き、窓の外を見る。
夕陽に照らされた帝都の屋根が橙色に染まっている。そのさらに向こう、見えない王国の方角へと視線を向けるように。
「王国からの報告が来た。市中で王国貨を嫌う店が出始めているそうだ」
「ええ、ミーナからの報告でも聞きましたわ。最初のうちは王国貨もまだ使えるでしょう。ですが不便になるのです。少しずつ、少しずつ」
「王国はどう動くと思っている?」
「『帝国の策謀だ』と叫んでみせるでしょうね。その上で王国貨の信用を守るために、さらに無理を重ねるはずですわ」
殿下が小さく眉を寄せた。
「……それも計算の内か」
「殿下」
私はペン先を拭き取りながら、穏やかな声音で告げる。
「王国がどう動くかなど、最初から決まっておりますわ。あの国は、数字ではなく自分たちの物語を信じる国家ですもの」
「物語か」
「ええ、『愛があれば数字などどうでもいい』と信じている限り、数字に喉元を掴まれていることに気づきませんの」
その時だった。
扉が控えめに叩かれる。
「リーティア様、失礼いたします。王国からの新しい報告が届いております」
ミーナが少し青ざめた顔で書状を差し出してきた。
「何だか王国の市では朝から両替所の前に行列ができているそうです……」
私は封を切り、ざっと目を通す。
「王都の両替商が王国貨から帝国貨への交換レートを引き下げたようですわね。王国貨をたくさん持っている者ほど損をする形に」
「それは……」
「面白いですわね」
私は心から楽しそうに笑ってしまった。
「王国貨を多く抱えているのは誰かしら? 貴族、官僚、そして王都の商人たち。民ではなく、あの方々の方ですわ」
「自分たちで自分たちの足場を削っている、というわけか」
「ええ。民を救うための帝国との協定が、自分たちの足元だけを冷たくしていく。なんて物語としてはなかなか味わい深くありませんこと?」
「やはり、あなたは悪役令嬢だな、ヴァーレン嬢」
「お褒めの言葉と受け取りますわ。悪役は物語を面白くするために必要ですから。わたくしが数字で積み木を崩し続ける限り、帝国は飽きずにこの遊びに付き合ってくださるのでしょう?」
窓の外では帝都の夜の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。
(さあ、次はどこを狙いましょうか。王国の誇りか、それとも聖女とやらの信仰か)
積み木の塔はまだ高い。
だからこそ崩し甲斐があるというもの。
「殿下、よろしければご一緒にいかがです? 数字で世界をひっくり返す遊びは、なかなか癖になりますわよ?」
「……せめて、その崩れ方は見届けたい所だな。帝国の皇子として、そして一人の『観客』としてな」
「まあ、それは光栄ですわ。では、次は『信仰と通貨』にいたしましょうか」
◇
王国の冬は、本来なら祭りと祈りの季節だった。だが、今年の王都の空気は冷たいだけで、どこも祝祭の匂いがない。
「陛下、これ以上は……」
王宮の小会議室で財務卿が震える声を上げた。
「救貧用の予算はとうに底を尽きております。王都の大聖堂からは救済金の増額要請が連日相次いでおります。しかし帝国への支払いを遅らせれば、今度は条約違反で……」
「そんなことは分かっておるわ! だが、民を飢えさせる王がどこにおるというのだ! 我らは正義の王家だと――」
「正義はお腹を満たしてはくれません……」
「セシリアか」
その名が呼ばれ、部屋の隅から少女が一歩進み出た。
雪解けのような淡い金髪、疲れた顔。それでも笑みを浮かべようとする、聖女セシリア。
「……はい、殿下」
「王都の大聖堂は今どうなっている?」
「……日に日に増えています。暖を取るために聖堂に来る人、食べ物を分けてほしいと訴える人……。神官長様ももう限界だと……」
セシリアはぎゅっとローブの裾を握りしめる。
「でも皆さんまだ祈っています。『王家も聖女もきっと見捨てない』って……」
その言葉に、王は苦しげに目を閉じた。
「セシリアよ、今こそお主の言葉が必要かもしれん」
「……私の言葉ですか?」
「そうだ。信徒たちを落ち着かせてくれ。帝国との協定は『民を救うためのものだ』と。王家と聖女がそう告げれば、誰も文句は言えないだろう」
「それは……」
(帝国との協定……リーティア様が絡んでいる契約……)
その名を思い出すだけで、胸の奥がざわつく。
自分たちが断罪したはずの女。だが今、民をぎりぎりで支えている数字のいくつかは、きっと彼女が残したものだ。
「私の言葉で皆さんが少しでも安心するなら……やります」
セシリアは、はっきりと答えた。
「ただ……」
「ただ何だと言う?」
「『帝国に感謝しなさい』とは言いたくありません。助けを受けることと、心まで差し出すことは違うと思うからです。私が伝えられるのは、誰かが誰かを助ける気持ちは国を超えても同じということだけです」
しばしの沈黙の後、王が笑った。
「聖女は我らよりよほど王家らしいことを言うではないか。好きに言えばよい。ただし、民を諦めさせるな。それだけだ」
「はい」
セシリアは深く頭を垂れた。




