第九話 街角停電《まちかどていでん》
市灯道局の会議室は、昼だというのに薄暗かった。
壁一面に広がる大きな地図。その上には、赤と青の小さな押しピンがびっしりと刺さっている。ガス灯の幹線、工場の配管、電灯の配線――町じゅうの灯りの筋が、蜘蛛の巣のように描き込まれていた。
灯塔夜人は、その前の長机に座り、緊張で背筋をこわばらせていた。
机の周りには、見知った顔が揃っている。
下町灯夫組からは、夜人と三上銀次と親方。
工場灯夫組から、霧島灯子、樫村鉄蔵、御子柴六郎。
花街灯夫組からは、小柄な男・緒方紅市と、派手な着物に半纏を羽織ったお妙、見習いの弥吉。
山の手灯夫組から、氷室灯真、綾小路桂、斎藤清次。
港灯夫組から、早瀬潮、汐見澪、仁科源太。
そして端っこの椅子には、場違いなくらい楽しそうな顔で、宵坂ミナトが手帳を抱えて座っていた。
部屋の空気を、親方の低い声が切り裂く。
「――報告を、順番に」
最初に口を開いたのは、霧島灯子だった。
「工場街では、ここ三晩ほど、圧が一瞬だけ跳ねる現象が続いています」
灯子は地図の工場区画に赤いピンを刺した。
「大きく暴れる前に、樫村さんたちが絞って収めてますが……十年前の爆発の前にも、似たような“小さな乱れ”が何度も記録されています」
樫村が腕を組みながら頷く。
「煤王の残り香が、管の中でまだ蠢いてやがるかもしれねえ」
次に、花街灯夫組の緒方紅市が手を挙げた。
「花街じゃあ、残灯の糸みてえなのが、別の店でチョロチョロしやがってます」
紅市は、花街の路地に青いピンを刺す。
「縫灯の本体はあんたらが追い出してくれたが、あいつが縫いつけかけた願いが、まだ灯りの端々にくっついてやがる。お妙と弥吉で順番にほぐしちゃいるが、今夜もまた動きそうだ」
お妙が、扇子で口元を隠して笑う。
「恨みっこなしに消えてくれるなら楽なんですけどねえ。灯りってのは、たいていしつこい」
山の手からは、斎藤が前に出た。
「電灯の方でも、短い停電が続いている」
官庁街の辺りに白い線が引かれる。
「事故というには、妙に“順番どおり”だ。氷室の方から報告した異常灯火も、今のところ全て数分以内に収まってるが……」
氷室が、淡々と続ける。
「光移しを押さえた以降も、切り替え工事に絡んで古いガス灯が勝手に灯る事例が出ています。すぐに送灯処理をしていますが、“誰かがわざと揺らしている”印象です」
港灯夫組の潮が、顎で地図の下手――河口から港への辺りを指す。
「港の灯台と埠頭の灯りも、変な揺れ方をしてます」
潮が刺した青いピンのすぐ横に、澪が静かに別のピンを刺した。
「鎖童子の本体は沈めましたが……鎖火の欠片が、また上流の方へ向かっているのを感じます」
その言葉に、夜人の胸がざわついた。
自分たちの持ち場――下町の印は、すでにいくつも地図に刺さっている。三ノ丁の角、工場街の入り口、橋の上、花街との境目。
ミナトが、机の上に何枚もの古新聞を広げた。
「で、こちらが十年前の“大停電前夜”の記事です」
紙面の端には、小さなコラムや事故記事が並んでいる。
『工場街で小規模なガス漏れ騒ぎ』『花街で灯りの怪談』『港で係留ロープ切断』『山の手官庁街で一時停電』――。
「……見事に、同じ場所ですね」
綾小路が、感心したような、うんざりしたような声を出した。
「順番まで、だいたい同じだ」
親方が、地図に刺さったピンを一本一本なぞる。
「工場がざわついて、花街がざわついて、山の手の電灯が瞬き、港で鎖が鳴る。十年前も、そうだった」
部屋の空気が、冷たくなった気がした。
「ってことはよ」
銀次が、頭の後ろで腕を組む。
「十年前に“大停電”をやらかした元凶が、また同じ順番で遊んでるってことか?」
「遊び、ですかね」
灯子が、唇をひきむすぶ。
「試している、に近い気がします。今の灯夫組が、どこまで押さえ込めるか」
氷室が、静かに親方を見る。
「上は、“広域停電の再発防止策”を求めています。ですが、現場で闇魍を扱えるのは、我々点灯夫しかいない。十年前の記録以上の情報がないと――」
「十年前のことは、そのうち話す」
親方の声が、低く響いた。
「だがまずは、今起きてることを潰す。大口叩く前に、小さい火種をちゃんと見て回れ。それが点灯夫だ」
ミナトが、小さく手を挙げた。
「あの、ひとつだけ。記者としてのお願いなんですけど」
「なんだ、宵坂」
「もし“大きいの”が来る前に、小さな異常の“並び方”だけでも、ちゃんと記録を残しておきたいんです。十年後、また同じことが起きたときのために」
親方が、ふっと鼻で笑った。
「十年後も新聞は出てるのかね」
「出してみせますよ。灯りが残ってる限りは」
ミナトの目は真剣だった。
夜人は、そのやりとりを聞きながら、胸元の行灯にそっと手を添えた。
十年前の夜。自分は何も知らなかった。今ようやく、その“並び”の上に立っている。
(なら、見逃すわけにはいかない)
親方の声が、場を締めくくった。
「――各組、自分の灯区に戻れ。今夜はいつも以上に耳を澄ませて歩け。
大口は、真夜中のあとで聞いてやる」
*
その夜の町は、一見いつもどおりだった。
下町の屋台からは笑い声が漏れ、花街では三味線が鳴り、工場街ではボイラーが唸り、山の手の洋館には白い電灯が映えている。港では、船乗りたちが酒瓶を片手に歌っていた。
だが、灯りの揺れ方だけが、どこか落ち着かない。
花街の路地裏では、一本のガス灯の火が長く伸び、縫灯の糸のような灰色の煙が、また誰かの影に絡みかけた。
緒方紅市が、さっとその糸を指でつまんでほどき、お妙が扇子でぱちんとはじいて消す。
「やれやれ、しつこい恋ってのは厄介だねえ」
お妙が笑うと、弥吉が慌てて灯を磨きに走る。
工場街では、管の中の圧が一瞬だけ跳ねた。
灯子が配管図を睨み、樫村が巨大なレンチでバルブを締め、六郎が補助管を開いて圧を逃がす。
「今のも十年前の記録と似てます!」
「似てるからこそ、同じ轍は踏まねえ」
樫村が、額の汗を拭った。
山の手では、電灯が一瞬ふっと暗くなり、白い光の中に黒い影が揺れかけた。
「光移しの残りか」
斎藤が杖を構え、氷室が手早く送灯の線を引く。
電灯の明滅は、すぐに落ち着いた。
「“世代交代”は、一度決めたらやり直さない方がいい」
氷室の言葉に、綾小路が肩を竦めた。
「ええ、恋と同じですねえ」
「そんな話はしていない」
港では、灯台の灯と埠頭の灯が、ひとときだけ細い鎖で結ばれかけた。
澪がその揺れを見つめ、潮が錨灯で鎖を軽く叩いて、別の方向へと導き直す。
「また来たら、ちゃんと沈めてやるからな」
潮の背中を見ながら、澪は沖の闇をじっと見つめていた。
――そして、下町。
夜人と銀次は、いつもの川沿いの通りを歩いていた。
「……なんか、“みんなで同じ夢見てる”みてえだな」
銀次が、空を見上げる。
「工場も、花街も、山の手も、港も。小さい揺れが順番に来て、順番に収まっていく」
「夢なら、覚めてくれれば助かるんですけど」
夜人は、三ノ丁に続く路地を見やった。
十年前、この町の灯りが一斉に消えた夜。
今夜の小さな異常は、あの夜へと続く「前ぶれ」の並びと同じだと、親方は言った。
(誰かが、わざと並べてる)
そんな感覚が、夜人の胸で膨らむ。
「おい夜人。顔が怖えぞ」
「怖くしてるつもりはないんですけど」
「怖い顔してると、闇が寄ってくるって親方が――」
言いかけた銀次の言葉が、すっと途切れた。
ふたりの前の角のガス灯が、ふっと暗くなったのだ。
「……今の、見たか」
「見ました」
風はない。ガスの匂いも変わらない。
ただ、灯りが一瞬だけ引き絞られたように細くなり、そのあと何事もなかったように元の明るさに戻った。
胸元の行灯が、わずかに熱を持つ。
「銀次さん。ちょっと先、見ててもらえますか」
「ひとりで行く気か?」
「すぐそこですから」
夜人は、ふらりとガス灯の根元へ近づいた。
石畳に、見慣れた焦げ跡がある。三ノ丁の闇魍を斬った夜の、白い火の残り。
行灯が、衣の内側で微かに灯った。
――その瞬間。
『よく、見ているね』
耳ではなく、胸の奥に声が落ちてきた。
女でも男でもない。若くも老いてもいない。
ただ、よく通る、よく響く声。
夜人は、思わず辺りを見回した。
路地には誰もいない。銀次は少し離れたところで、こちらを怪訝そうに見ている。
『橋の上の朽火も、花街の縫灯も、工場の煤王も、港の鎖童子も。
ひとつひとつ、よく見て、よく話して、よく灯していた』
声は、ガス灯の炎の内側から聞こえてくるようだった。
『灯塔の子は、皆そうなのかな』
「……誰だ」
夜人は、行灯を握りしめた。
炎は静かだ。だが、その芯のさらに奥で、黒い影がゆらりと揺れた気がした。
『まだ、名を教える時期じゃない』
柔らかく笑うような響き。
『十年前、君の父も、名を聞こうとした。
だが、その前に灯りの方が消えてしまった』
喉が、ひゅっと鳴る。
「父さんと……会ったのか」
『当然だ。あの夜、町じゅうの灯りを、全部、口に運ぼうとしたからね』
“口”という言葉に、ぞっとした。
『今夜は、試しただけだよ』
声は、淡々としているのに、どこか愉快そうだ。
『工場の管。花街の路地。山の手の電灯。港の鎖。
そして、君たち点灯夫の動き』
ガス灯の火が、かすかに揺れた。
『なかなか良い灯りだ。前よりも、ずっと綺麗に燃える』
「……何を、しようとしてる」
『十年前に途中で終わった夜を、最後まで見てみたい。
消えた灯りも、消えなかった灯りも、全部まとめてここへ連れてきて――』
一瞬だけ、炎が真っ黒になった。
『――飲み込む』
ぞわり、と背筋を冷たいものが走り抜ける。
夜人は、思わず行灯の灯を強めた。
白い火が、ガス灯の内側をひと瞬だけ照らす。
黒い何かの輪郭が見えかけた。人の形にも、獣の形にも、巨大な口のようにも見える曖昧な影。
すぐに、それは炎に紛れて消えた。
『今は、挨拶だけ』
声が、遠くなる。
『次は、本当の夜に会おう、灯塔夜人』
ガス灯の炎が、何事もなかったかのように安定した。
胸元の行灯の灯が、ちり、と揺れて消える。
「夜人!」
銀次が駆け寄ってきた。
「顔、真っ青だぞ。なに見た」
「……わかりません。けど――」
夜人は、ガス灯を見上げた。
さっきまでの声が、本当に灯りの中から聞こえていたのか、それとも自分の胸の中だったのか、判然としない。
だが、ひとつだけはっきりしている。
「誰かが、町じゅうの灯りを“並べて”ます。
十年前と同じ順番で。……今度は最後まで、飲み込むつもりで」
銀次が、歯を噛みしめた。
「親方に話そう。ひとりで抱え込むな」
*
番屋に戻ると、親方はすでに火鉢の前で待っていた。
夜人の顔を見るなり、煙管の火を指でつまんで消す。
「……聞こえたか」
「親方、まさか」
「十年前の夜もな」
親方は、火の消えた煙管を握りしめた。
「工場の灯りが全部消えたあと、町じゅうの灯がひとつ残らず暗くなった瞬間があった。
その真っ暗な中で、“口”みてえな気配が、灯りをまとめて飲み込もうとしてやがった」
夜人は、会議室の地図を思い出した。
赤と青のピンで埋められた町。その上に、黒い何かの口が、ぱっくりと開く光景。
「その“口”、親方は――」
「俺たちが触れたのは、歯の先っぽぐれえのもんだ」
親方は、静かに笑った。
「だから今も、十年前の続きが、こうしてじわじわ並べられてる。
真夜中の点灯夫はな、その“口”に灯りごと呑まれねえように、歯ぐきの間に楔打ち込む役目だ」
夜人は、胸元の行灯にそっと触れた。
豆灯守の芯が、薄く白く光る。
十年前に消えた火の続き。
町じゅうの灯りを並べて呑み込もうとする“何か”との、まだ始まってもいない本当の夜の戦い。
「……逃げられませんね」
「逃げられねえよ」
親方は、いつものぶっきらぼうな声に戻った。
「灯りに目ぇつけられた点灯夫はな、真夜中の終わりまで、目ェ開けて見てなきゃなんねえ。
怖えもんから目を逸らさない。それが、真夜中の点灯夫だ」
夜人は、ゆっくりと頷いた。
町のどこかで、小さな灯りがひとつ、またひとつ、今夜も消えていく。
その消える瞬間まで、そして消えたあとの行き先まで――
自分たちは、目をそらさずに見届ける。
その覚悟だけが、今は、ガス灯より確かな灯りだった。




