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第八話 港に残る鎖火《くさりび》



 河口の風は、川よりもしょっぱかった。


 灯塔とうとう夜人やひとは、鼻の奥に残る潮の匂いを感じながら、埠頭ふとうへ続く石畳を歩いた。遠くでは汽笛が鳴り、係留ロープに繋がれた船の影が、黒い山のように並んでいる。


「おお、海だ海」


 三上みかみ銀次ぎんじが、いかにもな顔で両腕を伸ばした。


「下町の川と違って、でけえなあ。落ちたら二度と帰ってこれなさそうだ」


「そういうこと言わないでください」


 夜人は苦笑しながら、胸元の行灯あんどんにそっと触れた。港の灯りは、川のそれより強く、荒い。埠頭に並ぶガス灯の炎が、潮風にあおられて絶えず揺れている。


 今夜、下町灯夫組したまちとうふぐみは、港灯夫組みなととうふぐみからの応援要請でここに来ていた。


 埠頭の奥から、低く響く笑い声がした。


「おーい! 下町の真夜中ってのは、お前らか!」


 夜人たちを手招きしたのは、がっしりした体つきの男だった。袖をまくった作業服から、縄のような腕が伸びている。肩には、いかりの形をした鉄の装飾が付いた点灯棒。


「港灯夫組の早瀬はやせうしおだ。ここら一帯の灯りと船は、だいたい俺の顔見知りよ」


「下町灯夫組の三上銀次だ。こっちが夜人」


「灯塔夜人です。お世話になります」


 夜人が頭を下げると、潮はにかっと笑った。


「硬ぇ挨拶はいいって。灯りがやばいときは、組だの灯区だの言ってる暇はねえ。――おい、みお!」


 潮が声を張ると、少し離れた岸壁がんぺきの端から、ひとりの少女がこちらを振り向いた。


 短く結んだ髪を海風に揺らしながら、汐見しおみ澪は静かに歩いてくる。細身の体に作業用の半纏はんてん脚絆きゃはん。胸元には、小さな羅針盤らしんばんのような飾りが付いた灯守とうもり


「港灯夫組の汐見澪です。……川向こうから、ようこそ」


 声は落ち着いていて、目はどこか遠くを見ているようだった。


「さっき、灯りを見てましたよね」


 思わず夜人が口にすると、澪は少しだけ目を瞬いた。


「見えてました?」


「はい。水門の方、じっと」


「……クセなんです」


 澪は、海の方へ視線を戻した。


「ここから見える灯を、ひとつひとつ数えるのが。港に戻ってくる船の灯りを、ずっと待ってた頃の名残」


「船を、待ってた?」


「昔、出たきり戻らなかった船があって。幼なじみが乗ってたんです」


 潮が「おいおい」と苦笑して口を挟む。


「いきなり重い話をするなよ。下町の兄ちゃん、引くぞ」


「事実を聞かれたので、事実を答えただけです」


 澪は淡々としている。


 夜人は、何と言っていいかわからず、ただ海の方を見た。暗い水面の向こうに、いくつもの灯りが揺れている。


「それで、港の灯りが何かおかしいんですか」


 夜人が尋ねると、潮は表情を引き締めた。


「ああ。ここ何晩か、係留ロープが勝手に切れたり、静かなはずの海で船がぶつかったりしてな。灯りが変な繋がり方をしてやがる」


 その横で、さらなる巨体がごそっと動いた。


仁科にしな源太げんただ」


 荷揚げ人足あがりらしい大男が、ぶっきらぼうに名乗る。両手に巻かれた縄は、鎖と見まがうほどごつい。


「港の鎖とロープは、だいたいこの俺様の言うことを聞く。……はずなんだがな」


「“はずなんだがな”がつくの、怖いんですけど」


 銀次が肩を竦めた。


 潮が岸壁の先を顎で示す。


「今夜はまだ穏やかだが、さっきから嫌な“揺れ”が続いてる。――澪」


「はい」


 澪が、港の灯台の方を見た。遠くの白い灯が、わずかに瞬いている。


「川の朽火くちは、覚えてますか、灯塔さん」


「……はい。橋の上で、鎖みたいに灯りを繋いでいたあいつですね」


「あの時戦ったやつだな」と銀次が茶々を入れそうな勢いを、夜人は心の中でだけ訂正する。


「その火が、一部、川を下ってこっちに来ている気配があるんです」


 澪の声は淡々としているのに、その言葉は冷たい。


「鎖にぶら下がったまま、港まで流れてきた火。今夜、それに呼ばれているものが――」


 そのときだった。


 港の灯台の灯りが、かすかに歪んだ。


 埠頭に並ぶガス灯が、一斉にちかりと瞬き、次の瞬間、鎖とロープの絡まる音が一斉に鳴り響く。


 岸壁の影から、じゃらん、と重い鎖が這い出てきた。


「来やがったな」


 潮が低く唸る。


 鎖は、ガス灯の柱を一つひとつ叩いて回りながら、灯りから灯りへと伸びていく。海水に濡れた鉄の光が、灯火に照らされて鈍く光る。


 水面が、不自然に盛り上がった。


 そこから、子どもぐらいの背丈の影が、鎖にぶら下がるように顔を出した。


 体じゅう鎖をぐるぐると巻き付けた、小さな人影。顔は黒い影のままなのに、目の場所だけが青白い火で光っている。


『おお、おお』


 じゃら、と鎖が鳴った。


『落ちたやつ、戻れなかったやつ、いっぱいいる。

 橋から落ちたやつ、港で帰ってこなかったやつ。

 みんな、鎖で繋いでおいてあげる』


「……鎖童子くさりどうじ


 潮が、忌々しそうに呟く。


「境目に住み着きやがる名付きだ。落ちた奴と、戻れなかった奴の“最後の場所”を鎖でくくって歩く厄介者よ」


『こっちに来なよ』


 澪の足元まで、鎖の先が伸びた。


『待ってたんだろ。戻らない灯を。

 渡り損ねた灯りは、みんなこっち側で遊んでるよ』


 澪の瞳が、一瞬揺れた。


 夜人には、彼女の肩がかすかに強張るのが見えた。


「……あんた、まだあの船待ってるのか」


 源太がぼそっと漏らし、すぐに潮に後頭部をはたかれる。


「余計なことを言うな、源太」


 夜人は、鎖童子と澪のあいだに一歩踏み出していた。


「鎖童子。待ってる灯りを、勝手に連れて行くな」


『勝手?』


 鎖童子が、子どもみたいに首を傾げる。


『落ちたら、おしまいだよ。

 渡りそこねたやつは、こっち側にしかいられない。

 戻れるのは、一度も落ちたことないやつだけさ』


 胸の奥が、嫌な具合に締めつけられた。


 夜人は、ふと、自分が橋の上で鎖を渡した夜を思い出す。朽火の火を鎖のように繋いで橋を守った、あの瞬間。


 あのとき、落ちた灯りも、きっとあった。


「落ちた灯りが、全部お前のものになるわけじゃない」


 夜人は、胸元の行灯を握りしめる。


「戻れなかった灯りだって、“どこへ行きたかったか”ぐらい、自分で決めたいはずだ」


『どこへって?』


 鎖童子の目が、青く燃え上がる。


『沈むしかないのに?』


 潮が、錨型の点灯棒を肩に担いだ。


「沈むのは沈むさ。その前に、ちゃんと行き先を見てやるだけだ」


「夜人」


 澪の声が、小さく夜人を呼んだ。


「……もし本当に、“あの人の灯りの残り”が混ざってるなら」


 潮も源太も聞いているのに、澪は構わず続けた。


「最後にどこへ行きたがってるか、私も見たい。――いいですか」


 夜人は、澪の横顔を見た。


 泣いてはいない。けれど、海風とは違う冷たさが頬を撫でていた。


「……はい」


 夜人は頷く。


「じゃあ、ちゃんと見ましょう。戻れなかった灯りの行き先を」


 胸元の行灯が、ぱっと白く灯る。


「銀次さん、時間稼ぎを!」


「おうよ。鎖のガキは任せろ」


 銀次が鎖童子の前に飛び出し、点灯棒の鉄輪で鎖をはたき落とす。鎖童子はじゃらじゃらと笑いながら、別の鎖を伸ばしてくる。


「潮さん、港の灯全部、使えますか!」


「使っていい灯なら、全部俺の言うこと聞く!」


「源太さんは、鎖が暴れすぎないように抑えてください!」


「任せろ。鎖の機嫌取りは慣れてる」


 港灯夫組が動き出す。


 夜人は、行灯から白い火を点灯棒へ移した。港に並ぶガス灯と、船のランプ、灯台の灯――ひとつひとつが、頭の中で細い線になって繋がっていく。


 海面の上に、見えない「道」が浮かび上がる。


連灯れんとう……鎖道さどう!」


 棒先で空中に線を描くと、白い火が水面すれすれを走った。


 埠頭の灯から灯へ、船の灯、灯台の灯――すべてが白い線で結ばれる。鎖童子の体に巻かれていた鎖も、その白い線に絡め取られた。


『……なに、これ』


 鎖童子の声が揺れる。


「鎖の先を、全部“見える道”に変えただけです」


 夜人は、澪の方を振り返った。


「見てください。鎖が指している先を」


 澪の灯守が、胸元で微かに光る。


 澪は目を閉じ、ゆっくりと開いた。


 彼女の瞳の中に、白い線が映り込む。


 港から少し離れたおき、その先の、水底の暗がり。その一角が、ぼんやりと薄青く光って見えた。


「……あ」


 澪の唇が、かすかに震える。


「見える?」


 潮が短く問う。


「ええ。――でも、名前は呼びません。呼んじゃうと、戻れなくなるから」


 澪は、静かに言い切った。


 鎖童子が、つまらなそうに鎖を揺らす。


『教えてやればいいのに。

 “お前の待ってた灯り、ここにいたよ”って』


「教えなくてもいいです」


 澪は、海を見たまま続ける。


「私が知っていれば、それで足ります。あの人も、この港も、ちゃんと灯りを見てる人がいるって」


 夜人は、彼女の横顔を見つめた。


 この港で、何度も何度も灯りを数えてきた人の、横顔。


「……潮さん」


 夜人は、錨型の点灯棒を構えた潮に向き直った。


「あの場所まで、行き先ごと、沈めてあげてください。

 鎖童子も、鎖火くさりびも、まとめて」


「言われるまでもねえ」


 潮が、にやっと笑う。


港灯夫組みなととうふぐみ流――送りおくりしずめ、見せてやらあ!」


 錨灯いかりびが眩しく光った。


 潮が点灯棒を振り下ろすと、海面から巨大な錨の影が立ち上がる。白い鎖道に絡まった鎖童子と鎖火が、その影に引き寄せられる。


『え、ちょ、おま――』


「落ちたら、おしまいだって言ったの、お前だろ」


 銀次が鎖の束を蹴り飛ばす。


「だったら、きっちり落としてやるよ。ちゃんと見送ってからな」


 潮の錨灯が、海の底へ向かって沈み込む。


 白い鎖道に沿って、鎖童子の姿が、沖の薄青い光へと引きずられていく。


『……これなら、まあ……』


 子どもの声が、遠ざかりながら笑った。


『こっち側も、そんなに悪くないかもなあ……』


 ぽちゃん、と静かな音がした。


 海面が、一瞬だけふわりと浮き上がり、すぐに落ち着く。


 港のガス灯と船の灯が、ふつうの黄色い揺れ方に戻っていった。


 白い鎖道が、ゆっくりとほどけて消える。


 夜人は、胸元の行灯を握りしめたまま、深く息を吐いた。


「……終わった、のか」


「ひとまずな」


 潮が錨灯を肩に担ぎ直す。


「鎖童子の本体の何割かは沈めた。残りはまたどっかの境目で騒ぐだろ。そんときゃまた沈めればいい」


「雑ですね」


「海の男ってのはそういうもんだ」


 銀次と潮が笑い合う。


 少し離れたところで、源太が鎖を巻き取りながら、ぼそっと言った。


「――灯塔の坊主。お前のおかげで、澪が“あの場所”を笑って見られた。礼は言っとく」


「俺は、ちょっと道を描いただけですよ」


「その“ちょっと”が、ずっと足りなかったんだよ」


 源太はそれ以上何も言わず、また鎖に向き直った。


 澪は、港の端に立って、まだ沖の方を見ていた。


 夜人は、少し迷ってから、隣に並んだ。


「……さっきの、見えましたか?」


「ええ。ぼんやりと、灯りの残りみたいなのが」


 澪は、短く頷く。


「でも、名前は呼びません。呼んじゃうと、帰りたくなりますから」


「帰りたい、ですか」


「さあ。あっちに行くのが“帰る”なのかどうかも、わからないですし」


 澪は、少しだけ笑った。


「ただ――あの灯りがどこへ行きたがってたか、今日の分くらいは、ちゃんと見た。それだけで、少し楽になりました」


 夜人は、行灯越しに海を見た。


「灯りがどこへ行くのか、全部はわかりませんけど……」


 言葉を選びながら、続ける。


「少なくとも、今夜見えた分ぐらいは、俺も一緒に覚えてます」


 澪が、ちらりと夜人を見た。


 夕方より、ほんの少しだけ柔らかい目つきだった。


「じゃあ――」


 澪は、海の方を向き直る。


「今度また港の見回りに来てください。“あの灯り”が見えるかどうか、二人で数えてくれます?」


 夜人の胸が、一瞬だけ強く跳ねた。


「……はい。約束します」


 少し離れたところで、潮と銀次がこそこそと囁き合っている。


「おいおい、港の灯より早えな、話進むの」


「さすが港の兄貴、目ざといっすね」


「お前もニヤけてんじゃねえよ」


 二人の小声が聞こえた気がして、夜人の耳が熱くなる。


 澪は気づかないふりをして、沖の灯りを数え始めた。


「ひとつ……ふたつ……」


 その隣で、夜人も同じ方向を見つめる。


 港のガス灯と船の灯、灯台の白い光が、穏やかに揺れている。


 そのずっと向こうで、鎖童子の欠片かけらのような青い火が、川の上流の方へとそっと流れていったことに――このときの二人は、まだ気づいていなかった。

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