第七話 山の手の白い電灯《しろいでんとう》
山の手の夜は、下町より少し白い。
灯塔夜人は、三上銀次と並んで坂道を上りながら、見慣れない灯りを見上げていた。
頭上には、鉄の柱に吊されたガス灯と、その間に新しく取り付けられた電灯が交互に並んでいる。ガス灯は黄色く、電灯は氷みたいな白さで、同じ通りを二色に塗り分けていた。
「……明るいですね」
「明るすぎて落ち着かねえな、なんか」
銀次が肩に担いだ点灯棒をくるりと回す。
「おい夜人。あれ消すなよ? うっかり電灯にマッチ入れたりすんなよ?」
「しませんよ」
苦笑しながら夜人は胸元の行灯に触れた。いつもの豆灯守は、今日は首から下げず、着物の内側にしまい込んでいる。
「ここから先は山の手灯夫組の灯区だ。勝手な真似はすんな。――って、親方が念押ししてたろ」
「境目ばっかりですね、最近」
「そりゃ、お前が“町じゅうの灯りに首突っ込んでる点灯夫”だからな」
「そんなつもりは……」
言いかけたところで、きっぱりとした声が背後から飛んできた。
「――下町灯夫組さんですね」
振り向くと、制服のようにきちんとした詰襟の上着に、紺の袴を履いた青年が立っていた。背筋の通った細身の体、胸には銀色の徽章。
肩には、紋章入りの細長い杖のような点灯棒が乗っている。
「山の手灯夫組、氷室灯真です。市灯道局からの通達どおり、今夜はうちの灯区の巡回に同行してもらいます」
ぴたりとした口調だった。
銀次がひゅうっと口笛を鳴らす。
「さすが山の手、言葉が固えな。三上銀次だ。よろしくな、エリートさん」
「三上さん。……“エリート”という呼び名は不要です」
氷室は眉ひとつ動かさずに言った。
「灯塔夜人さんですね」
「え、はい。灯塔夜人です」
「噂は聞いています。真夜中の点灯夫。白い灯守を持つ点灯夫」
夜人の肩が一瞬だけ強張る。
「新聞は、よくない燃え方をするものです。しかし、実際にあなたが“何をする点灯夫”なのか、この目で確かめろと、上から言い渡されています」
「それは、なんか……やりづらいですね」
銀次がぼそっと耳打ちしてきた。
「睨まれてるなあ、お前」
「やめてください」
その横で、もうひとり、新しい影がゆっくりと近づいてきた。
「堅苦しい挨拶はそのくらいでよろしいんじゃなくて?」
柔らかい物腰の細身の男――綾小路桂が、懐中時計をしまいながら微笑む。洋装の上着に、白い手袋。どこか芝居役者のような雰囲気がある。
「山の手灯夫組の組頭、綾小路です。ようこそ、お役所と銀行とお偉方の財布を照らす灯区へ。……と言っても、今夜はあいにく、灯の方が機嫌を損ねているようでね」
すぐ後ろから、軍服上がりらしい男が歩み寄ってきた。肩幅が広く、目つきは鋭いが、どこか柔らかさもある。
「斎藤清次だ。同じく山の手灯夫組。よろしく頼む」
銀次はすぐに打ち解けたように笑った。
「下町灯夫組の三上銀次だ。こっちは新米の夜人。噂の割に普通だろ?」
「そこまで言います?」
「噂が一人歩きしているのは事実です」
氷室が、ちらりと夜人の胸元を見る。
「今日の目的は二つ。ひとつは、ガス灯から電灯への切り替え工事の確認。もうひとつは、その工事に紛れて発生している“異常灯火”の原因調査です」
「異常、灯火」
夜人は見上げた。
坂道の上の方、官庁街へ続く通りの電灯が、かすかに瞬いている。まだ夕方の残り光があるが、白い灯がそこだけ不自然に明滅していた。
「ガス灯の撤去と電灯の導入で、人心がざわつくのはわかりますがね」
綾小路が肩を竦める。
「“古い灯りを消すと祟る”とか、“電気の灯りは魂を抜く”とか。――迷信はだいたい、闇魍の餌になる」
「闇魍が、ガス灯から電灯に移ろうとしてる、ってことですか」
夜人が問うと、氷室は小さく頷いた。
「十年前の大停電の直後、この灯区でも一時的に電灯の導入が見送られました。『電気のせい』だと決めつける声が多かったからです」
斎藤が付け加える。
「実際には、管と灯りに巣くった闇魍のせいだったと、俺たちは聞いてるがな。……まあ、町の連中には関係のない話だ」
「関係がない、ですか」
夜人の胸に、小さな棘が刺さった。
十年前に父が死んだ夜だって、町の誰かには関係なかったのかもしれない。だが、自分には一生の問題だ。
綾小路が、夜人の表情をひと目見てから、あえて明るい声を出した。
「さて。感傷はあとにしましょう。そろそろ“本日の主役”が顔を出しますよ」
ちょうどそのときだった。
通りの上の電灯が、一斉にふっと暗くなった。
続いて、消されたはずのガス灯が、ぽつ、ぽつ、と勝手に灯る。
誰もマッチを擦っていない。元栓も閉められているはずだ。
「……勝手に、点いた」
夜人が呟いた。
ガス灯の中で、黄いろい火が、白い電灯の方へ伸び上がるように揺れている。その揺れは、やがて人の指のような細い形になった。
一本の電灯のガラスの奥で、白い光がぐらりと歪む。
ガス灯から伸びた細い影が、電灯の光をひゅっと引き抜いた。
「光が……移ってる?」
銀次の言葉どおりだった。
ガス灯の炎が一瞬だけ眩しく光り、そのぶん電灯の方は暗くなる。通り全体の灯りが、片側へ寄せられていく。
『役目は、まだ終わっていないのに』
電灯とガス灯のあいだに、生ぬるい声が響いた。
どこからともなく、黒い影が立ち上がる。
それは、ガス灯の炎と電灯の白をまとった、細長い人影だった。体の半分は煤けた鉄柱、半分は白いガラス。顔の輪郭はぼやけていて、瞳のかわりに二つの灯りが揺れている。
『なのに、簡単に消してしまうのね。古い灯りを』
淡々とした、しかしよく通る声だった。
『光移し。――ここに残った灯りの名だ』
「名付きか」
斎藤が、すっと点灯棒に手をかける。
氷室は一歩前に出た。紋章入りの杖を、真っ直ぐ影に向ける。
「工事の邪魔はやめろ。役目を終えた灯は、撤去される。それだけの話だ」
『あなたたちは、すぐそう言う』
光移しが、わずかに首を傾げる。
『新しい光が正しくて、古い灯りは危ない。だから切り捨てる。
――その白い灯りの下で、何が起きているかも、見もしないで』
夜人の胸がちくりと痛んだ。
十年前の工場の夜。橋の上の朽火。花街の縫灯。
どの灯りも、消される前に誰かの願いや怖さを抱えていた。
「……だからって、工事をぶち壊していい理由にはなりません」
夜人は、思わず前に出ていた。
「危ない灯りをそのまま放っておいたら、また爆発したり、誰かが闇に呑まれたりする。俺たちは、それを止めるために――」
『止める?』
光移しの目に揺れていた灯りが、じわりと白く膨らむ。
『あなたも、灯塔か』
「……!」
全身が強張る。
『十年前、ここにもいた。古いガス灯の最後の夜に、しばらく黙って炎を眺めていた男がいた。
消える灯りの顔を、ちゃんと見ようとしていた。――だが、途中でいなくなった』
「父さん……」
声が勝手に漏れた。
氷室が、ほんのわずかに目を細める。
「灯塔夜人。個人的な感情は捨てろ。これは灯区全体の安全の問題だ」
「感情を捨ててたら、点灯夫なんて続けられませんよ」
銀次が口を挟む。
「灯りの下で人が何考えてるか見ねえなら、ただの奉公人だ」
「奉公人で何が悪い」
氷室の声は冷たいが、熱があった。
「闇魍は“現象”です。発生したら、速やかに処理しなければならない。
そこに余計な意味を与えるから、町が怪談に呑まれる」
綾小路が、半ば二人の間に割って入るように手を上げた。
「はいはい。お二人とも、議論はあとで灯道局の机の上でどうぞ。今は現場です。――斎藤君」
「ああ」
斎藤が息を吸った。
「氷室、お前は電灯の方を抑えろ。俺と下町組は、ガス灯側から奴を引き剥がす」
夜人は、胸元の行灯を握りしめた。
行灯の芯が、静かに白く灯る。ガス灯の列と電灯の列が、頭の中で細い線となって繋がっていく。
古い灯りと新しい灯り。その間には、本当は見えない「道」がある。
(――繋げる。ちゃんと、引き渡してやる)
「銀次さん、こっち手伝ってください!」
「おう、派手にやろうぜ!」
夜人は点灯棒の先を行灯に触れさせた。白い火が移る。
坂道のガス灯を一本一本、棒先で軽く叩きながら走る。叩かれた灯りから、白い線がぴゅっと立ち上がり、反対側の電灯へ伸びていく。
「導灯……送灯!」
ガス灯と電灯が、白い線で一時的に結ばれた。
光移しの体が、その線に絡まれる。
『何を――』
「古い灯りから、新しい灯りへ。
お前が勝手にやろうとしてたことを、一度だけちゃんとやってやります」
夜人の声が震える。
「その代わり、余計なもんは渡さない。怖さも未練も、噂も。
灯りの“記憶”だけ、通してやる」
氷室が、電灯側で杖を振るった。
「――灯区境界、起動」
白い線が、今度は電灯側に格子模様を描いた。
電灯の光は強くなり、だがその内側には、闇魍の影は入り込めない。純粋な光だけが、ガス灯から電灯へと移っていく。
光移しの体が、少しずつ薄くなる。
『……一度でいいのに』
声がかすかに笑った。
『一度でいいから、こうしてくれればよかったのに』
夜人は、消えかけた古いガス灯を見上げた。
炎はもう小さい。だが、その揺れ方はどこか満足げに見えた。
ひと息吹いたように、ガス灯の火がすっと消える。
代わりに、頭上の電灯がぱっと明るさを増した。
光移しの輪郭が、白い光に溶けていく。
『これなら、闇に落ちるのも悪くないわ』
最後にそんな声だけを残して、影は完全に消えた。
坂道全体が、真っ白な電灯の光に照らされる。
ガス灯の鉄柱だけが、少し寂しそうに並んでいた。
静寂の中で、夜人は行灯を握り直した。
「……これでよかったのか、まだわかりませんけど」
「少なくとも爆発はしなかった。上出来だ」
斎藤が、ぽんと夜人の肩を叩いた。
氷室は、電灯の光をひとしきり確かめてから、夜人を振り返る。
「危険物は排除された。結果だけ見れば合格だ」
「“結果だけ”ですか」
銀次が笑う。
「過程はどう見ても、情がだだ漏れだったぞ」
「情は不要だと言ったはずです」
氷室がわずかに眉をひそめる。
「だが――」
一瞬だけ言葉に詰まり、さらに続けた。
「古い灯りの“最後の夜”に立ち会うという発想は、悪くない。
街路灯の切り替え工事の手順に、参考にさせてもらう」
「それ、褒めてるんですか」
「事実を述べただけです」
綾小路が楽しそうに笑った。
「つまり、“夜人式送灯”は山の手でも採用される可能性あり、ということですな。新聞に載る前に、こちらの書類にも名前を残しておきましょう」
「やめてください、また妙な二つ名が増えます」
軽口が飛び交う中、夜人はそっと坂の下の方を振り返った。
遠くに、橋のガス灯の列が見える。工場街の煙突。花街の赤提灯。《はなまち》港の灯台。
それぞれの灯りの位置が、頭の中の地図と重なる。
(十年前の、大停電の夜――)
工場で拾った札の言葉が思い出される。
――灯を消すな 灯塔。続きは、任せる。
胸元の行灯が、ひときわ強く温もりを帯びた。
電灯の白い光の下で、これから消えていくガス灯がいくつもある。そのどれも、誰かの夜を照らしてきた灯りだ。
真夜中の点灯夫たちは、その一つ一つに、どう灯を入れて、どう消していくのか――。
まだ見ぬ夜の形を、夜人は白い電灯の下でそっと思い描いた。




