第六話 工場灯夫組《こうじょうとうふぐみ》と煤王《ばいおう》
夜の工場街は、町の夜よりもうるさい。
ボイラーの唸り、鉄が擦れる音、遠くで鳴る汽笛。煙突から吐き出された煙が、湿った夜気に溶けていく。その足元を、ガス灯の黄色い火がぽつぽつと縁取っていた。
「また、ここか……」
灯塔夜人は、二話の夜を思い出しながら、工場街の入口で足を止めた。
十年前の爆発事故。父・灯塔の札が見つかったボイラー前。あのときの青白い怪火と、重い空気が蘇る。
「びびってんのか?」
三上銀次が、隣で肩をぶつけてきた。
「……正直、ちょっと嫌な汗が出てます」
「正直でよろしい。まあ、嫌な場所には、嫌な顔して入った方が、灯りに伝わりやすいかもな」
「そんな理屈、初めて聞きましたよ」
ふたりの後ろで、かすれた笑い声がした。
「理屈ってのは、後から付いてくるもんだ」
霧島灯子が、配管図を丸めた筒を肩に担ぎながら追いついてくる。作業服の袖をまくり上げ、額にはゴーグル。腰には、点灯棒と工具袋。
「今夜の現場責任者は、工場灯夫組です。下町灯夫組さんは、うちの指示に従ってくださいね」
「おお、急にえらそうだな、霧島」
「“えらい”わけじゃなくて、“危ない”んです。ガス工場の中は」
灯子は、ぴしゃりと言い切った。
「十年前と同じ系統の配管で異常圧が出てます。闇魍がガスの流れをいじってるとしか思えません」
「十年前と、同じ管……」
夜人の胸がざわつく。
そのとき、工場の門の向こうから、どっしん、と地響きのような足音が近づいてきた。
「おーい霧島ぁ! 連れてきたのが、例の“真夜中の”か!」
現れたのは、熊みたいな大男だった。油と煤に染まった作業服、腕っぷしの太さは樽みたいだ。肩には、巨大なレンチと点灯棒が合体したような鉄の道具。
「樫村鉄蔵。工場灯夫組の先輩です」
灯子が紹介すると、大男はニカッと歯を見せて笑った。
「下町の夜人坊か。霧島から話は聞いとる。十年前の管に、もう一回火を通すってか。渋い仕事を選んだもんだ」
「……選んだ覚えは、あんまりないんですけど」
「選ばれちまった時点で同じこった」
樫村は、レンチの頭で自分の胸元を軽く叩いた。そこには、小さな鉄製の灯守がぶら下がっている。煤で黒くなっているが、よく見ると歯車と炎の模様が刻まれている。
「あんたも、灯守持ちなんですね」
「まあな。ガスと闇をまとめて締め直すときには、こいつがいる」
その横から、ひょこっと若い顔がのぞいた。
「御子柴六郎です! 工場灯夫組・見習い!」
頬に煤を付けた少年が、工具箱を抱えて元気よく頭を下げる。
「真夜中の点灯夫の記事、読みました! 白い灯守、すごく興味あります! ガス灯だけじゃなくて、電灯にも応用できたりしますかね!?」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください」
夜人は圧に押されて一歩下がる。
灯子が小さく咳払いをした。
「興奮するのは現場を見てからにしなさい、六郎。――親方も言ってたでしょう、“管の中で闇が暴れてる”って」
空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
*
ガス工場の中は、昼夜の区別がない。
巨大なタンクと複雑な配管が、鉄の森のように立ち並んでいる。ところどころに点検用のガス灯がついていて、工場内部を淡く照らしていた。
灯子が配管図を広げる。
「異常圧が出ているのは、この幹線から伸びてる支管です。十年前に爆発したのも、この辺り」
指差す先は、夜人が二話で結界を張ったボイラー前とは少し離れた場所だった。だが、同じ系統の管だとすぐにわかる。
「十年前の札が見つかったのも、この管の上だったと記録にあります」
「親方から預かった札……」
夜人は、親方の懐にしまわれた焦げた木札の感触を思い出した。
灯子が短く息を吐く。
「とにかく、現場を見ます。異常な炎が出ていたら、すぐに知らせてください」
一行は、配管の間を縫うように進んだ。
鉄の匂い、ガスの甘い匂い、遠くから聞こえるボイラーの唸り――夜人の胸の鼓動が、それらと同じリズムで高鳴る。
やがて、異様な光が視界の端をかすめた。
「あれだな」
樫村が顎で示す。
囲いの内側にある点検口から、煙のようなものが溢れ出ていた。通常なら黄色い炎が小さく揺れているだけの場所だが、今夜は違う。
黒い煤煙が地面から立ち上り、管の周りをゆっくりと這い回っていた。煙の中に、赤い点がいくつも瞬いている。
息を止めた。
煙が、とつぜん人の形を作る。
大人ひとりより少し大きい影。体の中を、鎖やパイプのような黒い線がうごめいている。顔の場所には鉄仮面のような平たい板が浮かび、その奥で赤い目が燃えていた。
『よくも、戻ってきたな』
低い声が、鉄板を擦るように響いた。
『十年前、途中で灯りを投げ出した灯塔の子よ』
夜人の背中に冷たい汗が流れた。
「……誰だ、お前は」
『煤王ガロ』
煤煙の塊が、ゆっくりと笑ったように見える。
『爆ぜた炎の中で、潰された職工の息と、流れ損なったガスと、見捨てられた灯り。全部まとめて、俺が飲んだ』
「十年前の爆発……」
灯子の顔色が変わる。
「闇魍の仕業だったと、やっぱり……」
『仕業? 違うな』
ガロの声が、鉄板の奥で響いた。
『灯りの下で見えなかったものを、少しだけ見えるようにしただけだ。
灯りが消えた途端に騒ぎ出したのは人間の方さ』
樫村が、レンチ型の灯守をぐっと握りしめる。
「まとめて締め直してやるよ、煤王。《こうじょうとうふぐみ》の管を勝手に這い回るな」
『締めるか。……なら、まずはどれだけ膨らんでるか、見てみろよ』
その言葉と同時に、足元の管がどん、と鈍い音を立てた。
ガスの圧が、一気に上がる。
点検口の周りに埋め込まれた小さなバルブから、青い火がぴしりと噴き出した。
工場内のあちこちの炎が、同時に揺れる。
「まずい、管全体を使って遊んでやがる!」
灯子が叫んだ。
「このままだと、どっか一ヶ所で一気に噴きます! 十年前みたいに!」
「抑え込まねえと――」
銀次が前に出ようとするのを、樫村ががしっと腕を掴んだ。
「待て。ガスの流れを読め。無闇に叩くと、逆に暴れる」
「読めって言われても……」
夜人は、胸元の行灯に手を伸ばした。
工場内のガス灯が、一斉にざわついている。黄色い炎が細くなったり太くなったり、まるで誰かが管の中を走り回っているようだ。
(流れを、見る……)
行灯の芯が、浅く白く灯る。
視界の隅に、細い線がいくつも浮かび上がった。
幹線から支管へ。支管からさらに細い管へ。ボイラーへ、街へ。ガスの流れが、白い線として夜人の頭の中に描かれていく。
その線のいくつかが、黒く詰まっていた。
「あそこだ」
夜人は点検口の向こう――工場街の中心へ伸びる一本の管を指差した。
「圧が一番高いのは、あの先の分岐です。煤王は、そこに火を集めようとしてる!」
灯子が配管図を食い入るように見て、顔を上げる。
「……確かに、十年前に吹き飛んだのも、そこです!」
煤王ガロが、赤い目を細めた。
『灯塔の子らしい目だな。――だが、見えたところで止められるか?』
「止めます」
夜人は胸元の行灯を強く握りしめる。
「十年前に消えた灯りを、今度こそちゃんと見届けるためにも!」
白い灯が、強く瞬いた。
「銀次さん!」
「おう!」
「樫村さん、あの分岐に向かうガスの流れを一時だけ絞れますか!」
「絞るだけならできる。爆ぜねえように、寸止めだ」
「灯子さん、他の管の圧を逃がしてください! 全部止めたら、逆流して危ない!」
「やってみます!」
工場灯夫組が一斉に走る。
樫村は巨大なレンチを構え、指定されたバルブに飛びついて力任せに締めた。六郎は別の支管に駆け寄り、手早く補助バルブを開けて圧を逃がす。
灯子は配管図を片手に、次々と指示を飛ばした。
「ここは全閉! そっちは半分! あの枝管は全部町側に逃がして!」
ガスの流れが、少しずつ変わっていく。
煤王ガロの体の中の鎖が、不快そうに軋んだ。
『ちょこまかと……』
「今だ、夜人!」
銀次の声に押され、夜人は点検口の前に立った。
工場内のガス灯が、細い白い線で繋がって見える。
工場灯夫組が作った“圧逃がし”の道。自分たちが守りたい方向と、絶対に噴かせたくない一点。
その一点を、白い灯で縛るイメージ。
「――連灯、格子火!」
夜人は点灯棒を振り下ろした。
白い火が、工場内のガス灯からガス灯へ走る。線は交差し、重なり、やがて格子模様のような光の網になった。
格子火が、煤王ガロの体を押さえ込む。
煙の鎖が、ぎり、と音を立てた。
『ぬぅ……』
赤い目が、夜人を睨む。
『十年前の灯塔は、その目を持っていなかった。
途中で、流れを見失った。――お前はどうかな』
「父さんは、途中で投げ出したんじゃない!」
夜人は格子火を強めながら叫ぶ。
「十年前の続きを、俺たちに託したんです! 下町も、工場も、その灯りも!」
『託した? 逃げたんだろう』
「託したんです!」
格子火が、一瞬だけ強く光った。
銀次が、その隙を逃さなかった。
「三上流・連灯叩き割り!」
点灯棒の鉄輪が、格子火越しに煤王の鉄仮面を殴りつける。
鈍い音が工場内に響いた。
ガロの仮面に、ひびが走る。
赤い目が、一瞬だけぶれた。
そのとき、別の場所で、樫村の怒鳴り声が上がった。
「霧島! 圧、限界ギリギリだ!」
「……くっ」
灯子の額に汗がにじむ。
「これ以上は抑えきれません! どこか一ヶ所、噴かせて圧を逃がすしか――!」
夜人の心臓が跳ねた。
十年前のように、どこかで爆発させれば、確かに全体は助かるかもしれない。だが、その場所は――。
「待ってください!」
夜人は格子火を維持したまま、必死にガスの線を追った。
工場の中。町の方。川の向こう。いくつもの灯区。
そして一ヶ所、ぽっかりと灯りのない小さな空間があるのに気づいた。
「……あそこだ!」
夜人は指を伸ばす。
「旧貯蔵庫! 今は使われてないって、灯子さんが言ってましたよね!」
「え……?」
灯子が配管図を見返し、目を見開く。
「確かに、今は空のまま封鎖してる場所です……!」
「そこに、一瞬だけ吹かせてください! 中身が空なら、被害は最小限で済む!」
「でも――」
「十年前みたいに、誰かが知らないうちに巻き込まれるよりマシです!」
灯子は、歯を食いしばった。
「……樫村さん! 旧貯蔵庫のバルブ、開けます! 準備はいいですか!」
「いつでも来い!」
樫村がレンチを構える。
灯子が、最後のバルブに手をかけた。
「いきます!」
ガスの流れが、一瞬だけ大きく動いた。
工場の奥で、鈍い爆発音が響く。薄い鉄板の壁が震え、埃が舞い上がった。
だが、炎は貯蔵庫の中から漏れ出してこない。
圧が、一気に落ちた。
煤王ガロの体から、力が抜ける。
格子火が、黒い煙を焼きながら締め上げた。
『……十年前より、少しはマシな灯塔になったか』
ガロの低い声が、溶けかけた仮面の奥から聞こえた。
『だが――全部を見届けたと思うな』
体の一部が、細い筋となって天井の管へと逃げ込む。
格子火が追いかけるが、すべては捕らえきれなかった。
黒い影の一片が、工場街の奥――町の方へと細く伸びていく。
煤王ガロの姿は、工場内からほとんど消えた。
ただ、点検口の周りには、黒い煤が厚く残っている。その真ん中に、焦げた木札が一枚落ちていた。
夜人は、それをそっと拾い上げた。
十年前に拾った札と、よく似ている。日付。短い言葉。――灯を消すな 灯塔。
ただし、その下に、もう一行だけ刻まれていた。
――続きは、任せる。
夜人の喉が、きゅっと詰まった。
「……親方に、見せないと」
そう呟くと、灯子が隣でほっと息をついた。
「助かりました、下町灯夫組さん。あのままだったら、本当に十年前の再現でした」
「こっちこそ。流れを見せてくれたのは、工場灯夫組です」
夜人は、灯子と樫村、六郎に頭を下げた。
六郎が、目を輝かせて夜人の行灯を覗き込む。
「連灯格子火……すごかったです! ガス灯とガス灯を格子に繋ぐなんて、考えたこともなくて!」
「名前、今つけましたけどね」
「いい名前じゃねえか。俺の三上流よりよっぽど筋が通ってる」
銀次が笑った。
灯子は、配管図を丸めて肩に担ぎ直す。
「……闇魍は、ガスや火の“流れ”を利用してくる。なら、こっちはそれより一歩先に流れを読めばいい」
視線を夜人に向ける。
「灯塔さん。今度、工場灯夫組の持ち場にも、また手を貸してください。十年前の続きは、まだ終わっていませんから」
「はい」
夜人は、行灯に手を添えた。
工場街のガス灯が、いつもの黄色い火に戻っている。
だが、町のどこかで、煤王の逃げた一片が、別の灯りの中に潜り込んでいる。
真夜中の点灯夫たちの仕事は、まだまだ終わりそうにない。




