第五話 紙灯《かみび》と真夜中の噂
朝の番屋は、夜よりうるさい。
灯塔夜人は、ちゃぶ台の前で湯呑みを手に固まっていた。目の前に広げられた新聞の一面に、大きな見出しが躍っている。
『真夜中の点灯夫、花街を救う!
――白き灯守と三上流・灯心抜きの正体』
「……俺、こんな名前名乗った覚えないんですけど」
かすれた声が、自然と漏れる。
記事の隅には小さく、記者名が載っていた。
宵坂ミナト。
「おーう、載ってる載ってる。似顔絵までついてるじゃねえか」
三上銀次が、肩越しに覗き込んで吹き出した。
紙面には、行灯を首から下げた若い男と、点灯棒を振り上げる長身の男――それらしい二人の絵が、やたら勇ましく描かれている。背景には、実物より二割増し美人な花街の娘が涙ぐんでいた。
「似てます?」
「三割増しで格好よく描かれてるな。文句言うなよ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
夜人は頭を抱えた。
見出しの下には、これ見よがしな煽り文句が並んでいる。
『三ノ丁の闇魍事件、工場街の怪火騒動に続き、
今度は花街にて“名付き”残灯との死闘!
彼らは何者なのか――市灯道局関係者か?
それとも、祈りに選ばれた特別な存在か?』
「親方、これ……まずくないですか」
夜人は助けを求めるように番屋の奥を振り返る。
こたつ代わりの火鉢の前で煙管をくゆらせていた親方は、新聞をちらりと見ただけで肩をすくめた。
「世の中ってのはな、火事と喧嘩と噂話が好きなもんだ。放っときゃそのうち飽きる」
「飽きるまでのあいだに、変なことになりそうなんですけど!」
夜人が抗議すると、親方は火をトントンと落とし、今度は少し真面目な顔になった。
「ただまあ……“真夜中の点灯夫”なんて看板がひとり歩きすると、闇の方が寄ってくるかもしれねえな」
「闇が、噂に惹かれるんですか?」
「灯りに向けられた目は、全部、闇の目でもある。人の怖がりと期待が集まれば、それだけで灯りは揺らぐ」
親方は立ち上がって帯を締め直す。
「よし。文句言うにしろ釘刺すにしろ、本人に会ってこねえとな」
「本人って、あの宵坂ミナトって記者にですか」
「おう。どうせお前ら、夜まで暇だろ。昼間のうちに新聞社行くぞ」
銀次がにやりと笑った。
「新聞社見学つきか。こりゃちょっとワクワクしてきたな」
「俺は胃が痛いです」
夜人は記事の大げさな見出しと、紙面の中で勝手に決められた自分の二つ名を、もう一度見つめて深くため息をついた。
――真夜中の点灯夫。
紙の上の言葉が、じりじりと熱を持ち始めているような気がした。
*
東都日日新報の社屋は、川向こうの山の手寄りに建っていた。
煉瓦造りの三階建て。入口には「東都日日新報社」と金色の文字が掲げられ、人力車と配達用の自転車がひっきりなしに出入りしている。窓からは活版印刷機の重たい音が漏れ聞こえてきた。
「でけえなあ。番屋が十軒は入りそうだ」
銀次が感心したように見上げる。
夜人は胸元の行灯をそっと押さえた。昼の光の下では、芯は完全に眠っている。今のところは、ただの紙と木の塊だ。
「お、いたいた!」
階段を上がりきる前に、見覚えのある声がした。
丸眼鏡に紐付きの帽子、胸には腕章。宵坂ミナトが、手帳をひらひら振りながら駆け寄ってきた。
「やっぱり来ると思ってました! 記事、読みました?」
「読んだから来たんだよ」
銀次が苦笑しながら腕を組む。
「なあ記者さんよ。“三上流・灯心抜き・縫い針返し”って勝手に名前盛るのやめてくんね?」
「えっ、そこはむしろ感謝してほしいところなんですけど! 技は名前があってこそ輝くんですよ!」
「そういう問題じゃないんです」
夜人が肩を落とすと、ミナトはきょとんと瞬きしてから、少し真面目な顔になった。
「……まずは、お礼を言わせてください。記事にさせてくれてありがとうございます。花街の人たち、あの夜のことをちゃんと誰かに言いたがってましたから」
「勝手に聞きかじっただけじゃないですか」
「ちゃんと女将さんに許可は取りましたよ。『真夜中に、灯りを見てくれる人がいるって書いとくれ』って」
夜人は、言葉に詰まった。
ミナトはすぐにいつもの調子に戻り、にやりと笑う。
「それに、噂ってやつは、放っといても勝手に歩きますからね。だったら、なるべくマシな形にまとめておいた方がいいんです」
「マシな形、ねえ」
親方がぼそりと言う。
「マシじゃねえ形の噂ってのは、どうなるか、わかって書いてんだろうな」
ミナトが、親方の顔をまじまじと見上げた。夜人と銀次よりも少し真剣な目になる。
「……点灯夫さんたちの仕事の邪魔になるような書き方は、しないつもりです。だからこそ、ちゃんと話を聞かせてほしいんですよ。“闇魍”って言葉も、まだ紙面には出してませんし」
親方はしばらく黙ってミナトを見ていたが、やがてふう、と煙を吐くように息をついた。
「まあいい。書きてえなら書け。ただ――」
視線を夜人に向ける。
「夜人。噂は灯りと同じで、放っとけば勝手に燃え広がる。今夜あたり、どっかの灯りが調子に乗るかもしれねえ。耳を澄ませて歩け」
「……はい」
妙に胸騒ぎのする言葉だった。
*
その夜の下町は、いつもと少し違っていた。
子どもたちが遅くまで路地に出て、空を見上げたりガス灯を指さしたりしている。店先では、客同士が新聞を見せ合いながら、ひそひそと話し込んでいた。
「真夜中の点灯夫だってよ」「ほんとにいるのかねえ」「花街の残灯とかいうのを斬ったってさ」
夜人と銀次は、番屋から川沿いの通りをゆっくりと歩いていた。
「派手に燃えてんな、噂の方が」
「燃えすぎて、灯りがやきもち焼かなきゃいいですけど」
夜人が空を見上げると、ガス灯の炎がいつもより少し高く揺れているように見えた。気のせいかもしれない。だが、昼間から胸の中にくすぶっていたざわつきが、また強くなる。
胸元の行灯は、静かに沈黙していた。
川にかかる小さな橋を渡りかけたときだった。
「……あれ、見ろ夜人」
銀次が、通りの角を指差す。
角のガス灯の足元に、新聞紙の束が乱暴に積まれていた。配達の余りか、読み終わったものか。風に煽られて、一枚がひらりと空に舞い上がる。
その紙の上で、活字の黒がじわりとにじんだ。
「……?」
夜人は足を止めた。
紙面の上の文字が、蠢いている。記事の見出し、本文、読者欄――バラバラの言葉が、ひとつの形を作ろうとしていた。
にじんだ文字が線になり、線が顔になる。
夜人の目の前で、新聞紙が人のように立ち上がった。
顔は真っ白な紙。目と口の場所だけが、黒い活字の塊で描かれている。
『真夜中の点灯夫――!』
紙の顔が、甲高く叫んだ。
『花街を救い、工場を救い、橋を守り――今日もどこかで大活躍!』
それは、新聞の見出しそのものだった。
「……なんだ、こいつ」
「噂火だな」
銀次が、舌打ち混じりに言う。
「聞いたことある。噂話に火が点いて、紙だの張り紙だのに宿る小物の闇魍だ。こいつぁ喋る分、タチが悪い」
紙の塊――噂火は、ガス灯の炎に身体を近づける。文字の体が、火の色を吸い込むように赤く染まっていく。
『市中に広がる真夜中の英雄譚! 目撃者は語る!
“あの人は白い灯を振りかざして、闇をザシュッと――”』
「そんな擬音語、俺は使ってません」
夜人が思わず突っ込む。
『“三上流・灯心抜き・縫い針返し”の命中率は百発百中! その正体は――』
「そこはもっと盛っていいけどよ!」
銀次が乗ってどうする。
噂火は、ガス灯の炎を抱きかかえるように紙の腕を広げた。
『さあさあ皆さん、お集まりください! 本物の真夜中の点灯夫を、お見せしま――』
紙の体から、細かい火の粉が散る。ひとつひとつが小さな炎の種になって、通りの別のガス灯へと飛ぼうとしていた。
「まずい」
夜人は胸元の行灯を掴んだ。
噂は、増える。
面白がる声、期待する目、怖がる囁き。昼から夜まで、町中で語られた言葉が、紙の上に染み込んで、今目の前で火になりかけている。
(これ以上、燃やさせるわけにはいかない)
行灯の芯が、静かに白く光った。
「銀次さん、火の粉は任せます」
「おうよ。お前は本体の口を閉じろ」
銀次が点灯棒を構え、飛びかかる火の粉を片っ端から叩き落とす。火の粉は橋の欄干や石畳を焦がそうとするが、棒の鉄輪に弾かれ、しゅるしゅると消えていく。
夜人は行灯の灯を棒先に移した。白い火が、小さな筆のように見えた。
「――導灯」
短く呟き、夜人は白い火で空中に線を描く。
直線ではない。丸でもない。紙の体に巻き付くような、ひと筆書きの文字――。
火の線が、噂火の前でひらりと形を変えた。
書かれたのは、たった一文字。
「……静」
静か、の「静」だった。
白い文字が、噂火の額にぴたりと貼り付く。
『しずっ……!?』
紙の顔が変な声を上げる。
『真夜中の点――』
口が途中で止まった。活字がばらばらと崩れ、言葉が続かない。
噂火の体を流れていた文句が、紙の中に押し戻される。真っ赤に染まりかけた紙面が、墨の色だけに戻っていく。
「噂は、勝手に喋りすぎると燃え尽きます」
夜人は棒を握り直し、噂火に向かって言った。
「本当に必要なことだけ残して、静かにしててください。灯りの邪魔をするなら――」
紙の足元の石畳に、白い輪を描く。
「――輪灯、紙篭」
小さな輪が、噂火の足元を囲んだ。白い光のかごが、紙の体をゆっくりと締め上げる。
新聞紙がばさばさと音を立てて、もとの束に戻っていく。活字の顔も崩れ、ただの印刷物に変わっていく。
『……最ッ高の……見出しだったのに……』
最後の一片がそう呟いたかと思うと、ひらりと石畳に落ちた。
ただの、一枚の新聞だった。
夜人はかがみ込み、その紙を拾い上げる。さっきまで喋っていた記事の文字が、静かに並んでいた。
銀次が、全身についた煤を払って笑う。
「派手なくせに、小物だったな」
「でも、放っといたら通り中の灯りに火の粉を飛ばしてましたよ」
「まあな。噂ってのは、派手なほど危ねえ」
銀次が肩をすくめる。
「で、ご本尊さんはどうするよ? 記事、破り捨てるか?」
「……いえ」
夜人は新聞を見つめた。
一面には、やはり大げさな文字で「真夜中の点灯夫」の見出しが躍っている。だが、その下には小さな欄があった。
花街の女将の談話。工場街の職工の一言。橋の上で助かったと笑う子どもたちの声。
それらは、ただの紙の上の文字に戻っていた。
「これは……このままでいいです。変に消そうとしても、きっと別のところで燃えますから」
「お、言うようになったな」
銀次がにやりと笑う。
「じゃあせめて、変なところに捨てられねえようにしてやるか」
二人は、新聞を束に戻し、ガス灯の根元から少し離れた軒先に寄せておいた。
そのとき、後ろから息を切らせた声が飛んできた。
「ちょっと! 今、紙がしゃべってませんでした!?」
振り返ると、宵坂ミナトが全力疾走で駆けてくるところだった。片手には手帳、もう片方には新しい号外。
「遅いですよ、記者さん」
銀次が笑う。
「間に合ってたら、また変な見出しがひとつ増えてましたね」
「ひどい! ちゃんと事実を書こうとしてるのに!」
ミナトはぷうっと頬をふくらませたが、すぐに夜人の手元の新聞束を見て、目を丸くした。
「……それ、さっきの号の残りですか」
「ええ。ちょっと火がつきかけてたもんで、しばらくここで冷やしてもらいます」
夜人が答えると、ミナトは少しだけ真顔になって頷いた。
「わかりました。じゃあ明日の記事は、見出しを少し静かめにしておきます。“真夜中の点灯夫、噂に苦笑”くらいで」
「それも十分派手ですけど……」
夜人は苦笑した。
「でも、頼みます。灯りの仕事の邪魔にならない程度に、書いてください」
「約束します。その代わり――」
ミナトはにやりと笑い、手帳をぱらぱらとめくる。
「今度、他の灯夫組の話も聞かせてくださいね。花街灯夫組とか、工場灯夫組とか。町じゅうの点灯夫のことを、ちゃんと紙に残しておきたいんです」
銀次が肩を竦める。
「……こいつ、本気だな」
「ええ。本気ですね」
夜人は、行灯越しにミナトを見た。
紙に灯りを映そうとしている人間。
その文字がまた、いつかどこかで火を生むかもしれない。
けれど、それもまた灯りの一部なのだろう。
「じゃあ、そのうち番屋に来てください。親方も含めて、話を聞いてやります」
「やった!」
ミナトが飛び跳ねる。腕章がちりんと鳴った。
川面の向こうで、市電の灯りが流れていく。ガス灯の黄色い光と電灯の白い光が、夜の町を二色に塗り分けていた。
胸元の行灯が、わずかに温もりを帯びる。
真夜中の点灯夫という言葉が、紙の上と人の口の中で転がりながら、少しずつこの町の“あたりまえの噂話”になっていく。
その噂の行き先も、燃え方も、ちゃんと見届けるのが、自分たちの仕事だ。
夜人は、橋の上の灯りをひとつひとつ確かめながら、ゆっくりと歩き出した。




