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第四話 花街残灯《はなまちざんとう》

第4話 花街残灯はなまちざんとう


 夜の花街はなまちは、下町の夜とは別の匂いがする。


 灯塔とうとう夜人やひとは、三上みかみ銀次ぎんじと並んで石畳を歩きながら、頭上に連なる赤提灯あかちょうちんとガス灯を見上げた。こうの匂いと、油の匂いと、遠くで鳴る三味線の音。通りの向こうには、市電しでんの線路と電信柱も見える。


 だが、この路地の灯りはまだ、鉄の柱に咲くガス灯の黄色い花が主役だった。


「ここから先は花街灯夫組はなまちとうふぐみ灯区とうくだな」


 銀次が肩に担いだ点灯棒てんとうぼうをくるりと回す。


番屋ばんやの地図で見たろ。川っぺりからこっちが下町灯夫組、花街のど真ん中はあいつらの持ち場だ」


「境目ってことですね。じゃあ、今日はあくまで様子見ですか」


「まあな。もっとも、灯りが泣いてたら、組が違ってもほっとけねえけどよ」


 銀次は笑いながら、夜人の横顔を覗き込む。


「それよりお前。さっきからため息ばっかりだぞ。四回目な」


「数えないでください……」


「ため息は灯りを曇らせるって、親方が言ってたろ。“ふさいだ顔してると闇が寄ってくる”ってよ」


 十年前の大停電。父・灯塔のこと。

 頭の隅で、その言葉がまだ燻っている。


 夜人はそれを振り払うように、胸元の行灯あんどんにそっと触れた。紙障子の向こうの小さな芯は、今夜も静かに眠ったふりをしている。


 そのときだった。


 路地の奥から、ひときわ大きな声が響いた。


「おちょうが、灯りから目ぇ離さねえんだよ! 点灯夫はどこだい!」


 ざわめきと、女の悲鳴混じりの声。


 夜人と銀次は、思わず顔を見合わせた。


「境目とか言ってる場合じゃねえな。行くぞ!」


「了解です!」


 二人は赤提灯の下を駆け抜け、一本外れた細い路地に飛び込んだ。


 そこは、華やかな表通りから外れた、小さな行き止まりだった。頭上には赤提灯がまばらに吊られ、真ん中にぽつんと一本、古いガス灯が立っている。


 その足元で、一人の若い遊女が座り込んでいた。膝を抱え、白粉おしろいの浮いた顔は真っ青だ。瞳だけが、頭上の灯りに縫いつけられたように動かない。


「お蝶! しっかりおし! 灯りから目ぇ離しな!」


 背中を抱いているのは、年配の女将おかみだ。涙声で呼びかけ続けながらも、娘の顔を怖そうに覗き込んでいる。


「すいません、点灯夫です。ちょっと見せてください!」


 銀次が人垣をかき分ける。夜人もその後ろから飛び出した。


 ガス灯を見上げた途端、夜人は息を呑む。


 炎が、ひどく長い。


 細く伸びた炎の先が、人の指のように曲がって、お蝶の方へ伸びていた。炎の根元には、青白い芯がちらりとのぞき、その周りを、灰色の糸のような煙がびっしりと巻き付いている。


 よく見れば、その糸の先が、お蝶の頭や胸へと細く伸びていた。


「……これ」


残灯ざんとうだな」


 銀次が低く呟く。


「消え損ねた灯りに、人の願いが縫いついて闇魍やみもうになるってやつだ。親方が言ってたろ」


 お蝶の唇がかすかに動いた。


「……消えないで……あの夜みたいに、全部、消えないで……」


 皆が息を呑む中、ガス灯の炎がぐらりと揺れた。


 次の瞬間、ガラスの内側で、影が形を取る。


 花街の女のような、ほっそりとした人影。顔の輪郭はぼうっと霞んでいるのに、口元だけがはっきりと笑っている。着物の袖や帯にあたる部分は、灰色の糸煙の塊だった。


 その影が、こちらに顔を向けた。


 声は、耳ではなく、胸の奥に直接落ちてきた。


『怖い夜ねえ』


 やさしい女の声だった。


『だから、灯りを消さなければいいのよ。

 消えない灯りに、あなたの願いごと、ぜんぶ縫い付けておいてあげる』


 灰色の糸がひとつ、お蝶のこめかみに深く食い込む。お蝶の肩がびくりと震えた。


「やめろ」


 夜人は思わず声を出していた。


「灯りは、人を縛るためにあるんじゃない」


『あら。灯塔の子ね』


 影が、夜人を見た。笑みが少し深くなる。


『十年前にもいたわよ。そうやって、灯りの側に立とうとした人間が。

 ――灯塔って、名乗ってたかしら』


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


 父の名字を、闇が知っている。


「……お前、父さんを知ってるのか」


『知ってるとも。真っ暗な夜に、ずいぶんといい顔で、こっちを見てたわ』


 灰色の糸が、今度は夜人の足元へも伸びようとする。


 銀次が点灯棒を振り、鉄の輪でその糸をはたき落とした。糸はぱちんと弾けるが、すぐにまた細い一本が炎の中から生えてくる。


「願いごとを勝手に抱えてんじゃねえよ、名付き」


 銀次がふっと笑って言う。


「人の心を灯芯みてえに巻きつけてんじゃねえ。灯りを汚すな」


『あら、口の悪い点灯夫』


 影――縫灯ぬいともしは、からかうように肩を揺らした。


『でも、あの子が願ったのよ? “今度の夜は、消えないで”って。

 十年前、橋の向こうが真っ暗になったのを、この路地から見てた子よ』


 お蝶の目から、ぽろりと涙がこぼれた。


「……こわかったんだよ……あの夜……。

 川向こうも、こっちも、灯りがぜんぶ消えて……。

 誰も、迎えに来なくて……」


 女将が、お蝶の肩をぎゅっと抱きしめる。その手も、灰色の糸に触れそうになっている。


 灯りは、人の願いを受け取る。

 だが、その願いを縛り付ける権利は、闇にはない。


 夜人は胸元の行灯を握りしめた。


(十年前、誰も見てくれなかった灯りがある。

 なら今度は――)


 守りたい顔が、頭の中にいくつも浮かぶ。

 お蝶、女将、この路地の人たち。赤提灯の並ぶ花街の通り。


 行灯の芯が、ぱっと白く灯った。


「銀次さん。あの糸、俺がまとめて押さえます」


「よしきた。お前が縫い目をほどくなら、俺は芯を抜いてやる」


 銀次がニヤリと笑う。


 夜人は点灯棒の先を行灯にそっと触れさせた。白い火が皿に移り、柔らかな光がじわりと広がる。


「――輪灯りんとう牢火ろうび


 小さく名を告げ、夜人は棒先で地面に円を描くようになぞった。


 白い線が、石畳の上にぱっと走る。


 お蝶とガス灯、その周りの狭い空間を、光の輪がぐるりと囲んだ。輪の内側に伸びていた灰色の糸が、一斉にじゅっと音を立てて焦げる。


『あら』


 縫灯の声が、少しだけ意外そうになる。


『牢屋なんて、久しぶりだわ』


「闇を閉じ込める牢じゃない。灯りと人の間に、余白を作る牢です」


 夜人は棒を両手で握り、輪が途切れないよう意識を集中させた。


 輪の内側で、炎が激しく暴れ始める。灰色の糸が、焼かれながらも必死に形を保とうとする。


『あの夜、誰も来なかったのよ』


 縫灯の声が、白い輪の中で震えた。


『真っ暗な川向こうと、消えた灯りと。

 あたしたちの泣き声を、誰も見てくれなかった。

 灯りは消えても、誰にも見届けられない。

 ――だから、縫ったの。灯りも願いも、この場所に』


「だからって、今度はこの路地ごと縫い付けていい理由にはならない」


 夜人は炎の向こうの影を見据える。


「灯りは、消えるのも仕事だ。

 でも、消えるまでをちゃんと見届けるのは――点灯夫の仕事だ」


 お蝶の指先が、かすかに動いた。


「……こわかった……けど……見てほしかった……」


 震える声が、輪の中で零れる。


「今度は、俺が見る」


 夜人は言った。


「消えきれなかった灯りも、消えた灯りも。

 お前みたいに、ひとりで抱え込ませたりしない」


 光の輪が、すこしだけ強くなった。


 縫灯は、しばらく黙っていた。

 やがて、唇だけが笑ったように見える。


『……灯塔の子ねえ。

 十年前にも、よく似たことを言った男がいたわ』


 胸が跳ねる。


「父さんが、ここに?」


『さあ、どこだったかしら。橋だったか、工場だったか。

 でも、あの人は結局、灯りの向こう側には来なかった。

 あなたは、どうするのかしらね』


 灰色の糸が、最後の抵抗のように輪の中でうごめく。


「銀次さん!」


「おう、待ってました!」


 銀次が輪の縁ぎりぎりまで踏み込んだ。白い光が、その足元だけすっと割れる。


三上流みかみりゅう――灯心抜とうしんぬき・縫い針返ぬいばりがえし!」


「今勝手に流派増えましたよね!?」


 夜人のツッコミを背に、銀次の点灯棒がしなった。


 鉄の輪が、ガラスの向こう側――炎の芯を、正確に突く。


 カン、と硬い何かを打ち抜いた音がした。


 青白い芯が弾け、縫灯の影がほどける。

 灰色の糸が煙になって、光の輪の中で燃え上がった。


 ただ、その燃えかすのひと筋だけが、細い青い火となって、路地の屋根の隙間へとすうっと駆け上がる。


『また逢いましょう、真夜中の点灯夫』


 囁き声だけを残して、縫灯は消えた。


 ガス灯の炎が、いつもの黄色い小ささに落ち着く。


 輪灯の光がゆっくりと弱まり、やがて石畳の上から消えた。


 お蝶の体から力が抜ける。


「お蝶!」


 女将が抱き寄せると、お蝶は瞬きをして、夜人たちを見上げた。


「……あれ、私、また灯りの夢を……」


「夢じゃねえよ」


 銀次が苦笑して頭を掻く。


「ちょっとばかし、灯りに縫い付けられてただけだ」


 女将が夜人たちに深々と頭を下げる。


「点灯夫さん……ほんに、助かったよ。あの子、十年前から夜になると橋の方ばっかり見ててねえ……」


「今度は、灯りを見る理由が変わるといいですね」


 夜人はそう言って、胸元の行灯をそっと押さえた。


 そのときだ。


「はいはーい! そこまで!」


 路地の入口から、やけに甲高い声が飛んできた。


 振り向くと、丸眼鏡に紐付きの帽子をかぶった小柄な人物が、手帳を片手に駆け込んでくる。胸には、まだ真新しい腕章。


「『東都日日新報とうとにちにちしんぽう』怪異欄担当、宵坂よいざかミナトでーす! いやあ、いいもの見ちゃいました!」


「……誰ですか、この人」


 夜人が素直な疑問を口にすると、銀次が額を押さえた。


「親方が言ってた“最近、町の灯りを何でも書き立てる記者”って、お前か」


「お褒めにあずかり光栄です!」


 ミナトはぺこりと頭を下げると、すぐに顔を上げ、目を輝かせた。


「さっきの技、“輪灯牢火りんとうろうび”でしたっけ? それに“三上流・灯心抜き・縫い針返し”! 見出しだけで一面埋まりますね!」


「やめてください、その名前で字に残さないでください!」


 夜人と銀次の声が見事に揃う。


 路地の奥で、女将がくすりと笑った。


「……真夜中の点灯夫、ねえ。こりゃあ、そのうち花街じゃ、いい客寄せの話になるよ」


 赤提灯とガス灯が、笑い声とため息を一緒に揺らしていた。


 誰も気づかない瓦の隙間で、さっき逃げた細い青い火が、じっと町を見下ろしている。


 その小さな残灯が、どこへ流れていくのか。

 十年前の夜と、父の足跡と、まだ見ぬ闇の行き先は――夜人たち自身の灯りが、これから照らしていくのだろう。

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