第二話 工場街の怪火《かいび》
夜になると、番屋の畳は一段と冷たくなる。
灯塔夜人は膝を抱えて座り、昨夜のことを何度も頭の中でなぞっていた。
ガス灯の下でうずくまっていた黒い影。空洞の顔。勝手に灯った行灯。白い光の一閃。
胸元の行灯をそっとつまむと、紙障子の向こうで、かすかに芯が残光のように光っている気がした。
「……本当に、俺がやったのか」
自分でも半信半疑だ。夢だったと言われた方がまだ納得できる。
「ぼさっとすんな。茶が冷める」
不意に声が飛んできて、顔を上げる。
親方が湯呑みをこっちに押しやりながら、煙管をくわえていた。
「昨日の件、親方、本当にあれは」
「三ノ丁の闇魍か。ああ、本物だ。夢だったら、わざわざ役所が礼を言いに来やしねえよ」
親方は肩をすくめると、夜人の胸元に目をやる。
「それにな。そいつが灯ったろ、灯守がよ」
夜人は行灯を握りしめた。
「……あれって、やっぱり普通じゃないんですね」
「普通じゃねえよ。灯守は、ただ首から下げてるだけなら木っ端だ。灯りに選ばれた奴が持つときだけ、本気を出す」
親方は自分の胸元をとんと指で叩いた。
「俺のが灯ったのは三十の手前だ。おめえ、まだ十九だろ。早えこった」
「早いからと言って、嬉しいかどうかは別問題ですけど」
「贅沢言うな。灯りに目ぇつけられた以上、逃げられやしねえ」
親方が苦笑したそのとき――
ガラリ、と表の戸が勢いよく開いた。
「点灯夫さん! 大変です!」
若い巡査が、息を切らして飛び込んでくる。額に汗を浮かべ、目だけがぎらぎらしていた。
「どうした」
親方の声が低くなる。
「工場街のガス灯が、おかしな火を上げてまして……! 青いだの紫だのって、近くを通った職工が気分が悪いと倒れて……まるで怪火みたいだって、みんな怯えて……!」
親方は煙管の火を指でつまんで消した。
「十年前と、同じ色か」
「十年前……?」
夜人が聞き返すと、親方は一度だけ夜人を横目で見て、立ち上がった。
「よし、行くぞ夜人。工場街の灯りが暴れりゃ、町ごと吹き飛ぶ」
「吹き飛ぶって、そんな大げさな」
「ガスと火を甘く見ると、痛え目見るぞ」
番屋を飛び出すと、夜気はすでに湿り気を帯びていた。
遠くで汽笛が鳴り、煙突が並ぶ工場街の影が、黒く空を切り取っている。
近づくにつれ、胸の中のざわつきが強くなった。
通りの向こうに、揺れる灯りの群れが見える。
だが、それは夜人の知っているガス灯の光ではなかった。
「……なんだ、あれ」
工場街の大通りに出た途端、思わず足が止まる。
並んだガス灯が一本おきに、青白い火を揺らめかせていた。
あるものは紫がかり、またあるものは痩せた舌のように長く伸びている。炎の中に、人の顔のような影がちらつくのが見えた。
「見世物じゃねえぞ、夜人」
親方が短く言って、通りの端に立つ人影に声をかける。
「おう、霧島。状況はどうだ」
振り向いたのは、作業服にズボン姿の女だった。袖をまくっていて、手には油と煤が染みついている。額にはゴーグルを押し上げていた。
「灯火監の親方さんですね。ガス会社の霧島灯子です」
灯子は簡単に頭を下げると、すぐに通りに視線を戻した。
「さっきまでは、ただ点いたり消えたりする程度だったんです。でも急に……あの色に変わって」
彼女の声は落ち着いているが、指先はわずかに震えている。
「ガスの圧も不安定です。このままだと、どこかで一気に吹き出すかもしれません」
「元はどこだ」
親方が問うと、灯子は通りの奥を顎で示した。
「ボイラー室の前です。あそこで集中的に圧が上がってます」
夜人は青白い火の列を見つめた。炎が、まるで何かに追い立てられているように、同じ方向へと揺れている。
「……ガスの流れに、何かが混ざってるみたいだ」
「“何か”じゃねえ。闇だよ」
親方は吐き捨てるように言う。
「十年前もそうだった。工場街の管ん中、闇が走った。火を伝い、ガスを伝い、町中の灯りを喰いやがった」
灯子がわずかに眉をひそめる。
「怪談じみた話は信じない質なんですけどね。今夜ばかりは、私にも妙なものが見えます」
彼女の視線の先で、一本のガス灯の炎が急に伸び上がった。
火の中に、人の横顔のような影が浮かび、一瞬だけ口を開く。
何かを叫んでいるように見えたが、音は聞こえない。
夜人は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「親方。あれも、闇魍なんですか」
「そうだろうな。ただし昨夜のと違って、こいつは動く。ガス管を通って、好き勝手に場所を変えやがる」
親方は通りを見渡し、短く息を吐いた。
「夜人。おめえはボイラー室まで行け。灯子はガスの元を絞れ。俺はこっちで暴れてる灯りをなだめる」
「ちょっと待ってください。行けって、どうやって」
「歩いてくだけだ。怖くても足は前に出る。点灯夫の習いだ」
「簡単に言いますね……」
だけど、逃げるという選択肢は、最初から頭になかった。
夜人は点灯棒を握り直し、行灯を胸元から引き出した。
灯りは消えている。昨夜のように勝手には灯ってくれない。
「……さっきから、灯りはおめえを試してんだよ」
親方がぽつりと言う。
「怖えもんを数えるんじゃねえ。守りてえもんを、先に数えろ」
夜人は息を飲む。
守りたいもの。
この通りを毎日行き来する職工たち。すぐ先にある長屋の子どもたち。工場で夜遅くまで働いている誰か。
頭の中に、昼間見かけた顔がいくつも浮かんだ。
「……爆発なんて、させるわけにはいかない」
自分に言い聞かせるように呟き、夜人は青白い火の列へと一歩を踏み出した。
熱と冷たさが同時に肌を撫でる。不自然な風が、足元を滑っていく。
炎の中の影たちが、夜人をじっと見ている気がした。
「夜人!」
後ろから灯子の声が飛ぶ。
「ボイラー室の前で時間を稼いでください! その間に元栓まで走って、こっちでガスを止めます!」
「時間を稼ぐって……どうやって」
「それを考えるのが、そっちの仕事でしょう!」
言い返す余裕もなく、夜人は走り出した。
工場街の奥へ進むほど、炎の色は濃くなっていく。
青白い火がガス灯からガス灯へ、飛び移るたびに、耳鳴りのような低い唸りが空気の底を這った。
ボイラー室の前の小さな広場に飛び込んだ瞬間、夜人は息を呑む。
そこだけ、炎の海だった。
地面に埋め込まれた小さな点検口から、青白い火が細く立ち上り、空中で渦を巻いている。
渦の中心に、無数の顔のような影が重なり合い、うごめいていた。
声にならない声が、胸の奥を直接叩いてくる。
寒い。
暗い。
帰りたい。
灯りを消せ。
誰かの怨嗟と願いが、ぐちゃぐちゃに混ざって押し寄せてくる。
「……十年前の職工たち、か」
親方の話が脳裏をよぎる。
爆発事故で亡くなった者たち。真っ暗な工場の中で、二度と灯りを見ることなく終わった命。
闇は、彼らの形を借りてガス管に棲みついたのかもしれない。
「けど、だからって、今度は町を巻き添えにしていい理由にはならないだろ」
声に出すことで、自分をごまかす。
夜人は行灯をぐっと握りしめた。
「……聞こえるなら、見てろよ。今度はちゃんと灯りを点けてやるから」
自分でも何を言っているのかわからない。
けれど、胸の奥から、不意に温かさが湧き上がった。
行灯の紙障子の向こうで、豆粒ほどの芯が、ふっと白く光る。
昨夜と同じ感覚が、指先を駆け上がった。
「来い」
夜人はその灯りに、そっと点灯棒を触れさせる。
白い火が皿に移る。青い怪火の中でも、はっきりとわかる白さだった。
「――導灯、一閃」
小さく呟いて、夜人は棒先を地面へ叩きつける。
昨夜のように真っ直ぐな線が走るかと思った。
だが白い火は、夜人の足元から円を描くように広がっていった。
光の輪が、ボイラー室と点検口を囲む。
円の外から、青白い火が襲いかかる。
だが、白い光の輪に触れた瞬間、火はじゅっと音を立てて弾かれた。
「……結界、みたいなもんか」
そんな言葉が頭をよぎる。
光の輪は頼りなげに揺れている。
いつまで持つか、わからない。
「灯子さん……急いでくれよ……!」
歯を食いしばりながら、夜人は棒先を地面に押しつけ続けた。
光が消えないように、意識を絶やさない。
守りたいものの顔を、ひとつひとつ思い浮かべる。
そのとき、遠くで金属のぶつかる音がした。
「元栓、閉めます!」
灯子の声だ。
次の瞬間、工場の奥で、ゴウンと鈍い音が響いた。
混ざり合っていたガスの流れが、一気に引き絞られていく感覚がある。
青白い火の渦が、苦しげに身をよじった。
「今だ……!」
夜人は結界の内側、点検口の真上を見つめた。
渦の中心に、何か黒いものが浮かんでいる。
焦げた木札のような、小さな板切れだった。
「あれか」
夜人は一度だけ息を吸い、棒を構え直した。
「導灯、一閃!」
今度は、真上へ向けて棒を振り上げる。
白い火が、線となって走り、渦の中心を貫いた。
木札が音もなく割れ、黒い灰となって散る。
瞬間、青白い火がはじけた。
眩い光と、冷たい風。
耳の奥で何かが悲鳴を上げ、すぐに静かになる。
気づけば、工場街の広場には、いつもの黄色いガス灯の光だけが揺れていた。
「……終わった、のか」
夜人はその場にへたり込んだ。
握りしめていた行灯の灯りが、ふっと消える。
背後から、走ってくる足音がした。
「夜人!」
振り向くと、灯子が駆け寄ってくる。頬には煤がついていて、息が荒い。
「よく持たせてくれましたね……! あのままなら、本当に吹き飛んでましたよ」
「そっちは、元栓、閉められたんですか」
「ええ。ガスの圧は落ち着きました。……で、あなたはいったい、今のをどう説明するつもりです?」
灯子は夜人の行灯をじっと見た。
「さっき、白い輪が見えました。ガス灯の炎とは違う色の。私、気のせいを信じない性格なんです」
「ええと……それは、その……」
「怪談は信じません。でも、目の前の現象は信じます」
灯子はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
「また後で、詳しく聞かせてください。ガス会社としても、ああいう“異常現象”を無視するわけにはいきませんから」
そこへ、遅れて親方がやって来た。
「おう、二人とも生きてるな。上等上等」
親方は周囲をざっと見回し、点検口のそばに落ちているものに目を留めた。
焼け焦げた木札だ。割れてはいるが、まだ裏の字が読める。
親方はそれを拾い上げ、指先で煤をこすり落とした。
「……やっぱりな」
「親方?」
夜人が覗き込むと、札の裏に小さな文字が刻まれているのが見えた。
日付。十年前の、あの“大停電の夜”と同じ日。
そして、その下に短い一行。
――灯を消すな 灯塔
自分と同じ名字を見つけて、夜人は息を呑んだ。
「灯塔って……これ」
「おめえの家の字だ」
親方は静かに言う。
「十年前、この工場で死んだ職工のひとりに、灯塔って男がいた。おめえの親父さんだ」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
思い出そうとしても、顔はぼやけている。
十年前、夜人はまだ小さかった。
「……どうして、今まで」
「話す時期を見計らってたのさ。灯守が灯る前に言っても、ただの不幸話で終わっちまう」
親方は札を懐にしまい、夜人の肩を軽く叩いた。
「夜人。おめえが灯りに選ばれたのは、偶然じゃねえ。十年前に消えた火の続きだ。真夜中の点灯夫はな、過去の闇にも火を入れに行かなきゃなんねえ」
夜人は、まだうまく言葉を返せなかった。
工場街のガス灯が、静かに通りを照らしている。
その光の向こうに、十年前の夜と、自分の家のことと、まだ知らない闇の姿が、ぼんやりと浮かび上がり始めていた。




