表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/19

第19話 名前の欠けた札



 欠けた名前の札は、意外と重かった。


 番屋のちゃぶ台に置いたそれを、灯塔とうとう夜人やひとは何度もひっくり返して眺めていた。


 焦げた木の匂い。

 うっすら残る、赤インクの筋。

 ――〇〇灯〇。


 読めない。

 読めそうで読めない。それが余計に落ち着かない。


「睨んでりゃ字が出てくるってもんでもねえぞ」


 背後から、三上みかみ銀次ぎんじが湯呑みを片手に覗き込む。


「でも、これ“十年前の裏切り灯夫”の札かもしれないんですよね」


「“かもしれねえ”だ。決めつけんな」


 親方が、煙管きせるをくわえたまま欠け札を指で弾いた。


「字も欠けてりゃ、話も欠けてる。

 埋めるのは、お前ひとりじゃねえ。各組の古狸ふるだぬきどもにも働いてもらうさ」


「というわけで」


 銀次が夜人の肩をぽんと叩く。


「今日は一日、“欠け札巡り”だ。聞き込みと足、頼んだぞ、相棒」


「人使い荒いなあ……でも、やります」


 夜人は札を紐で胸元に下げ、行灯あんどんと点灯棒をいつものように腰に差した。


 十年前から続く灯の欠片かけら

 その持ち主を見つけるのは、今の灯夫たちの仕事だ。


     *


 まず向かったのは、工場街だった。


 昼間でも煙突から薄く煙が上がり、鉄と油の匂いが肌にまとわりついてくる。


「で、その札を見せろって?」


 工場灯夫組の樫村かしむらは、ゴツゴツした指で欠け札をつまみ上げた。

 隣で六郎ろくろうが覗き込む。


「……あー……」


 樫村の眉が、わずかに寄る。


「心当たり、ありますか?」


 夜人が身を乗り出すと、樫村は頭をがしがし掻いた。


「“ある”っちゃある。“ない”っちゃない」


「どういうことです?」


「字の癖がよ」


 樫村は、札の裏に残った薄い線を指でなぞる。


「工場の点検札をよく書いてた奴の筆に似てる気もするし、気のせいな気もする。

 十年前だ。こっちの頭のインクもかすれてきてる」


「名前は?」


 銀次が食い下がると、六郎が苦笑しながら肩をすくめた。


「そもそも、ここに書いてある部分が読めねえんだよ。

 “灯”の前後が蒸発してるだろ? “灯村”か“灯石”か“灯二郎”か……全部それっぽく見えて全部違う気もする」


「匂いの方は?」


 工場の隅で配管図を広げていた霧島きりしま灯子とうこが近づいてきた。


 手袋越しに札を受け取り、鼻先に近づける。


「……工場だけの匂いではないですね」


「工場“だけ”じゃない?」


「はい。油とすすに混ざって、畳と線香と……それから、うるしの匂いがします」


「漆?」


 夜人と銀次が首をかしげる。


「漆塗りの棚か、引き戸か。とにかく、木の部屋に長く掛けられていた札です。

 工場の現場でぶら下げっぱなしにしていた札とは違う」


 灯子は札を夜人に返しながら続けた。


「工場組の灯夫が、仕事のあとに戻っていた“どこかの部屋”の札。

 ひとつの宿か、長屋かもしれません」


灯夫宿とうふやど……とか、ですかね」


「その線は、捨てがたいですね」


     *


 次に向かったのは港だった。


 昼の港は、夜とはまた違う顔を見せる。

 魚の匂いと潮の匂い。網を干す音。船体を叩く波。


 うしお汐見しおみみおが、船着き場で網の手入れをしている源太じいさんに声をかけた。


「じいさん、十年前、こんな札を提げてる灯夫、見たことねえか」


 潮が欠け札を差し出すと、源太は目を細めてじっと見つめた。


「おう……懐かしい形だな」


「知ってるんですか?」


 夜人が身を乗り出す。


「十年前の嵐の晩よ」


 源太が、海の方を顎でしゃくった。


「港じゅう真っ暗になった夜があったろ。

 あのとき、沖からひとつ赤い灯がすうっと入ってきてな。船も何も見えねえのに、灯だけがある。

 あれは人魂だ、化け灯だって騒いだんだが――」


「あとで聞いたら、“灯夫が灯喰の口を追い払ってた”って噂になったってやつですね」


 潮が頷く。


「そう、それだ」


 源太は、札の焦げ目を指でなぞる。


「その灯夫がよ、港の帰りに毎回この札をぶら下げてた。

 名前までは覚えちゃいねえが、“灯の字が付いてる”ってのは、誰かが言ってたな」


「赤懐中灯の男じゃなくて、もっと前の話ですね」


 澪が、潮と夜人を見比べる。


「“渡した側”……?」


「少なくとも、“港に赤い灯を持ってきた灯夫”がいたのは確かだ」


 潮は札を夜人に返した。


「その札が灯夫宿のもんだとしたら、港と工場を行き来してた連中の泊まり場ってことになる」


「……十年前の地図と、札の匂いと、じいさんの証言か」


 夜人は胸元の札を握りしめた。


 港にも、工場にも、札の主の影が薄く残っている。


     *


 夕刻、花街の灯がぽつぽつと点き始めるころ。


 夜人たちは、三味線しゃみせんの音が漏れる路地を抜けて、緒方おがた紅市こういちとおたえの元へ向かった。


「また妙な札持ってきたね」


 お妙が、欠け札をひょいとつまみ上げる。


「十年前の灯夫のですね、多分」


 夜人が説明すると、紅市が扇子を頭の後ろでぽりぽりとかいた。


「花街を回ってた灯夫で、“灯の字が付いてるやつ”なんて山ほどいたぞ。

 けど、その札の形は……」


 紅市は、路地の突き当たりをふと振り返った。


「“寡黙かもくな灯夫”の札に似てる」


「寡黙な灯夫?」


「いたんだよ、十年前な」


 お妙が代わりに説明する。


「名前はあまり聞かないまま、いつも路地の奥の方の灯を黙って見て回ってく。

 芸者衆の噂では、“あの人はよそでひどい灯を見てきて、ここに逃げてきたんだ”ってね」


「その人も“灯”って字が付いてた?」


「さあね。ただ、半纏のすそには確かに“灯”の刺繍ししゅうがあったよ。

 札もこんなふうに、少し欠けてた」


 お妙は、欠け札の端を指で撫でた。


「“間に合わなかった灯の分だけ、欠けてる気がする”って、誰かが言ってたね」


 夜人の胸が、ちくりとした。


 間に合わなかった灯。

 工場。橋。倉。廃灯台。

 今自分たちがなんとか間に合わせようとしている灯の、少し前の時代。


「花街にその人の部屋とか、泊まってた場所って残ってませんか」


「うちのくみじゃないね」


 紅市が首を振る。


「いつも夜になるとひょいっと現れて、明け方にはどっかに帰ってた。

 灯夫宿から通ってたんじゃねえかな」


 その言葉に、灯子の言っていた漆と畳の匂いが重なる。


 工場、港、花街を繋ぐ灯夫宿。

 十年前、灯の間を渡り歩いていた者たちの拠点。


     *


 その帰り道だった。


 下町の路地を抜けようとしたとき、胸元の札が、かすかに熱を持った。


「……親方?」


 夜人は思わず立ち止まる。


 札の表面に、薄く黒い文字が浮かび上がった。


 ――灯。


 見慣れた一文字。

 だが、札の上でそれがうねり、細い虫のように這い始める。


「おいおい、また“文字虫もじむし”かよ」


 銀次が棒を構える間もなく、黒い線虫は札から飛び出した。


 細長い影が、路地の石畳の上を走る。

 途中にあった古いガス灯の柱に巻きつき、その頭にすとんと潜り込んだ。


 次の瞬間、灯の炎が、黒く塗りつぶされたように変色した。


『名を、喰う』


 ガラス越しに、細い声が漏れた。


 文字虫が、ガラスの内側で膨らむ。

 「灯」の字がいくつも重なり合い、やがて小さな人影のようなものになった。


 顔の部分だけ白紙のように抜け落ちた、小さな闇魍やみもう


「……札の名前を喰おうとしてるのか」


 夜人は、胸元の札を握りしめた。


 名前を喰われたら、二度と辿り着けなくなる。

 札の主も、十年前の灯夫たちも。


「銀次さん!」


「あいよ!」


 銀次が、ガス灯の柱を蹴って飛び上がる。


 夜人は、行灯に棒先を触れさせ、白い火を灯した。


導灯どうとう名呼なこえ!」


 棒先から伸びた細い光が、ガス灯の頭をぐるりと囲む。


 灯の中の文字虫が、それを嫌がって暴れた。


『名を……隠す……』


「隠させません!」


 夜人は、ガラス越しに闇魍を睨む。


「十年前の誰かの名前を、今ここで喰わせるわけにはいかない!」


 白い光が、ガラスの内側へ滲み込んだ。


 文字虫が、喉を焼かれたように身をよじる。

 重なっていた「灯」の字がばらばらと剥がれ、ガラスの内側に貼りついた。


 銀次が、その隙を逃さず棒を振り下ろす。


「三上流・灯柱はたき!」


 大げさな名乗りの割に、やっていることはシンプルだ。

 ガス灯の頭を横からぶん殴る。


 ガラスががたんと揺れ、文字虫が飛び出した。


 空中に投げ出された「灯」の字の塊を、夜人の白い光が貫く。


 墨が水に溶けるように、黒い線がほどけて消えていった。


 ガス灯の炎は、元の黄色に戻る。


「ふー……」


 銀次が、柱の上からひらりと降りてきた。


「“名を喰う闇”か。今度はまためんどくさいのが出てきたな」


「札の持ち主が、自分の名前を隠したがってるのか、

 灯喰の側が“名前まで預かる”つもりなのか……」


 夜人は、まだ少し熱を持っている札を見下ろした。


 黒い線は、先ほどより薄くなった気がする。

 代わりに、札の木目がはっきりと浮かび上がっていた。


「どっちにしろ、“名前を喰わせない”って決めねえと駄目だな」


 銀次が、夜人の背中を軽く叩く。


「食い逃げされる前に、とっとと会いに行こうぜ、札の主に」


     *


 夜が深まり始めたころ、再び灯道局の一室に灯夫たちが集まっていた。


 夜人は、工場・港・花街で得た話を順に並べていく。


「工場では、“点検札を書いてた奴の字に似てるけどわからない”。

 港では、“嵐の晩に赤い灯を持ってきた灯夫がこの札を提げていた”。

 花街では、“寡黙な灯夫の札にこの欠け方が似ている”――」


 親方が腕を組み、氷室が台帳をめくる。


「どれも、“灯夫宿から通っていた”と言われてるのが共通だな」


 灯子が、昼間の分析を補足した。


「札の匂いは、畳と漆と線香。

 工場か港の現場ではなく、“泊まる場所”に長く掛けられていた匂いです」


「十年前、灯夫がまとまって泊まっていた宿といえば……」


 潮が顎に手を当てる。


「港の坂を上がったところの“灯夫長屋とうふながや”か」


「そうです」


 氷室が、町の古い地図を指でなぞった。


「ここ。今は半分空き家同然だが、十年前は下町・港・工場の灯夫が交代で寝起きしていた。

 名札の板も、この札と同じ材木を使っている」


 夜人の胸が、どくりと鳴った。


 灯夫宿。

 十年前の灯夫たちが、仕事のあとに戻っていた場所。

 記録喰いの砂の底から出てきた手帳の主も、きっとそこにいた。


「……行きます」


 夜人は、欠け札を握りしめて顔を上げた。


「灯夫宿の札掛けが残ってるなら、ここにいる誰かが、この札の主を覚えてるかもしれない。

 それに――」


 言いながら、自分で気づく。


 廃灯台の夜、赤懐中灯の男が一瞬見せた横顔。

 灯の揺れ方。

 どこか、“戻る場所”を知っている目だった。


「“渡された側”も、“渡した側”も、きっとどこかに灯を掛ける場所がある。

 それが、あの宿な気がしてしょうがないんです」


 親方がにやりと笑った。


「よし。じゃあ、灯塔、銀次。

 今度は“泊まり込みの聞き込み”だ。久しぶりに、灯夫宿の夜ってやつを味わってこい」


「マジか。布団まだ生きてますかね……」


 銀次が半分本気で顔をしかめる。


「潰れた布団より潰れかけの話の方が大事ですよ」


 夜人は、札から視線を上げた。


 ――灯夫宿。


 十年前の灯と、今の灯と、名前のない灯が、同じ屋根の下で眠っていた場所。


     *


 そのころ。


 港の坂を少し上がったところにある、古い長屋の一室で。


 赤い灯が、ひっそりと揺れていた。


 粗末なちゃぶ台の上に、割れた懐中灯の中身だけを移したような、小さな赤い灯。

 その灯の前に、ひとりの男が座っていた。


 赤懐中灯の男。


 彼の視線の先には、古びた半纏はんてんと、煤けた灯守と、欠けた名札が並んでいる。


 ――〇〇灯〇。


 灯の揺れに合わせて、札の「灯」の字がかすかに震えた。


「……悪いな、親方」


 男は、誰にともなく呟いた。


「お前の続き、俺はちゃんと見に来るつもりだったんだが――」


 ふと、赤い灯が、別の方向へ揺れた。


 長屋の外。

 坂の下から、白い灯の匂いが近づいてくる。


「……来たか」


 男は立ち上がった。


 灯夫宿の夜が、静かに開き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ