第19話 名前の欠けた札
欠けた名前の札は、意外と重かった。
番屋のちゃぶ台に置いたそれを、灯塔夜人は何度もひっくり返して眺めていた。
焦げた木の匂い。
うっすら残る、赤インクの筋。
――〇〇灯〇。
読めない。
読めそうで読めない。それが余計に落ち着かない。
「睨んでりゃ字が出てくるってもんでもねえぞ」
背後から、三上銀次が湯呑みを片手に覗き込む。
「でも、これ“十年前の裏切り灯夫”の札かもしれないんですよね」
「“かもしれねえ”だ。決めつけんな」
親方が、煙管をくわえたまま欠け札を指で弾いた。
「字も欠けてりゃ、話も欠けてる。
埋めるのは、お前ひとりじゃねえ。各組の古狸どもにも働いてもらうさ」
「というわけで」
銀次が夜人の肩をぽんと叩く。
「今日は一日、“欠け札巡り”だ。聞き込みと足、頼んだぞ、相棒」
「人使い荒いなあ……でも、やります」
夜人は札を紐で胸元に下げ、行灯と点灯棒をいつものように腰に差した。
十年前から続く灯の欠片。
その持ち主を見つけるのは、今の灯夫たちの仕事だ。
*
まず向かったのは、工場街だった。
昼間でも煙突から薄く煙が上がり、鉄と油の匂いが肌にまとわりついてくる。
「で、その札を見せろって?」
工場灯夫組の樫村は、ゴツゴツした指で欠け札をつまみ上げた。
隣で六郎が覗き込む。
「……あー……」
樫村の眉が、わずかに寄る。
「心当たり、ありますか?」
夜人が身を乗り出すと、樫村は頭をがしがし掻いた。
「“ある”っちゃある。“ない”っちゃない」
「どういうことです?」
「字の癖がよ」
樫村は、札の裏に残った薄い線を指でなぞる。
「工場の点検札をよく書いてた奴の筆に似てる気もするし、気のせいな気もする。
十年前だ。こっちの頭のインクもかすれてきてる」
「名前は?」
銀次が食い下がると、六郎が苦笑しながら肩をすくめた。
「そもそも、ここに書いてある部分が読めねえんだよ。
“灯”の前後が蒸発してるだろ? “灯村”か“灯石”か“灯二郎”か……全部それっぽく見えて全部違う気もする」
「匂いの方は?」
工場の隅で配管図を広げていた霧島灯子が近づいてきた。
手袋越しに札を受け取り、鼻先に近づける。
「……工場だけの匂いではないですね」
「工場“だけ”じゃない?」
「はい。油と煤に混ざって、畳と線香と……それから、漆の匂いがします」
「漆?」
夜人と銀次が首をかしげる。
「漆塗りの棚か、引き戸か。とにかく、木の部屋に長く掛けられていた札です。
工場の現場でぶら下げっぱなしにしていた札とは違う」
灯子は札を夜人に返しながら続けた。
「工場組の灯夫が、仕事のあとに戻っていた“どこかの部屋”の札。
ひとつの宿か、長屋かもしれません」
「灯夫宿……とか、ですかね」
「その線は、捨てがたいですね」
*
次に向かったのは港だった。
昼の港は、夜とはまた違う顔を見せる。
魚の匂いと潮の匂い。網を干す音。船体を叩く波。
潮と汐見澪が、船着き場で網の手入れをしている源太じいさんに声をかけた。
「じいさん、十年前、こんな札を提げてる灯夫、見たことねえか」
潮が欠け札を差し出すと、源太は目を細めてじっと見つめた。
「おう……懐かしい形だな」
「知ってるんですか?」
夜人が身を乗り出す。
「十年前の嵐の晩よ」
源太が、海の方を顎でしゃくった。
「港じゅう真っ暗になった夜があったろ。
あのとき、沖からひとつ赤い灯がすうっと入ってきてな。船も何も見えねえのに、灯だけがある。
あれは人魂だ、化け灯だって騒いだんだが――」
「あとで聞いたら、“灯夫が灯喰の口を追い払ってた”って噂になったってやつですね」
潮が頷く。
「そう、それだ」
源太は、札の焦げ目を指でなぞる。
「その灯夫がよ、港の帰りに毎回この札をぶら下げてた。
名前までは覚えちゃいねえが、“灯の字が付いてる”ってのは、誰かが言ってたな」
「赤懐中灯の男じゃなくて、もっと前の話ですね」
澪が、潮と夜人を見比べる。
「“渡した側”……?」
「少なくとも、“港に赤い灯を持ってきた灯夫”がいたのは確かだ」
潮は札を夜人に返した。
「その札が灯夫宿のもんだとしたら、港と工場を行き来してた連中の泊まり場ってことになる」
「……十年前の地図と、札の匂いと、じいさんの証言か」
夜人は胸元の札を握りしめた。
港にも、工場にも、札の主の影が薄く残っている。
*
夕刻、花街の灯がぽつぽつと点き始めるころ。
夜人たちは、三味線の音が漏れる路地を抜けて、緒方紅市とお妙の元へ向かった。
「また妙な札持ってきたね」
お妙が、欠け札をひょいとつまみ上げる。
「十年前の灯夫のですね、多分」
夜人が説明すると、紅市が扇子を頭の後ろでぽりぽりとかいた。
「花街を回ってた灯夫で、“灯の字が付いてるやつ”なんて山ほどいたぞ。
けど、その札の形は……」
紅市は、路地の突き当たりをふと振り返った。
「“寡黙な灯夫”の札に似てる」
「寡黙な灯夫?」
「いたんだよ、十年前な」
お妙が代わりに説明する。
「名前はあまり聞かないまま、いつも路地の奥の方の灯を黙って見て回ってく。
芸者衆の噂では、“あの人はよそでひどい灯を見てきて、ここに逃げてきたんだ”ってね」
「その人も“灯”って字が付いてた?」
「さあね。ただ、半纏の裾には確かに“灯”の刺繍があったよ。
札もこんなふうに、少し欠けてた」
お妙は、欠け札の端を指で撫でた。
「“間に合わなかった灯の分だけ、欠けてる気がする”って、誰かが言ってたね」
夜人の胸が、ちくりとした。
間に合わなかった灯。
工場。橋。倉。廃灯台。
今自分たちがなんとか間に合わせようとしている灯の、少し前の時代。
「花街にその人の部屋とか、泊まってた場所って残ってませんか」
「うちの組じゃないね」
紅市が首を振る。
「いつも夜になるとひょいっと現れて、明け方にはどっかに帰ってた。
灯夫宿から通ってたんじゃねえかな」
その言葉に、灯子の言っていた漆と畳の匂いが重なる。
工場、港、花街を繋ぐ灯夫宿。
十年前、灯の間を渡り歩いていた者たちの拠点。
*
その帰り道だった。
下町の路地を抜けようとしたとき、胸元の札が、かすかに熱を持った。
「……親方?」
夜人は思わず立ち止まる。
札の表面に、薄く黒い文字が浮かび上がった。
――灯。
見慣れた一文字。
だが、札の上でそれがうねり、細い虫のように這い始める。
「おいおい、また“文字虫”かよ」
銀次が棒を構える間もなく、黒い線虫は札から飛び出した。
細長い影が、路地の石畳の上を走る。
途中にあった古いガス灯の柱に巻きつき、その頭にすとんと潜り込んだ。
次の瞬間、灯の炎が、黒く塗りつぶされたように変色した。
『名を、喰う』
ガラス越しに、細い声が漏れた。
文字虫が、ガラスの内側で膨らむ。
「灯」の字がいくつも重なり合い、やがて小さな人影のようなものになった。
顔の部分だけ白紙のように抜け落ちた、小さな闇魍。
「……札の名前を喰おうとしてるのか」
夜人は、胸元の札を握りしめた。
名前を喰われたら、二度と辿り着けなくなる。
札の主も、十年前の灯夫たちも。
「銀次さん!」
「あいよ!」
銀次が、ガス灯の柱を蹴って飛び上がる。
夜人は、行灯に棒先を触れさせ、白い火を灯した。
「導灯・名呼え!」
棒先から伸びた細い光が、ガス灯の頭をぐるりと囲む。
灯の中の文字虫が、それを嫌がって暴れた。
『名を……隠す……』
「隠させません!」
夜人は、ガラス越しに闇魍を睨む。
「十年前の誰かの名前を、今ここで喰わせるわけにはいかない!」
白い光が、ガラスの内側へ滲み込んだ。
文字虫が、喉を焼かれたように身をよじる。
重なっていた「灯」の字がばらばらと剥がれ、ガラスの内側に貼りついた。
銀次が、その隙を逃さず棒を振り下ろす。
「三上流・灯柱はたき!」
大げさな名乗りの割に、やっていることはシンプルだ。
ガス灯の頭を横からぶん殴る。
ガラスががたんと揺れ、文字虫が飛び出した。
空中に投げ出された「灯」の字の塊を、夜人の白い光が貫く。
墨が水に溶けるように、黒い線がほどけて消えていった。
ガス灯の炎は、元の黄色に戻る。
「ふー……」
銀次が、柱の上からひらりと降りてきた。
「“名を喰う闇”か。今度はまためんどくさいのが出てきたな」
「札の持ち主が、自分の名前を隠したがってるのか、
灯喰の側が“名前まで預かる”つもりなのか……」
夜人は、まだ少し熱を持っている札を見下ろした。
黒い線は、先ほどより薄くなった気がする。
代わりに、札の木目がはっきりと浮かび上がっていた。
「どっちにしろ、“名前を喰わせない”って決めねえと駄目だな」
銀次が、夜人の背中を軽く叩く。
「食い逃げされる前に、とっとと会いに行こうぜ、札の主に」
*
夜が深まり始めたころ、再び灯道局の一室に灯夫たちが集まっていた。
夜人は、工場・港・花街で得た話を順に並べていく。
「工場では、“点検札を書いてた奴の字に似てるけどわからない”。
港では、“嵐の晩に赤い灯を持ってきた灯夫がこの札を提げていた”。
花街では、“寡黙な灯夫の札にこの欠け方が似ている”――」
親方が腕を組み、氷室が台帳をめくる。
「どれも、“灯夫宿から通っていた”と言われてるのが共通だな」
灯子が、昼間の分析を補足した。
「札の匂いは、畳と漆と線香。
工場か港の現場ではなく、“泊まる場所”に長く掛けられていた匂いです」
「十年前、灯夫がまとまって泊まっていた宿といえば……」
潮が顎に手を当てる。
「港の坂を上がったところの“灯夫長屋”か」
「そうです」
氷室が、町の古い地図を指でなぞった。
「ここ。今は半分空き家同然だが、十年前は下町・港・工場の灯夫が交代で寝起きしていた。
名札の板も、この札と同じ材木を使っている」
夜人の胸が、どくりと鳴った。
灯夫宿。
十年前の灯夫たちが、仕事のあとに戻っていた場所。
記録喰いの砂の底から出てきた手帳の主も、きっとそこにいた。
「……行きます」
夜人は、欠け札を握りしめて顔を上げた。
「灯夫宿の札掛けが残ってるなら、ここにいる誰かが、この札の主を覚えてるかもしれない。
それに――」
言いながら、自分で気づく。
廃灯台の夜、赤懐中灯の男が一瞬見せた横顔。
灯の揺れ方。
どこか、“戻る場所”を知っている目だった。
「“渡された側”も、“渡した側”も、きっとどこかに灯を掛ける場所がある。
それが、あの宿な気がしてしょうがないんです」
親方がにやりと笑った。
「よし。じゃあ、灯塔、銀次。
今度は“泊まり込みの聞き込み”だ。久しぶりに、灯夫宿の夜ってやつを味わってこい」
「マジか。布団まだ生きてますかね……」
銀次が半分本気で顔をしかめる。
「潰れた布団より潰れかけの話の方が大事ですよ」
夜人は、札から視線を上げた。
――灯夫宿。
十年前の灯と、今の灯と、名前のない灯が、同じ屋根の下で眠っていた場所。
*
そのころ。
港の坂を少し上がったところにある、古い長屋の一室で。
赤い灯が、ひっそりと揺れていた。
粗末なちゃぶ台の上に、割れた懐中灯の中身だけを移したような、小さな赤い灯。
その灯の前に、ひとりの男が座っていた。
赤懐中灯の男。
彼の視線の先には、古びた半纏と、煤けた灯守と、欠けた名札が並んでいる。
――〇〇灯〇。
灯の揺れに合わせて、札の「灯」の字がかすかに震えた。
「……悪いな、親方」
男は、誰にともなく呟いた。
「お前の続き、俺はちゃんと見に来るつもりだったんだが――」
ふと、赤い灯が、別の方向へ揺れた。
長屋の外。
坂の下から、白い灯の匂いが近づいてくる。
「……来たか」
男は立ち上がった。
灯夫宿の夜が、静かに開き始めていた。




