第十八話 廃灯台の夜
港と下町の境目、崖の上に、ひとつの灯が眠っていた。
錆びた鉄骨に、ひび割れたガラス。
ふもとの道から見上げると、かつて海を照らしていた灯台は、今や黒い影の塔にしか見えない。
「ここが、今回の“講習会場”です」
宵坂ミナトが、書類束を抱えたまま苦笑した。
「記事にしたら怒られます?」
「記事にすんな」
銀次が即座に切り捨てる。
「“灯夫だけの勉強会”だろ。外にはそう言ってあるんだから」
灯塔夜人は、灯台を見上げた。
崖を登る石段は苔で滑り、手すり代わりの鎖は潮で白く錆びている。
灯台の中には、もう使われることのないガス管と、油灯の台座が眠っているはずだ。
――廃灯台。
今夜だけ、その眠りを起こす。
「中の灯は、最低限だけ点けます」
霧島灯子が、灯台の鍵を掲げた。
「事故防止上、本当は立ち入り禁止ですけど……まあ、今日ばかりは目をつぶります」
「どうせ、見張るのは私たちですしね」
汐見澪が、羅針盤型の灯守を胸元で押さえる。
早瀬潮、緒方紅市、お妙、氷室灯真――各灯夫組から選りすぐりの顔が集まっていた。
親方が、石段の一番下で振り返る。
「いいか。表向きは“十年前の灯りを語る講習会”だ。
実際には、灯喰の導線と、“赤懐中灯”の野郎を釣る罠の夜だと思え」
夜人は、胸元の行灯を握りしめた。
廃灯台の内部には、餌が仕込んである。
十年前の灯区帳の写し。
赤インクの手帳の写し。
鍵灯の配管図。
そして、「ここに集まる灯を組み替えれば町じゅうの灯りを一度に動かせる」とでも勘違いしたくなるような、わざとらしい図面。
灯喰と、その側に立とうとする灯夫にとって、たまらない餌だ。
「中の灯は、私が握ります」
灯子が言った。
「ガス管の元栓はすべてこちら側。油灯も芯を調整済み。
どれだけ暴れても、灯台ごと爆ぜることはありません」
「港側と崖下はこっちで押さえる」
潮が、崖の縁から波打ち際を見下ろす。
「鎖童子の残り火も、今んとこは静かだ。暴れたら鎖ごと叩き落とす」
「屋根の上からは、うちらが見てるよ」
紅市とお妙が、息ぴったりに笑った。
「糸と影で、逃げ道は縫いとめてやるから」
氷室は、山の手側の坂道をちらりと見た。
「……誰が来てもおかしくはない夜だ。
十年前ここへ通っていた灯夫も、今の灯夫も、灯喰も」
親方が、最後に夜人の背中をどんと叩く。
「お前は、最初から一番上を目指せ」
「最初から、ですか」
「灯喰と話す係は、お前だろ」
銀次が肩を竦める。
「俺たちが下で暴れてる間に、さっさと“口”のところまで行け。
途中で面倒なやつに絡まれたら、一緒に連れて上がってこい」
「荷物みたいに言わないでください」
それでも、少しだけ笑えた。
――廃灯台の夜。
石段を登る足が、いつもより少し重い。
*
灯台の内部は、冷たかった。
厚い石壁に囲まれた螺旋階段。
壁に沿って、古いガス管と灯具が等間隔に並んでいる。
灯子が点けた小さな灯が、階段をじわじわと照らし上げていく。
「今日は講習会ですからねー」
ミナトが、わざとらしく声を張る。
「十年前の大停電を知る灯夫の方々から、お話をうかがう会ですよー。
外に聞こえるように、もっとおおげさに言ってもいいですかね」
「好きにしろ」
親方が鼻を鳴らす。
途中の踊り場ごとに、灯夫たちが持ち場を決めて散っていく。
入口近く――一階は灯子と樫村。
ガスの元栓に一番近い場所だ。
中腹には、紅市とお妙。
上へ向かう螺旋と、外回りの非常階段を見張る。
さらに上には、潮と澪。
灯台の外壁から港と崖下を同時に見渡せる位置。
頂上の灯室――かつて灯が置かれていた場所に、夜人と銀次、親方が向かう。
「本当に、十年前の記録の写しなんて置いちゃってよかったんですか」
夜人が尋ねると、親方はふんと笑った。
「あれはあれで、もう“こっちの灯”だ。
お前が見た分と、灯子が写し取った分が混ざってる。
灯喰の口に全部入っても、腹壊すだろうさ」
「腹壊す闇なんて、ちょっと見てみたいですけどね」
銀次の軽口が、石壁に反射して少し和らいだ笑い声を返してくる。
灯室にたどり着くと、そこだけ別の空気があった。
丸い部屋の中央に、昔の灯台の台座。
その脇の机に、写しの灯区帳と手帳と図面がきちんと並べられている。
ガラス窓の外には、夜の港と町の灯が、遠く小さく揺れていた。
「……十年前も、ここから見えたんでしょうか」
「見えたろうな」
親方が短く答える。
「ただし、そのときは、工場の方が真っ赤に燃えてた」
夜人は、机の上の灯区帳の写しに手を触れた。
そのとき――
灯室の灯が、ふっと揺れた。
風はない。窓は閉まっている。
それでも、灯芯の上の炎が一瞬細くなり、すぐに戻る。
「今の、感じました?」
「ああ」
銀次が、棒を肩から外した。
「“来た”な」
*
最初に異変が出たのは、一階だった。
「灯が……」
樫村が振り向いたとき、壁の灯のひとつが、じわじわと黒ずんでいた。
炎そのものが黒くなったのではない。
灯芯の周りのガラスに、文字のような影が浮き出ている。
『口』『記録』『並べる』
蠍の記録喰いが砂になって消えたときに残した文字と、同じだ。
「記録喰いの残りかす、か」
灯子が、素早くガスの元栓を絞る。
「樫村さん、圧を安定させてください。
ここで暴れさせると、上まで一気に走ります」
「任せろ」
樫村が、手慣れた動きでバルブを回す。
だが、影は灯のガラスから剥がれると、螺旋階段の方へするすると這い上がっていった。
*
中腹では、別の異変が起きていた。
「糸が……勝手に張られてるねえ」
お妙が、壁と壁の間に伸びる細い線を指先で弾く。
見えないはずの闇の糸が、灯の明かりに照らされて、蜘蛛の巣のように浮かんでいる。
縫灯と渡り合ったあの夜と同じ匂いだ。
「自分から絡まりに来るとは、いい度胸してるじゃねえか」
紅市が、糸をまとめて一気に引きちぎる。
切れた先から、黒い紙片と鎖の切れ端が混ざったような闇が、階段の上へ逃げていった。
「……鎖も混ざってる」
「鎖童子の残り、だろうねえ。
記録喰いと縫灯と鎖童子、全部まぜこぜにした“虫かご”みたいなやつさ」
*
潮と澪のいる踊り場に、そのまぜこぜが一気に押し寄せた。
文字の影が浮かぶ黒い帯。
千切れた糸。
鎖の輪。
古い灯の芯。
それらが螺旋階段の内壁を這い、一本の太い影の塊になろうとしている。
「……気味の悪い寄せ集めですね」
澪が、羅針盤灯守を握りしめた。
「名前をつけるなら――」
「“綴鎖の闇”ってとこか」
潮が、錨灯を肩に担ぐ。
「記録を綴じて、灯を鎖でまとめて、まとめて口に入れようって根性だ」
闇の塊が、階段の中央で膨らんだ。
紙片がペラペラとめくれ、その隙間から鎖がじゃらつき、糸が触手のように伸びる。
中には、まだ消え切らない古い灯の火がいくつも揺れていた。
『記録、並べる。
鎖で束ねる。
灯、まとめる』
「まとめようとすんな」
潮が一歩前へ出る。
「港の灯も、下町の灯も、ひとつの口に押し込めるために灯してるわけじゃねえ」
澪が、灯守を前に掲げた。
「導きます」
羅針盤の針が、くるりと回って一点を指す。
「“外”へ」
潮の錨灯が、そこへ振り下ろされた。
鎖の一撃が、綴鎖の闇の一部をそぎ落とす。
削れた闇は、階段の外壁の隙間から、港の方へと吹き出していく。
『――口』
闇の中から、別の声が混ざった。
灯喰の、あの冷たい声だ。
『上だ。灯室だ』
綴鎖の闇が、階段中央を一気に駆け上がる。
潮と澪は、すぐには追わなかった。
「……行かせたんですか」
「全部ここで飲み込もうとしたら、灯台ごと持っていかれる」
潮は、残った闇の欠片を鎖で縛り上げながら言った。
「上には、夜人と銀次と親方がいる。
あいつらの灯を信じた方が、口をこじ開けるのにはちょうどいい」
*
灯室の灯が、今度こそ大きく揺れた。
机の上の写しの帳面の上を、黒い影が走る。
ページの文字が一瞬だけ逆さまになり、すぐに元に戻る。
『灯りを並べる記録。
鍵の灯。
配管の筋。
ここに全部ある』
綴鎖の闇が、灯室の中央で渦になった。
紙片の端には父の字に似た線。
鎖の輪には潮の錨のような錆。
糸の切れ端には花街の路地灯の匂い。
それらが、まとめてひとつの影の塊になっていた。
「……派手に集めましたね」
夜人は、棒を構えた。
「これを全部“鍵の灯”に押し込んで、橋の夜の続きでもやるつもりですか」
『灯塔』
闇の中心から、灯喰の声がする。
『君は、灯りを嫌いになったかい?』
「なってません」
『なら、まだ戻れる』
綴鎖の闇が、じわじわと膨らむ。
『だが、“戻れない灯”もある。
十年前の工場の灯。
記録に残らなかった灯。
鎖につながれたまま消えた灯。
それらは、私の中に預けておくほうが楽だ』
「楽になるために預けた結果が、これでしょう」
夜人は、机の上の手帳の写しを指で弾いた。
「十年前の誰かが“子らの代”に丸投げした続きが、今こうやって燃えてる」
『それでも、灯は消えていない』
「消えるまで燃やし尽くせばいいってもんじゃねえですよ」
銀次が、闇の横腹に棒を振り下ろした。
綴鎖の闇の一部が削れ、紙片と鎖と糸が床に散らばる。
だが、すぐにまた集まり始めた。
「夜人!」
親方が、灯室の隅から叫ぶ。
「細けえこと考えるのは後だ! まずは“ここ”を閉めろ!」
「了解です!」
夜人は、胸元の行灯を握りしめた。
白い灯芯が、灯室の天井近くまで届きそうなほど強く光る。
「導灯・細綴!」
棒先から、細い光の糸が走り出した。
螺旋階段で使った技より、さらに細く、さらに多い。
糸は、綴鎖の闇の脚――紙片の端、鎖の輪、糸の切れ端――一本一本に巻きつき、動きを縫い止めていく。
『……っ』
闇が、わずかにうめく。
だが、中心部――灯喰の気配が濃い核の部分だけは、白い糸を弾いている。
『灯塔』
灯喰の声が、真ん中からまっすぐ届いた。
『君の父は、ここを選ばなかった。
工場の灯と、自分の灯を渡すことで、一度だけ私の口を逸らした。
なぜ、同じやり方を選ばない』
「父さんは、町じゅうの灯が真っ暗になるのを、あのとき止めたんです」
夜人は答える。
「でも、その結果、今こうして“続き”がここに来てる。
だったら、同じやり方じゃ足りないってことぐらい、父さんも分かってたと思います」
『だから、“子らの代”に任せたと?』
「そうですよ」
夜人は、自分でも驚くほど素直に言えた。
「だいぶ勝手ですけど」
親方が、ふっと笑った。
「勝手さ加減なら、お前と大して変わらねえよ、灯塔は」
「じゃあ――」
夜人は、机の上の写しの灯区帳ではなく、自分の胸元の灯守を見た。
その瞬間、灯守の奥で、赤い灯が一瞬だけ瞬く。
父の灯守だ。
煤けた木枠の向こうで、白と赤が一瞬だけ重なった。
「二灯・螺環――!」
夜人は、棒先の白い糸の束を、一点に集めて天井へ投げ上げた。
白い光が、灯室の天井に輪を描く。
その輪に、父の赤い灯がひと筋だけ絡む。
白と赤の二重の環が、綴鎖の闇の上に降りてきた。
『……?』
灯喰の声が、一瞬だけ戸惑う。
螺環が、闇の核を取り囲み、ぎゅっと締まる。
紙と鎖と糸が、一斉に締め付けられ、バラバラに裂けた。
核にあった灯喰の影だけが、環の中心で押しつぶされる。
『――――』
声が、潰れた。
灯台の石壁が、低く唸る。
ほんの刹那、灯室の灯がすべて白く燃え上がり――すぐに元の色に戻った。
綴鎖の闇は、床一面に黒い砂と紙屑をばら撒いて、動かなくなっていた。
「……やった、か?」
銀次が肩で息をしながら尋ねた。
「“ここの口”は塞いだ」
夜人は、まだ天井でゆっくり回っている二重の環を見上げた。
白い輪と、うっすらと赤い輪。
やがてそれは、ゆっくりと薄れて消えていく。
「灯喰本体まで潰せたとは思いませんけど、“廃灯台の口”は当分開きません」
「上等だ」
親方が、灯台の窓から外を見た。
港の方角で、潮の錨灯がひときわ強く光る。
下町の方では、紅市の糸が夜風に揺れているのが見えた。
「……で」
銀次が、床に散らばった紙屑をつまみ上げた。
「こいつはなんだ?」
紙屑の中に、ひときわ厚い札が混ざっていた。
黒く焦げた木札。
片側は完全に炭になっているが、反対側には、赤いインクで書かれた字がかすかに残っている。
――〇〇灯〇。
名字の真ん中と最後の一文字が、かろうじて読める。
そのうち一つは、やはり「灯」の字だった。
「……名前の札、か」
親方が、札を受け取って指でなぞる。
「十年前の誰かのもんだな、こりゃ」
「全部は読めませんね」
夜人は、札に刻まれた赤インクの名残を見つめた。
欠けている。
読めそうで読めない。
まるで、“全部はまだ見せない”と言われているようだ。
「名前も灯も、半分だけ残していくとか、性格悪いですね」
「だからこそ、続きがある」
氷室の声が、階段の上から聞こえてきた。
彼もまた、灯室に駆け上がってきたところだった。
「全部最初から晒してしまったら、話はそこで終わる。
十年前の灯夫は、終わらせられなかった。
だから、名前の札も、こうして“欠けたまま”残った」
夜人は、札と、自分の行灯と、父の灯守を順に見た。
どれも、灯の匂いがする。
十年前の灯。
今の灯。
その間に挟まれた、名前の欠けた灯夫。
「……ちゃんと、探しに行きます」
気づけば、夜人はそう口にしていた。
「札の持ち主も、赤懐中灯のあいつも。
“預けられた続き”を、勝手にこっちで決めさせるなんて、さすがにこっちも黙ってられないんで」
「よし」
親方が、札を夜人の胸元に押しつけた。
「そいつは、お前が預かれ。
灯塔の灯と一緒に、“名前のない灯”の続きも見てやれ」
「また仕事増やしますね……」
そうこぼしながらも、夜人は札をしっかり握った。
灯室の窓の外で、夜の港と町の灯が、静かに揺れている。
廃灯台の灯は、もう二度と夜を照らすことはないかもしれない。
それでも今夜だけは、十年前から続く灯の筋が、新しく書き足された気がした。
欠けた名前の札が、掌の中で、かすかに温かい。
――まだだ。
十年前の誰かの声が、そこから微かに聞こえた気がした。
――まだ、終わっちゃいない。




