第十六話 赤い灯の手帳
橋の戦いが終わったあとも、胸の鼓動だけはなかなか落ち着いてくれなかった。
番屋に戻った灯塔夜人は、手の中の金属片をしげしげと見つめる。
割れた赤懐中灯の外枠だ。
中の灯守は砕けて失われていたが、枠の裏側には、小さな刻印が残っている。
――灯。
苗字の一部か、ただの印なのか、それすらわからない。
「灯塔。灯夫。灯喰……みんな同じ字なんて、紛らわしいですよね」
独り言のようにこぼしたところで、戸ががらりと開いた。
「紛らわしいから、ちゃんと見分けるんだろうが」
親方が、いつもの半纏姿で立っていた。
「……親方」
「局の灯子から伝言だ。
“赤い灯の匂いを嗅ぎ分けたいから、枠ごと持ってこい”だとよ」
「嗅ぎ分けるって、そんなことできるんですか」
「ガスと油と紙の匂いで飯食ってる女だ。やらせてみりゃわかる」
そう言って、親方は夜人の手元を顎でしゃくる。
「立て、夜人。橋ん上で掴んだ端っこ、放すなよ」
*
市灯道局の一室には、前と同じように地図が広げられ、その脇に新たな皿が並んでいた。
ひとつは、あの記録喰いの蠍の残した黒い砂。
もうひとつには、橋で拾った赤懐中灯の枠。
そして、新たに持ち出された古い紙束。
「これが、うちの倉に眠ってた“赤インク多め”の記録です」
霧島灯子が、紙束を机に置いた。
「十年前の工場事故前後の灯区記録。それから、誰がどの区画を回っていたかの名簿。……ところどころ、赤で書き込みがあるでしょう」
夜人は身を乗り出して紙を覗き込む。
筆ペンで書かれた細かい字の中に、ところどころ真紅のインクがきらりと目に入る。
「圧異常」「臨時巡回」「要確認」――そんな言葉に赤い印が引かれていた。
「全部が全部、灯喰と関係あるとは限りません」
灯子は、薄い手袋越しに紙をめくる。
「ただ、“赤インクを好んで使っていた灯夫”がいるのは間違いない。
それと、橋で拾った懐中灯の匂いを比べてみたいのです」
「匂いって、そんなに残るもんなんですか」
銀次が、半信半疑で鼻をひくつかせる。
「インクには、それぞれ癖があります。
調合した場所、使った水、煤の種類。……まあ、やってみましょう」
灯子は、黒砂の皿と、懐中灯の枠の皿を並べると、小さなガラス瓶を取り出した。
「これは、十年前に工場で使われていた赤インクを再現した試薬です。
黒砂に混ざっている乾いたインクと、懐中灯の枠にこびりついた成分に、どれだけ反応するか」
小筆で一滴ずつ垂らしていく。
黒砂の方は、じわりと滲むだけで、大きな変化は見えない。
だが、懐中灯の枠に垂らした瞬間――液が、かすかに紫がかった赤に変わった。
「……当たり、か」
灯子が、目を細める。
「この懐中灯の持ち主は、十年前の“赤インク記録”と同じ調合のインクを使っている。
つまり、“あの頃と今を繋ぐ灯夫側の線”です」
「十年前の灯夫本人か、その弟子か、家族か……」
氷室灯真が、紙束に視線を落とす。
「いずれにせよ、“灯夫じゃない誰か”が灯喰の使いをやっている線は薄い」
「――じゃあ、名簿を洗えばいい」
宵坂ミナトが、新聞記者らしい身軽さで机の反対側へ移動する。
「“赤インクで書き込みした跡がある灯夫の名前”を拾えば、候補は絞れます」
灯子が、紙の端をトントンと揃えた。
「ただし、ここにあるのは全部、十年前の記録です。
当時の灯夫のうち、今も現役なのは誰か。すでに亡くなっている者もいます」
「……その辺は、現場で見てる俺たちが洗えばいい」
早瀬潮が、錨灯の柄を軽く叩く。
「下町、工場、花街、山の手、港。それぞれの古株に聞いて回ろう。
“赤いインクと懐中灯を好んでた奴は誰か”ってな」
「それともうひとつ」
灯子が、机の端から薄い手帳を取り上げた。
表紙は擦り切れ、中身の紙はところどころ黄ばんでいる。
それでも、丁寧な字で書き込まれた行が残っていた。
「倉の隅から、記録喰いの砂に埋もれて出てきました。
灯塔さんの親父さんの灯区帳とは別の、“個人のメモ帳”みたいですね」
夜人の指が止まる。
手帳の中身を覗くと、こんな行が目に入った。
――工場街西側、夜半に圧跳ねる。
――港の浮標灯、近くで赤い灯を見た者あり。
――山の手電灯、白すぎる光。
――橋の中央、影が濃い。
十年前の、あの並びだ。
「これ、父さんの字じゃありません」
夜人は、すぐにわかった。
灯区帳の癖とは違う。
もっときっちりとしていて、線が揃っている。几帳面な灯夫の手だ。
「最後のページを」
灯子に促され、夜人はめくる。
そこには、赤いインクで大きくひとこと。
――“口”と話した。次の夜は、子らの代。
インクが滲んでいて、書いたときの手の震えが、そのまま残っているようだった。
夜人は思わず、喉を鳴らした。
「……これ、誰の手帳なんですか」
「そこが問題です」
灯子は苦い顔をする。
「表紙に名前が書いてありませんでした。
ただ、扉紙の裏に、消されかけた字がひとつだけあった」
灯子は、扉紙を光の下にかざした。
斜めから見ると、かすれた筆跡が浮かび上がる。
――〇〇灯。
名字の一部と、「灯」の一字だけ。
「灯塔……じゃ、ないですよね?」
銀次が、夜人と手帳を見比べる。
「筆跡が違う。灯塔の親父さんなら、もっと丸い字だ」
氷室が首を振った。
「“灯”のつく名前の灯夫は、珍しくない。
灯台の“灯”、灯真の“灯”、灯子の“灯”。……灯喰の“灯”まで入れたらきりがない」
「ぜんぶまとめて一緒にしないでください」
灯子が眉をひそめる。
「とにかく、この手帳の主は、“十年前に灯喰と話した灯夫”である可能性が高い。
そして、おそらく赤懐中灯の元の持ち主でもある」
「続きは、俺が担いでるってことか」
夜人は、橋の上で聞いた男の声を思い出した。
『十年前に決まった続き』
『赤い灯りを渡された側』
(“渡した側”は、この手帳の主……?)
頭の中で、灯りの線と名前の線が、ぐるぐると絡まる。
「……まずは、候補を洗いましょう」
ミナトがペン先を鳴らす。
「十年前、“灯”の字を名に持っていて、赤インクを使っていて、今もどこかの灯区に繋がっていそうな灯夫。
この町の灯に名前を残した人たちから、順に聞いていきます」
*
その日の午後から、灯夫たちは、それぞれの持ち場で“小さな聞き込み”を始めた。
工場街では、灯子が配管図を片手に、古株の技師たちに尋ねる。
「十年前、“赤い懐中灯”持ってる灯夫、いました?」
「いたよ。……あの爆発のときには、もう姿見なくなっちまったけどな」
汚れた帽子のつばをいじりながら、老技師が答える。
「名前は?」
「確か……」
そこで、ちょうど汽笛が鳴り、声がかき消された。
花街の夕暮れには、紅市がお座敷帰りの芸者衆を捕まえて、扇子片手に聞き出していた。
「昔さ、赤い灯りぶら下げて歩いてた灯夫、覚えてねえか」
「いたような、いなかったような……
“赤い灯りは縁起が悪い”って、お姐さん方が避けてた覚えはあるよ」
「それは俺じゃねえのか」
「お前は顔が縁起悪い」
「ひでえ!」
下町の路地では、銀次が古い灯夫長屋を回り、親方の古い仲間たちに頭を下げた。
「赤いインクで帳面書いてた灯夫、心当たりありません?」
「ああ、いた。いたが……」
男は、どこか言いにくそうに目を逸らした。
「あいつの話は、今はあんまりしたくねえな」
港では、澪が潮の横で灯守を握り、帰ってくる船の灯を見かけるたびに、さりげなく尋ねた。
「十年前、港に“赤い灯”を見たって話、覚えてますか」
「おう、あったあった」
漁師のひとりが、笑いながら答える。
「嵐の晩によ。港全部真っ暗なのに、沖の方から赤い灯がすうっと入ってきてな。
あれは“人魂”だって、年寄りが騒いでた」
「ほんとは?」
「あとで聞いたら、灯夫の誰かが灯喰の口追い払ってたって噂だったが……顔は見てねえ」
山の手では、氷室が官庁街の古い記録係と向かい合っていた。
「十年前の点灯夫名簿を見せてほしい。
“灯”のつく者の名前に、赤い印が付いているはずだ」
「公的記録を勝手に……」
「これは町の灯のための調査だ」
氷室の一言で、記録係は渋々鍵を開けた。
分厚い台帳の中に、いくつもの「灯」の字が並んでいる。
灯塔、灯真、灯二郎、灯村、灯石――。
どれも、もう現役ではない名前だったり、故人印が押されていたりする。
*
夜。
番屋に戻った夜人たちは、集めてきた話を持ち寄った。
「“赤いインクと懐中灯”で、候補は五、六人ってところだな」
銀次が、紙を壁に貼りながら言う。
工場組の元灯夫、港と工場をかけ持ちしていた連絡役、山の手に出向していた事務灯夫――。
どの名前にも「灯」の字が含まれていた。
「そのうち二人は、十年前の事故で亡くなってます」
灯子が、指で二つの名を押さえる。
「残りの何人かは、今は現場から退いている人ばかり。
“赤懐中灯”の男が、その誰かの弟子筋か、家族か……」
「あるいは、“本名は別にして”赤い灯だけを引き継いでる可能性もある」
氷室が腕を組む。
「灯台の灯を引き継ぐように」
夜人は、橋で見た懐中灯の揺れ方を思い出していた。
港帰りの灯に似た癖。
それでも、澪の灯とは少し違う。
「……揺れ方、ってわかりますか」
夜人は、ぽつりと口を開いた。
「さっきまで、港で話を聞いてたとき、ふと思ったんですけど」
澪が、こちらを向く。
「赤懐中灯の揺れ方、ですよね」
「はい。港を行き来する船の灯に似てる、って澪さんが言ってましたけど」
夜人は、澪の灯守と自分の行灯を見比べる。
「十年前から港を見てる灯夫の誰か――
例えば、潮さんや源太さんや、もっと前の人たちとは、少し違う気がします」
「どう違う?」
潮が眉を上げる。
「港の灯は、“戻る”ために揺れます。
出て行って、帰ってくる。
でも、赤懐中灯の揺れは、“どこかへ持っていく”揺れ方でした」
澪は、静かに言葉を継いだ。
「港の外へ。
町の外へ。
灯を、まとめて、どこかへ運ぶための揺れ方」
部屋の空気が、少し冷えた気がした。
「……それ、灯喰の口の中行きじゃねえといいがな」
銀次が苦笑まじりに言う。
「“預ける”って言葉、何度聞いても好きになれませんね」
夜人は、父の灯守を胸元で握りしめた。
十年前の手帳の最後の一文が、脳裏をよぎる。
――“口”と話した。次の夜は、子らの代。
その“子ら”の一人に、自分は間違いなく含まれているのだ。
「……まあ、ひとつだけわかったことがある」
親方が、煙管を指先でくるりと回した。
「赤懐中灯の奴は、“全部闇魍側に呑まれた”わけじゃねえ。
言ってたろ、“俺から見りゃ、あの夜から終わってねえだけだ”って」
夜人は頷く。
「あいつはあいつなりに、十年前の真っ暗な工場の夜を、まだ見続けてる。
灯喰に全部渡して楽になりたいって感じじゃ、なかった」
「だからこそ、厄介なんです」
氷室が、静かに言う。
「“完全な闇”より、“半分だけ闇の側に足をかけている灯夫”の方が、厄介だ。
戻すか、落ちるか、どちらにも転ぶ」
夜人は、自分の胸の灯を見下ろした。
灯喰と何度も話した自分も、紙の上ではきっと同じ文字で書かれるのだろう。
――“闇の側と話す灯夫”。
(灯りを嫌いにならない限り、まだ戻れる)
父の灯区帳の一行が、そっと支えるように浮かぶ。
「……あいつを、闇の側に押しつけて終わり、ってのは、嫌ですね」
夜人は、ぽつりとこぼした。
「十年前の続きが、全部灯喰の腹の中に行く、っていうのも」
「じゃあ、追いかけるしかねえな」
銀次が笑う。
「赤い灯の揺れ方覚えたなら、次に揺れたらすぐ掴め。
“お前の続きは、そこじゃねえ”って、叩き込んでやろうぜ」
「簡単に言いますね……」
そう言いながらも、夜人の口元には、少しだけ笑みが浮かんだ。
*
その夜更け。
町の外れの、誰も集まらない小さな橋のたもとで。
ひとつの赤い灯が、かすかに揺れていた。
懐中灯――ではない。
粗末な手提灯のような灯だ。
だが、その揺れ方は、橋の上で夜人たちと向かい合った赤懐中灯とよく似ていた。
『……派手にやってくれたな』
暗がりの中から、灯喰のような声がした。
灯の持ち主は、肩をすくめる。
「全部喰われるよりは、ましだろ」
『君は、まだ半分こちら側に来ないのか』
「全部来たら、あいつらの顔が見えなくなる」
男は、灯を少しだけ高く掲げる。
赤い灯の縁に、細い影が映る。
十年前の手帳を書いた誰かの影かもしれない。
「灯塔夜人は、ややこしい奴だな」
男は、自嘲気味に笑った。
「“預ける相手を選び直す”どころか、“預けない道探す”なんて言い出しやがる」
『君は、どう思う』
「さあな」
男の声が、夜風に溶ける。
「ただ……あいつが灯りを嫌いにならないうちは、
俺も、こっち側に全部倒れきれねえかもな」
赤い灯が、かすかに震えた。
その震えが、下町の片隅に吊るされた小さなガス灯の炎を、遠くでほんの少し揺らした。
灯塔夜人は、眠りながら胸元の灯守を握りしめる。
夢の中で、どこか遠くの赤い灯と、自分の白い灯が、一瞬だけすれ違った気がした。




