第十五話 鍵の灯と赤い懐中灯
橋の上の空気が、ぎゅっと縮んだ。
鍵の灯――橋の中央に立つ大灯柱の火が、細く震えながら下へ垂れ、その根元に立つ影を、逆さまに照らしている。
半纏の肩。帽子のつば。
顔は、灯と闇の境目に沈んで見えない。
ただ、その手に握られた懐中灯だけが、はっきりと赤く光っていた。
血のような赤。
唇を噛んだときに滲む色。
『……鍵の灯、か』
影の口が、かすかに動いた。
声は、たしかに人間のものだった。
だが、その奥底に、あの冷たいもの――灯喰の気配が薄く混ざっている。
『ここに繋げれば、町じゅうの灯りは、一度で動く』
橋板を這っていた黒い線が、五方向へ伸びていく。
下町の橋灯へ。花街の路地灯へ。工場の点検灯へ。山の手の電灯へ。港の浮標灯へ。
(……勝手に、並べさせないって言っただろ)
夜人の胸元で、行灯が熱くなった。
「導灯――!」
影から飛び出す。
足が橋板を蹴った瞬間、胸の灯が棒先へ移る。
白い火が、橋の上を疾った。
「連灯・遮り線!」
棒先で黒い線の前を横一文字に薙ぐ。
白い光が、黒い筋の手前で壁のように立ち上がった。
黒い線と白い壁がぶつかり合い、ぱん、と乾いた音が夜に弾ける。
橋の中央で、黒と白の境目が火花のように揺れた。
影が、初めてこちらを振り向く。
帽子のつばの下。
灯に照らされた頬の一部と、薄い唇。年は、親方たちほどではない。氷室や樫村に近いくらいか。
なにより、その目だ。
どこかで見たような、見ていないような。
十年前の記憶の中で、工場の裏手から走ってきた灯夫の影と、同じ揺れ方をしている目。
「……やっぱり、来ましたね」
夜人は、行灯を握りしめた。
「“十年前の約束の続き”をやりに」
影は、ほんの少しだけ口元を歪める。
「続き、ねえ」
声は低く、掠れている。
「俺から見りゃ、あの夜から、ずっと“終わってねえ”だけだが」
赤い懐中灯が、男の手の中でかすかに揺れた。
その揺れ方が、澪の言っていた“港帰りの灯に似た”癖を持っている。
『――灯夫の中に、“闇の側”と話す者あり』
父の灯区帳の一行が、夜人の頭をよぎる。
(こいつが、“続きの誰か”……)
「夜人!」
橋の影から銀次の声が飛んだ。
「一人で突っ込むな! 鎖張るぞ!」
「わかってます!」
夜人は後ろ手に棒を振る。
橋の両端――下町側と花街側のガス灯から、細い白い糸が立ち上った。
「連灯・鎖火!」
白い鎖が、橋の上にぐるりと輪を描く。
鍵の灯と四方の灯を繋ぎ、影ごと囲う形になる。
男は、その鎖の内側で一歩、こちらへ踏み出した。
赤懐中灯がふっと明るさを増す。
その灯から、黒い霧がじわりと漏れ出した。
「鎖ごと、連れていくさ」
男の声が、灯喰の響きと重なる。
「どうせ、お前らは、全部抱えきれやしねえ」
「抱えきれないからって、口ん中に放り込む気はありません」
夜人は応じる。
「灯塔は、そういうのを“仕事放棄”って呼びます」
「……似てんな、あいつに」
男が、帽子のつばの影で笑った気がした。
「“工場の灯りまで自分で選んだつもり”の顔だ」
「父さんを知ってるんですね」
「知ってるさ。十年前、ボイラーの前で背中を見てた」
赤い灯が、その言葉に合わせて揺れる。
「だから、続きも見に来てやってるんだよ。
あいつが止めちまった“真っ暗な夜”の、続きってやつをな」
男の足元から、影が一段と濃く伸びた。
黒い線が、鎖火の内側でうねり、白い鎖に沿って駆け上がる。
橋の両端の代表灯――花街の灯、工場の灯、山の手の灯、港の灯に向かって、再び手を伸ばそうとする。
そのとき、四方から声が飛んだ。
「ガス圧、制御入れます!」
工場側の高台から、灯子の声。
工場の代表灯の根元で、配管の圧が一瞬だけ絞られる。黒い線がもつれてよろめく。
「電線側、遮断!」
山の手の暗がりから、氷室が杖で電柱を叩いた。
電灯の白い光が、黒い筋を跳ね返す。
「花街の灯りは、そんなに素直じゃないのさ」
屋根の上で、お妙が扇子を翻す。
縫灯と渡り合った路地灯の周りに、目に見えない糸が幾重にも張られ、黒い影を絡め取った。
「港の灯、勝手に引っ張るなよ」
川下の船影から、潮の声。
浮標灯の根元で、錨灯の鎖がぎらりと光り、黒い筋を引きずり落とす。
四方の代表灯が、それぞれの灯夫の手で踏ん張る。
五つの灯が、夜人の鎖火を通してひとつに繋がった。
「……前より、面倒くせえな」
男が、小さく舌打ちした。
「十年前は、もっとガタガタだった。
灯区同士、こんなふうに繋がってなかった」
「十年前から、変えたんですよ」
夜人は鎖火を握り直す。
「父さんが守った灯りの続き、っていうなら――
“繋がってなかったところから、繋ごうとしてる今”も、ちゃんと見てください」
「見てるさ。だから、その“繋ぎ目”が一番もろいのもわかる」
男は懐中灯を自分の胸元へ押し当てた。
赤い灯が、灯守のように心臓の場所で燃える。
次の瞬間、鎖火のど真ん中から、黒い柱が突き上がった。
灯喰の“口”の影が、橋板を突き破って顔を出したのだ。
穴ではない。
まるで、底なしの井戸を立てたような闇。
そこから冷たい風と、誰かの息のようなものが吹き上げてくる。
『……繋がってるね』
灯喰の声が、橋の下からも、川面からも、空からも、一斉に聞こえた。
『君たちの灯りは、前よりずっと、きれいに繋がっている』
「褒められても嬉しくないですね」
夜人は歯を食いしばる。
鎖火が、黒い柱に絡め取られそうになる。
白い線が、ひとつ、またひとつ、軋む音を立てた。
「夜人!」
背後から、銀次の叫び。
「細かく切れ! でかいままじゃ、根こそぎ持ってかれる!」
「わかってます!」
夜人は鎖を握る意識を、一度ばらばらにほどいた。
鎖火の輪が、一気に細いリングに分裂する。
一本の大きな輪だったものが、橋板の上で、灯と灯の間に散らばる小さな輪へと変わる。
「導灯・小環・散火!」
小さな輪が、それぞれ黒い線を切り裂き、灯の根元に張り付いた。
灯喰の黒い柱が、思うように伸びない。
『……面倒だね』
灯喰の声が、僅かに不機嫌になる。
『ひとつの口で、一度に飲み込める量が減る』
「そういう面倒くさいことを、毎晩やっているのが点灯夫です」
夜人は、息を切らしながら笑った。
「一本ずつ、一本ずつ、灯りを見て回るんです。
“ひと口で全部飲み込めない”ように」
「だから、それがもたねえんだよ」
赤懐中灯の男が、低く言った。
「全部見ようとして、誰も間に合わなかったのが、十年前だ」
黒い柱の影が、男の足元から伸びている。
灯喰と男は、完全に一体ではない。だが、互いに互いを通して町を見ている。
「だから今度は、“口の方から”範囲決めてやろうってわけか?」
橋の影から、潮の声が飛ぶ。
「灯喰に“安全な喰い方”教えて、そいつ通りに喰わせてやるってか」
「安全って言葉が、いちばん似合わねえですよそれ」
夜人は男を睨む。
「灯りを預けて楽になる道は、父さんがもう選びました。
その続きで、灯夫がやることは――」
棒先の白い火が、一瞬だけ強く揺れた。
「“預ける相手を選び直す”ことじゃなくて、“預けずに済ませるやり方”探すことです」
「綺麗事だな」
男の肩が、わずかに震える。
「俺たちは、十年前、“預けなかった結果”も見た。
あの真っ暗な工場で死んだ職工たちの顔を、お前は知らねえだろう」
「わかりません。
でも、“知らないから渡す”じゃなくて、“知らないからこそ見に行く”のが点灯夫だって――」
そこまで言った瞬間、黒い柱がぐん、と太った。
灯喰の“口”が、さらに開く。
『話す声が、よく聞こえる』
灯喰の声が、橋板の下から這い上がってくる。
『君たちは相変わらず、灯りについて、よく喋る。
十年前も今も、変わらない』
「うるさいです」
夜人は、橋板に棒を叩きつけた。
「導灯・連灯――鎖火・昇り!」
散らしていた小さな輪を、今度は逆に、柱の周りに集める。
五つの代表灯から伸びる白い線が、黒い柱を絡め取るように駆け上がる。
白い鎖が、闇の柱に巻きつく。
五箇所から引っ張られる形だ。
『……っ』
灯喰の声が、初めてわずかに詰まった。
黒い柱が、ぎしぎしと音を立ててひび割れていく。
「灯塔!」
遠くの高台から、灯子の声。
「今、ガスの流れはこちらで押さえてます!
その“柱”ごと、橋の外へ追い出せますか!」
「やってみます!」
夜人は、鎖の引く力の向きを変えた。
五つの灯が、同じ方向――川下側を向くように。
潮と澪のいる方へ。
「潮さん!」
「言われずとも!」
川下の船影から、潮の錨灯が一閃した。
橋の下から伸びた鎖が、黒い柱の中腹を横からぶった斬る。
港の灯の力を借りた一撃だ。
黒い柱が、ずるりと川下側へ傾いた。
『……っ……っ』
灯喰の声が、水音に紛れて遠のいていく。
川面へ倒れ込んだ黒い影は、潮の鎖火と澪の羅針盤灯守に絡め取られ、そのまま川の流れへ押し流された。
橋の上の空気から、少しだけ冷気が抜ける。
「……やった、のか」
銀次が息を吐いた。
だが、まだ終わっていない。
鎖火の輪の内側に、赤懐中灯の男が、ひとり残っていた。
彼の足元を這っていた黒い影はだいぶ薄くなっている。
灯喰との“線”は断たれたのだろう。
それでも、男の胸元の懐中灯は、まだ赤く灯っていた。
「……十年前も、こうやって、無理やり口を横に逸らした」
男がぽつりと言う。
「町じゅうが飲まれる代わりに、工場の灯だけ預ける形でな」
「父さんが、選んだやり方です」
「それでも、誰も感謝しなかった」
男の声が、少しだけ低くなった。
「工場の職工たちは死んだ。遺族は補償も満足にもらえなかった。
町の連中は、“よく戻った”って笑って、真っ暗だった工場街のことなんか忘れた」
夜人は、言葉を失う。
十年前の灯を見たとき、自分も胸の奥に重さを感じた。
工場の灯が犠牲になったことで救われた町。その町の灯の下で、何を見てきたのか。
「だから、あの夜、“もう一人の灯夫”は、灯喰に言った」
男は懐中灯を握りしめた。
「“次の夜は、俺たちの条件でやらせろ”ってな」
「……お前が、その“もう一人”の続きってことですか」
「さあな」
男は、曖昧に笑う。
「俺はただ、赤い灯りを渡された側さ。
“十年前に決まった続き”を、燃やし終わるまで見届けろってな」
「誰に、渡されたんです」
夜人の問いには答えず、男は赤懐中灯を夜人の方へ掲げてみせた。
灯の中に、一瞬だけ別の男の影が映る。
髭の濃い横顔。工場の制服。父と同じ時代の灯夫の姿のように見えたが、すぐに揺らいで消えた。
「灯塔」
男が、正面から夜人を見た。
帽子のつばの下、その目がはっきりと灯に照らされる。
「お前は、どっちの続き見たい」
「どっち、って」
「工場で終わった灯の続きか。
町じゅうを一度真っ暗にして、全部まとめて預け直したあとの灯の続きか」
夜人は、即座に答えようとして――喉が詰まった。
どちらも“見たい”と言えば嘘になる。
どちらも“見たくない”と言ってしまえば、灯夫失格だと思った。
「……どっちの続きも、勝手に決めさせません」
かろうじて絞り出した言葉だった。
「灯喰にも、十年前の誰かにも。
“続きの灯”は、今灯の下にいる人たちが決めるべきです」
男の口元が、ふっと歪む。
「そう言うと思ったよ」
その瞬間、橋の下から、川霧が一気に吹き上がった。
黒ではない。普通の、白い霧だ。
だが、その中に、さっき流した灯喰の名残が、糸くずみたいに絡んでいる。
霧が、鎖火の輪を擦るように膨らむ。
「夜人、鎖が――!」
銀次の叫びと同時に、白い鎖が何本か霧に呑まれた。
そのわずかな隙間から、男の影がふっと後ろへ下がる。
「待て!」
夜人が飛び込もうとした瞬間、男は赤懐中灯を橋板に叩きつけた。
ガラスが割れ、赤い火が飛び散る。
その火が霧と混ざり合い、小さな渦になった。
「十年前の約束は――」
霧の向こうから、男の声がした。
「まだ果たしてねえ」
次の瞬間、影も声も、霧の中に溶けて消えた。
残されたのは、橋板の上に転がる、割れた懐中灯の外枠だけ。
夜人は、膝をついて、それを拾い上げた。
中の灯守は砕けている。
ただ、金属の枠の内側に、小さな刻印が残っていた。
――灯。
苗字の最初か、最後の一文字か。判別のつかない、「灯」の字だけ。
「……灯夫であることは、間違いねえってことか」
息を切らしながら、銀次が肩に棒を担ぎ直す。
「十年前から続く“灯夫の灯”だ」
橋の上に、五つの代表灯の光が戻りつつあった。
遠くで、工場の汽笛がひとつ鳴る。
港の灯が、波に合わせて瞬き、花街の路地から笑い声がかすかに届く。
夜人は、割れた懐中灯の枠を胸元の行灯と並べて握りしめた。
「……灯塔。灯夫。灯喰」
同じ「灯」の字を持ちながら、まったく違う意味を抱えた三つの存在。
その真ん中に、自分が立っていることを、否応なく思い知らされる。
橋の下を流れる水の音が、いつもより少しだけ重く聞こえた。




