第十四話 影を釣る灯《あかり》
朝一番の灯道局は、珍しく人が多かった。
会議室の長机の上には、昨日守り抜いた灯塔家の灯区帳と、倉で縫い止めた記録喰いの黒い砂、それから粗末な地図が一枚広げられている。
「――十年前の大停電の前の晩。
工場、花街、山の手、港、橋。順番は今と同じ。そこまではいい」
親方が、地図の上に指を走らせる。
「問題は、そのあとだ。工場が爆ぜた夜、灯塔は“もう一人”の灯夫と灯喰の間に何かを見ていた」
夜人は、父の灯守を握りしめていた掌をそっと開いた。
昨夜見た光景――工場の裏手から走ってきた灯夫の影。
「約束なんざしてねえ」と叫びながら、最後には首を縦に振った誰か。
「顔は見えませんでした。半纏と灯守の影だけです。
でも、懐中灯の揺れ方は……今もどこかで見ている気がします」
「“十年前の灯夫”で、今も現役なのは限られてますよ」
霧島灯子が、冷静に言う。
「うちの工場組なら、樫村さんと六郎さんは当時からいました。
下町なら親方。花街と港と山の手は――」
「疑い出したらきりがないねえ」
花街灯夫組のお妙が、扇子で口元を隠した。
「うちの紅市なんか、怪しい顔なら毎晩してるし」
「してねえよ」
壁際で腕を組んでいた緒方紅市が、むっと顔をしかめる。
「冗談はさておき」
氷室灯真が、机の端に手をつく。
「“十年前の灯夫”と“今の誰か”が同一人物とも限らない。
灯喰が約束したのは、“君たちの子らの代”だ。十年の間に灯夫は入れ替わっている」
「十年前に闇と話した灯夫が、そのまま“今”も動いてるとは限らない。
ただ、“その続き”を誰かに渡してる可能性もある」
港灯夫組の早瀬潮が、錨灯の柄を軽く叩いた。
「どっちにせよ、“約束の続き”をやろうとしてる奴が、昨夜倉を狙った。
そいつを釣り出さねえと、また灯喰に先手を取られる」
「……釣る、ですか」
夜人は、地図を見下ろした。
赤い印と青い印が、十年前と今の異常灯火の並びを示している。
最後は、いつも町の真ん中――中央広場の大ガス灯に集まる。
「餌になる灯を、こっちで用意してやりゃいい」
親方の声が低く響いた。
「工場、花街、山の手、港、下町。
それぞれの灯区の“代表”みてえな灯を、一本ずつ選ぶ。
そいつらを全部繋げて“これが町じゅうの灯りの鍵だ”って噂を流す」
「鍵……」
宵坂ミナトが、すかさず手帳を開いた。
「“新しい時代の象徴となる五灯の鍵”……見出しとしてはわかりやすいですね」
「おい、ほんとに新聞に載せる気か」
銀次が呆れ顔になる。
「表向きは、“記念点灯式”でも何でもいい。
実際には、中身を空っぽにしておく」
灯子の目が鋭く光る。
「配管は全部、こちらで制御できるように偽装します。
“鍵の灯りをいじれば町じゅうの灯りを動かせる”と信じさせるのが目的です」
「灯喰の“影”側は、きっと喰いついてくるわ」
お妙が楽しげに笑う。
「“全部並べて楽に喰わせてやる”って囁いてくるんでしょうね。人の弱いところを」
「囮の灯か」
氷室が短く頷く。
「悪くない。だが、仕掛ける場所は慎重に選ぶべきだ。
町の真ん中――中央広場は、前回の“顔合わせ”の場だ。次は、もう少し外した方がいい」
「外して、なお目立つ場所、ね」
綾小路桂が、地図の端を指でなぞる。
「……川の上、なんてどうでしょう」
その一言に、夜人と潮と澪が同時に顔を上げた。
川沿いの橋は、すでに朽火との戦いの舞台になった。
あの“連灯・鎖火”が通った場所。
「橋の真ん中に、臨時の大灯りを建てる。
“五灯の鍵”の中心に見せかけるには、悪くないわ」
綾小路が、クスリと笑う。
「上の連中も、“観光になる”って二つ返事でしょうし」
「……観光にしては、物騒すぎますけど」
夜人は、橋の上で鎖のように繋いだ灯りを思い出した。
とはいえ、確かに目立つ。
川を挟めば、港にも下町にも工場にも近い。
「よし」
親方が、机を軽く拳で叩いた。
「決める。
橋の真ん中に“鍵の灯”を一本建てる。
その周りに、各灯区の代表灯を繋ぐ。」
「下町の代表は、あの橋のガス灯でいいな?」
銀次が夜人の肩を小突く。
「“銀夜連灯”の一撃を打ち込んだ、縁起ものだ」
「名前勝手に増やさないでくださいって」
そう言いながらも、夜人は少しだけ笑った。
「花街からは?」
「うちの細い路地の、あの“つり橋小路”の灯だねえ」
紅市が顎を掻く。
「縫灯に糸を絡まれてたやつ。今はきちんとほどいてある」
「工場は、ボイラー前の点検灯。
山の手は、官庁街の旧ガス灯跡の電灯。
港は、灯台の手前の浮標灯」
灯子、氷室、潮がそれぞれ名乗りを上げる。
五つの灯が、頭の中で一つの輪を描いた。
夜人の五灯環――あの夜の光景が蘇る。
(今度は……“本当に囮として”繋ぐ)
「日取りは?」
ミナトが、すでにメモを走らせている。
「派手にやるなら、新月の夜がいい」
澪がぽつりと言った。
「月の灯りがない方が、“鍵の灯”はよく目立ちます」
「じゃあ逆に、こっちは隠れ場所に困るけどな」
銀次が頭をかく。
「闇の中で光ってるもん守るのが、仕事でしょう?」
澪の目が、少しだけ笑った。
*
準備は、思った以上の速さで進んだ。
橋の中央に仮設の灯柱を立てる工事は、表向きには「新型ガス灯の試験」として行われた。
ミナトの新聞も、「川沿い観光の目玉に」と景気のいい言葉で飾り立てる。
下町の子どもたちは、昼間の工事現場の周りで騒ぎ回り、花街の芸者衆は「夜見物に行こうか」と噂した。
誰も、この灯が“闇を釣る餌”だとは思わない。
「橋の下の流れ、変わってきてる」
潮が、工事現場の脇から水面を覗き込んだ。
「鎖童子の残り火は、今のところ大人しいが……
鍵の灯が立てば、あいつも顔を出すかもしれねえ」
「港側は任せます」
夜人は、橋の欄干に手をかけ、自分の足元の石畳を見下ろした。
朽火との戦いで刻まれた焦げ跡が、まだうっすらと残っている。
そこに、細い白い線が一本だけ、うすく見えた気がした。
自分の技の残り香。
「緊張、してます?」
横から銀次が覗き込む。
「してますよ、そりゃ」
「だよなあ。
“灯夫の中に闇の側と話す奴がいる。その誰かが今夜この灯を狙って来るかもしれない”って話だもんな」
銀次は、いつもの調子で笑いながらも、目の奥は冗談ではなかった。
「……もし、“そいつ”が、俺たちの知ってる顔だったら?」
夜人は、言葉を選びながら口にした。
「十年前の続きとして、灯喰と取引をした誰かだったら――」
「殴る」
銀次は即答した。
「まずは殴る。次に、話を聞く。
そのあとで、もう一回殴る」
「順番おかしくないですか」
「話聞く前に一発入れといた方が、余計なこと言われずに済むだろ」
くだらないやり取りに、自分でも少し救われる。
夕刻。
工事は一応の完成を見た。
橋の中央に、他の三倍はあろうかという大きさの灯柱が立つ。
その周囲には、各灯区の代表灯と繋ぐための配管が、目立たないように埋め込まれていた。
「どう見ても、“狙ってください”って顔してる灯ですよねえ」
お妙が欄干にもたれながら笑う。
「ここまでやれば、さすがの灯喰の子分も寄ってくるでしょう」
「……“子分”って呼ぶと、なんか急に安っぽく聞こえますね」
夜人は、胸元の行灯をそっと握る。
空には、薄い雲がかかっていた。
今夜は、月が出ない。
新月。
灯の価値が、一番際立つ夜だ。
*
夜更け。
橋の両端は、一見いつも通りだった。
行き交う人影こそ少ないものの、下町側には屋台の灯、花街側には三味線の音が薄く流れてくる。
ただ、橋の上だけが、不自然に静かだった。
大灯柱の周囲に、人影はない。
だが、離れた場所から複数の視線が注がれていた。
橋のたもとの影に、夜人と銀次。
川下側の船影に、潮と澪。
花街側の屋根の上に、紅市とお妙。
山の手側の暗がりには、氷室と斎藤清次。
工場街の高台からは、灯子と樫村がガスの流れを見張っている。
各灯夫組が、それぞれの灯守を胸元に、息を潜めていた。
「……来ない、ですかね」
橋の影で、夜人が呟く。
「“来る前提”で待ってると、来ねえのが筋ってもんだが」
銀次が肩を竦める。
「でもまあ、来なくても、それはそれで――」
言いかけたときだった。
橋の中央の大灯柱の火が、ふっと細くなった。
風はない。
ガスの圧も安定しているはずだ。
大灯の火が、揺れている。
「……来た」
夜人の行灯が、胸元でちり、と鳴いた。
大灯の火の根元から、黒い影がするすると伸びる。
灯喰の“口”の影――ではない。
それは、人の影だった。
灯柱の根元に、いつの間にかひとり、立っている人影。
半纏の肩、帽子の影。
顔は、火の下でちょうど見えない。
その手には、赤い懐中灯が握られていた。
澪が飲み込むように息を呑む気配が、遠くから伝わってくる。
「……あの歩き方」
夜人の背筋に、昨夜の記憶が蘇る。
倉の石段の下で見た、“灯と闇に引きずられるような足取り”。
人影は、ゆっくりと大灯柱の根元に膝をついた。
赤い懐中灯の灯りが、灯柱の足元をなぞる。
大灯の火が、それに応じるように、細く長く、下へ垂れ始めた。
――逆さまの灯。
中央広場で見た、灯喰の影の前兆と同じ揺れ方だ。
『……鍵の灯、か』
人影の口が、かすかに動いた。
声は、人間のものだった。
だが、その響きの奥には、灯喰の冷たい気配が微かに混じっている。
『ここに繋げれば、町じゅうの灯りは、一度で動く』
夜人の足が、無意識に一歩前に出た。
その瞬間、隣から銀次の手が肩を押さえる。
「まだだ」
低い声。
「あいつが何を“繋ごう”としてるか、もう少し見ろ」
大灯から伸びる影が、橋の上を這い始めた。
下町側の橋灯へ。
花街側の細い灯へ。
工場街の点検灯へ。
山の手の電灯へ。
港の浮標灯へ。
黒い線が、五つの代表灯を結ぼうとする。
夜人の胸元の行灯が、熱くなった。
父の灯守も、番屋のどこかで、きっと同じように鳴っている。
(……勝手に並べさせないって、言ったんだ)
夜人は、口の中で呟いた。
橋の上の影が、一本の輪になろうとした瞬間――
「導灯!」
夜人は、影から飛び出した。
棒先に移した白い火が、橋板を走る黒い線の前に割り込む。
影と光が、橋の上で火花のように弾けた。
人影が、初めてこちらを振り向く。
帽子のつばの下、闇に沈んだ顔。
その目だけが、一瞬だけ大灯の火に照らされた。
夜人は、その目を見た。
懐かしいような、知らないような。
十年前の記憶の中で、工場の裏手から走ってきた灯夫の影と、同じ揺れ方をしている目。
「……やっぱり、来ましたね」
夜人は、行灯を握りしめた。
「“十年前の約束の続き”をやりに」
影は、ほんのわずかだけ口元を歪めた。
灯喰の気配が、夜の川面から、橋の下から、じわりと立ち上がってくる。
鍵の灯を巡る、最初の一手が、今、切られた。




