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第十三話 十年前の灯



 灯塔とうとう夜人やひとは、番屋の奥座敷でひとり、父の灯守とうもりを両手で包んでいた。


 市灯道局しとうどうきょくの地下倉での騒ぎから、まだ一晩も経っていない。

 記録喰いのさそりを縫い止めたとき、父の灯はたしかに赤く灯った。


 今はもう、すすけた木枠と焦げた紙障子だけの、壊れかけの行灯あんどんだ。

 それでも、指先に触れるたび、何かが奥の方でちり、と鳴る気がする。


(……もう一度、見せてくれますか)


 心の中で、誰にともなく問いかける。


 十年前の夜。

 父が灯喰ともしくいと向かい合い、何を見て、何を選んだのか。


 白い自分の灯を胸元に、赤く煤けた父の灯を両手に。

 ふたつの灯守が、近づいた瞬間――


 視界が裏返った。


     *


 ――熱い。


 顔を撫でる風が、焼けた鉄の匂いを運んでくる。

 鼻の奥に、油とガスと焦げた木の混ざり合う臭いが刺さった。


 夜人は、自分の足が勝手に走っているのを感じた。


 石畳の感触も、草履の鼻緒が指に食い込む痛みも、生々しい。

 だが、これは自分の体ではない。


 揺れる視界の端、胸元でひとつの行灯が跳ねている。

 今の自分の豆灯守よりひと回り大きい、職人用の灯守。


 木枠の裏には、まだ煤けていない刻印がある。


 ――灯塔。


(父さん……)


 夜人は、息を呑んだつもりだった。

 けれど、この体の持ち主は息を乱さない。ただ前だけを見て走っている。


「灯塔! そっちは圧が抜けてる! 奥のバルブから先だ!」


 背後から、若い親方の声が飛んだ。


 顔を振り向けない。

 代わりに、工場の配管の上に立つ男の姿が、視界の端で一瞬だけ揺れた。今より髪も黒く、背筋もまっすぐだ。


「こっちは任せろ! お前は外回りを押さえとけ!」


 そう叫んだのは、自分の喉だった。

 父の声だ。抑えた怒鳴り声の奥に、かすかな笑いが混じる。


「おう、死ぬなよ灯塔!」


 親方の声が遠ざかる。


 目の前には、工場街こうじょうがいの心臓――巨大なボイラー棟が口を開けていた。

 煙突からは、いつものように煤煙ばいえんが上がっている。だが、足元のガス灯が一本、二本と不穏な揺れ方をしていた。


 炎が、細くなったり太くなったり。

 火屋ほやの中で、何かが灯を引っ張っている。


「……間に合えよ」


 父は、胸元の行灯を軽く握った。


 木枠の内側で、芯がひとつ、白く光る。

 今の自分が使っている灯りと似ている。ただ、こちらの火は少し赤みを帯びていた。


導灯どうとう一閃いっせん!」


 点灯棒の先に火を移し、工場前の通りへ振り下ろす。


 白と赤の入り混じった光が一本の線になり、ガス灯とガス灯の間を駆けた。

 揺れていた炎が、すっと落ち着く。


 だが、その先――ボイラー棟の影の中から、黒い“穴”のようなものが顔を出していた。


 夜人は思わず、父の体越しに息を呑んだ。


 灯喰の“口”だった。


 十年前のそれは、中央広場で見た影よりも、はっきりと——そして小さかった。


 工場の壁に開いた煤だまりのような穴。

 そこから、糸のような黒い線がいくつも伸びて、ガス管や灯の芯に絡んでいる。


『……まだ、半分』


 口の中から、かすれた声がした。


『この町の灯りは、まだ半分しか燃えていない』


 父は、ボイラー棟の前で足を止めた。

 汗が額を伝っている。けれど、その目は冷静だった。


「半分で腹いっぱいになって帰ってくれりゃ、ありがたいんだがな」


『君は、灯塔とうとうだね』


 黒い穴の縁に、目のようなものがぬらりと浮かぶ。


『“灯りの塔”と書いて灯塔。良い名前だ。

 灯りが燃え尽きるところまで見届ける役だろう?』


「勝手に仕事決めないでくれませんかね」


 父は笑った。

 夜人は、その笑い方に、どこか自分を見た気がした。


「灯りは、人の足元照らすためにある。飲み込まれるために積んでる塔じゃねえ」


『でも、灯りは消える』


 穴の奥から、くぐもった声がいくつも重なって聞こえてきた。


『工場の灯も、橋の灯も、港の灯も、山の手の白い灯も。

 消えた灯りは、全部、どこかへ行かなきゃいけない』


「だからって、お前の腹に全部入れる筋合いはねえだろ」


 父は、工場の扉に背中でぶつかるように立った。


 ボイラー室の中から、金属の唸りが聞こえる。

 圧が上がりすぎている。あと少しで、何かがはじけ飛ぶ。


『十年前、ここでひとつ、賭けをしようとした灯夫がいた』


 穴の縁に、別の影が滲む。


『工場の灯りと、自分の灯り全部を私に預ける代わりに、町じゅうの灯りを一度だけ見逃せ、って』


「……そいつが、今、俺の目の前にいますか」


『さあ?』


 灯喰の声が、くぐもった笑いを含んだ。


『工場の灯りには、ずいぶんと美味しそうな記録がこびりついている。

 汗と、怒りと、諦めと、やりきれなさ。

 君も、毎晩それを見てきたはずだ』


 父は、背中で扉を押した。


 熱気が一気に吹き出す。

 ボイラー室の中は、すでに人が入っていられない温度だった。


 夜人は、ここに誰がいるのか知りたかった。

 十年前の親方か、別の灯夫か。


 だが、この視界の持ち主は振り返らない。

 ただ、前を見ている。


「……そうですね」


 父の声が低くなる。


「工場で、灯りを欲しがる顔は、何度も見てきました。

 帰り道の灯を必要としながら、その灯を維持するための金は出してもらえない人たちの顔も」


『だから、全部預けてしまえばいい』


 穴の中から、黒い舌のようなものが伸びた。


『灯りも、願いも、怒りも、諦めも。

 私の中にしまっておけば、誰ももう、知らなくて済む』


「……俺は、全部知られなくなるのは嫌ですね」


 父は、ふっと笑う。


「せめて、“見ていた”ってことぐらいは、誰かが覚えていてほしい」


『誰が?』


「たとえば、灯塔夜人とか」


 夜人の心臓が止まりかけた。


 父は、ほんの少しだけ空を見上げる。


「俺が全部預けて楽になる代わりに、あいつが全部背負うのは、ちょっと無茶だと思うんですよ」


『なら、どうする』


 灯喰の口が、少しだけ大きく開いた。


『工場の灯りを差し出せば、町じゅうの灯りは一度だけ見逃してやる。

 それが“取引”だ』


「取引って言葉、好きじゃないんですよね」


 父は、胸元の行灯を握りしめた。


 灯守の芯が、今までで一番強く燃え上がる。


「だけどまあ、正味の話――」


 父は、ボイラー室の方へ視線を戻した。


「このままでも、ここは爆ぜます。

 お前が口開けてようが開けてまいが、工場の灯りは一度全部消える」


『…………』


「だったら、その消え方を決めるぐらいは、灯夫の仕事でしょう」


 父は、行灯の灯を点灯棒に移した。


 赤い火が、鉄の皿の上で踊る。


導灯どうとう連灯れんとう――三灯弧さんとうこ!」


 棒先から、三本の光の弧が走った。


 工場街の端に立つ三本の灯柱。

 普段なら別々の路地を照らすそれが、赤い弧で結ばれる。


 弧が、ボイラー棟を囲む輪になった。


『……何をするつもりだい』


 灯喰の声の温度が変わる。


「爆ぜ方を、選ぶんですよ」


 父は、一歩、ボイラー室の中へ足を踏み入れた。


 強烈な熱が、視界を白く染める。

 それでも足は止まらない。


「工場の灯りは、全部お前の口に入る。

 けど、その代わり――」


 父は、灯喰の“口”を見た。


「この町じゅうの灯りには、二度と“工場の爆発を最初に喰った闇”の味を覚えさせない」


『条件を変えるな』


「変えますよ。灯夫は、灯りの“味方”ですから」


 父は引き戸の取っ手を掴んだ。


 その瞬間、背後から別の気配が走った。


 誰かが、工場の裏手から駆け寄ってくる。


「灯塔! 待て!」


 親方の声――ではない。

 若い男の声。聞き覚えのない声だ。


 視界の端に、半纏の裾が揺れる。

 灯夫だ。胸元に光る灯守の形までは見えない。


『ああ、来たね』


 灯喰の声が、少し楽しげになった。


『君か。約束をしに来たのは』


「約束なんざ、してねえ!」


 その男は叫んだ。


「ただ……ただ、町じゅうが真っ暗になるのだけは、ごめんだって――!」


 言葉の続きは、ボイラーの唸りにかき消された。


 父は振り返らない。ただ、短く言う。


「なら、その灯りを、ちゃんと見ててくださいよ」


 扉の向こうから、白い光が漏れ始めていた。

 蒸気とガスと火花の混じり合う音がする。


 父は、扉の隙間に点灯棒を差し入れた。


 赤い灯が、中へ吸い込まれる。


『……灯塔』


 灯喰の声が、ぐっと近づいた。


『君は、自分ひとり分の灯りと工場の灯りを、全部預けるつもりか』


「預けるんじゃないですよ」


 父の声は、なぜか穏やかだった。


「渡すんです。

 あいつ――灯塔夜人が、“嫌いにならないで済む灯りの形”に」


 夜人の胸が熱くなる。


(そんな勝手な、って言いたいのに)


 言葉にならない。

 これは、十年前にもう終わった夜の一コマだ。


『なら、次は――』


 灯喰の声が、耳の奥に直接響いた。


『その灯りの続きが、君の子の代で燃えるのを、見せてもらおう』


 ボイラー室の中で、何かが弾ける音がした。


 父は、最後に一度だけ、工場の外の灯りを振り返る。


 遠くで、下町の橋の灯が揺れている。

 花街の灯が、まだ人の影を映している。

 港の灯が、波に揺られながら戻ってくる船の道を示している。


 そして、どこかの路地裏で、別の灯夫が、灯喰の気配と向かい合っている。


 顔は見えない。

 ただ、その影が、わずかに首を縦に振ったように見えた。


『次の夜は――』


 灯喰の声が、煙と一緒にのしかかってくる。


『君たちの子らの代にしよう』


 そこから先は、音も光も、全部、白い閃光に飲まれた。


     *


 夜人は、畳の上で飛び起きた。


 息が上がっている。額には汗。

 父の灯守は、手の中でひびだらけの木枠をじっと冷たくしているだけだった。


「……父さん」


 声がかすれる。


 番屋の外では、まだ誰かが夜番をしている気配があった。

 だが、この部屋だけが切り取られたように静かだ。


 胸元の自分の灯守が、ちり、と小さく鳴いた。


 白い芯が、かすかに揺れる。


「十年前、あのとき、“もう一人”いた」


 夜人は、自分に言い聞かせるように呟いた。


「工場の裏手から走ってきた灯夫。

 灯喰と“約束なんざしてねえ”って叫んでたのに、最後には首を縦に振っていた奴」


 顔は見えない。

 背格好も、半纏の柄も、煙と光に紛れていた。


 ただ、その懐中灯の揺れ方だけは、どこかで見たことがある気がした。


(十年前の灯夫……その続きの誰か……)


 父は、自分の灯りと工場の灯りを引き換えに、町じゅうの大停電を一度だけ止めた。


 灯喰は、“次の夜”をそのときに約束された。


 それが、今。


 今の夜人の代だ。


「……勝手に決めないでくれよ、本当に」


 夜人は、天井を見上げて苦笑した。


「勝手に約束して、勝手に続き渡して。

 そのくせ、“灯りを嫌いになるな”なんて、ずるいですよ」


 けれど、胸の奥では、少しだけ違う感情も芽生えていた。


 父が最後に見ていた灯りの景色。

 工場の炎の向こうで、点々と揺れていた町じゅうの灯。


 それを“綺麗だ”と思ってしまった自分を、夜人は誤魔化せない。


 畳の上に座ったまま、夜人はそっと目を閉じた。


 十年前のボイラー室の轟音と、灯喰の冷たい声と、父の笑い声が、まだ耳に残っている。


「……灯りを嫌いには、やっぱりなれません」


 ぽつりと漏れた言葉が、畳に染み込んでいく。


 その夜の終わり際、番屋の外で親方が立ち止まり、ほんのわずかだけ襖の隙間から中を覗いた。


 父の灯守と、息子の灯守を並べて握っている夜人の姿を見て、親方は小さく鼻を鳴らす。


「見たか、灯塔」


 誰にともなく呟く。


「続きは、ちゃんとこいつが見てるぞ。

 だから、お前が変な約束しやがった相手も、いつかまとめて叩き起こしてやる」


 遠くで、工場の夜汽笛が短く鳴った。


 十年前の夜から続く灯りの筋が、またひとつ、今夜の空に細く伸びていく気がした。

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