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第十二話 帳《ちょう》を狙う灯



 よくる日の夕刻、市灯道局しとうどうきょくの一室には、妙な重さが漂っていた。


 壁一面の地図の前。

 長机の上には、すすけた一冊の灯区帳とうくちょうと、昨夜焼け損ねた紙片の灰が、茶碗皿に集めて置かれている。


「……これが、灯塔とうとうの親父さんの最後の帳か」


 霧島きりしま灯子とうこが、眼鏡の端を指で押さえながら帳面を覗き込む。

 隣で、氷室ひむろ灯真とうまが腕を組んで立っていた。


 夜人やひとは、机の端にいる自分の手が少し汗ばんでいるのを感じていた。


 工場灯夫組こうじょうとうふぐみ花街灯夫組はなまちとうふぐみ、山の手灯夫組やまのてとうふぐみ港灯夫組みなととうふぐみ――各組から一人ずつ、選りすぐりだけが集まっている。


 下町灯夫組したまちとうふぐみからは、親方と夜人と三上みかみ銀次ぎんじ


「十年前の大停電の前夜、工場、花街、山の手、港、橋……」


 灯子がページをめくるたび、赤い丸印が目に入る。


「並びが、今の異常灯火と同じですね。順番も、ほとんどぴたりです」


「“並べている奴”がいるってこった」


 港灯夫組の早瀬はやせうしおが、椅子の背にもたれながらぼやく。


「十年前も、今も。灯りの乱れを一つひとつ辿って、最後に町の真ん中へ連れて来る」


「問題は、その“並べている奴”が、闇魍やみもうそのものか、人間か、ってところね」


 花街灯夫組のおたえが、扇子で口元を隠しながら言った。


「灯塔さんの親父さんは、“灯夫の中に闇の側と話す者あり”と書き残した」


 氷室が灯区帳の端の一行を指先でなぞる。


「十年前の灯夫の誰かか、それとも今の誰かか。――いずれにせよ、記録そのものを喰おうとした闇魍“記録喰い”が、灯塔家を襲ったのは事実だ」


 夜人の肩が、わずかにこわばった。


 昨夜の紙片のざわめき――「記録」「並び」「約束」。

 あれは確かに、灯区帳と父の灯守とうもりを狙っていた。


「帳面は、ここで預かる」


 親方が短く言った。


「灯塔ん家に置いときゃ、またああいうのが来る。灯道局の倉で鍵かけて保管だ」


「鍵だけで足りますか?」


 港の汐見しおみみおが、静かに問う。


「“闇の側と話す灯夫”がいるなら、倉の鍵ぐらい、どうにでもできます」


 空気が少し、冷たくなった。


 氷室が、わずかに目を細める。


「だからこそ、ここにいる顔ぶれだけで共有する。

 上層の役人にも、市の技師にも、この帳面の存在は伏せておく」


「灯夫同士は、信じる前提で?」


 潮がニヤリと笑う。


「だったら話は楽なんだけどな」


 銀次が、横からぼそっと突っ込んだ。


「“闇の側と話した”って意味だけならよ、今ここにいる中で、すでに一人いるけどな」


 視線が、わずかに夜人に集まる。


 夜人はごくりと唾を飲み込んだ。


「……灯喰ともしくいと、三回目、です」


 自分でも驚くほどはっきりと言えた。


「橋の上、中央広場、あと、この間、三ノ丁の角の灯の中で。一方的に話しかけてきただけですけど」


「“一方的”ねえ」


 綾小路あやのこうじかつらが、どこか面白そうに笑う。


「向こうは、おそらく“会話しているつもり”ですよ。灯塔家の坊ちゃんと、十年越しの雑談を」


「向こうから話しかけてきても、こっちが乗らなきゃ会話にはならねえ」


 銀次が、わざとらしく肩をすくめる。


「夜人は、“全部喰わせる気はねえ”ってちゃんと言ったんだろ」


 夜人は、昨夜の自分の言葉を思い返した。


 ――灯を嫌いにならない限りは。

 ――勝手に並べて喰わせたりなんか、しません。


 氷室が、視線を夜人から帳面へ戻す。


「闇魍と接触した点灯夫は危険だ。だが、“灯りを見ている限り、まだ戻れる”」


 氷室は、最後の一行を読み上げた。


 ――灯夫の中に、“闇の側”と話す者あり。

   だが、灯りを見ている限り、まだ戻れる。


「灯塔は、そう書き残している」


「……父さんが?」


 夜人は、思わず帳面を覗き込んだ。


 震えた字だが、父の癖が確かにあった。


「十年前、“闇の側”に足をかけかけた灯夫がいたのかもしれねえ」


 親方が煙管きせるを握りしめる。


「だが、そいつもまだ戻れるって、灯塔は最後まで信じてた」


「信じられるかどうかは、これからの動き次第ですね」


 灯子が、冷静にまとめる。


「ひとまず、この帳面と灯守は、局の地下倉にしまいましょう。

 今日は、下町組がその見張り当番ということで」


「……了解です」


 夜人は、胸の奥のざわつきを押し込むように頷いた。


     *


 夜。


 市灯道局の裏手、石段を降りた先に、古い石造りの倉がある。

 元は市の記録をしまうための場所だったが、今は灯区帳や灯具の予備、幻のような事故記録が眠っている。


 倉の入口には、下町灯夫組の三人が立っていた。


 親方は局の用事で上に上がり、今ここにいるのは夜人と銀次と――澪だった。


「港は、潮さんと源太さんが見てます。私はこちらへ」


 澪は、小さな羅針盤型の灯守を胸元で押さえる。


「港の灯も、ここから少し感じられますから」


「心強い助っ人だな」


 銀次が笑い、重い扉の錠を確かめる。


「外鍵、よし。中からもかんぬきよし。……さて、見張りって言っても、ここでじっと突っ立ってるのか?」


「交代で、中の灯も見た方がよくないですか」


 夜人は、扉の隙間から漏れる灯りを見た。


 倉の中にも、いくつか小さなガス灯が取り付けられている。紙と灯具を湿気から守るための灯だ。


「じゃあ、俺が一番手で中。夜人と澪は外。異常があったら叩いて知らせる」


「はい」


 三人は短く頷き合い、銀次が扉を開けて中へ入る。

 重い石と木の匂いが、ひやりと肌を撫でた。


 夜人と澪は、扉が閉まったあと、石段の上に腰を下ろした。


 上の方からは、灯道局の窓の灯りがかすかに見える。

 下町のざわめきも、ここまでは届かない。


「静かですね」


 澪がぽつりと言った。


「港と違って、ここには波の音もない」


「慣れないですか」


「少しだけ」


 澪は、羅針盤灯守を指でなぞりながら、夜人の横顔を盗み見る。


「……灯塔さん」


「はい」


「“闇と話す灯夫”って、怖いですか」


 夜人は、少し考えてから答えた。


「怖いです」


 正直に言った。


「でも、多分、“話しかけてくる闇”って、そんなにたくさんいないと思うんです」


「どうしてですか」


「全部まとめて喰いたいなら、人間なんか相手にしないで、黙って口開けてればいいから」


 灯喰のことを思い出す。

 十年前の口。昨夜の影。


「それでもわざわざ話しかけてくるってことは、“こっちの出方を見たい”か、“こっちを使いたい”か、どっちかだと思います」


「使われたくはないですね」


 澪が、潮風の代わりに冷たい石の匂いを吸い込むように、静かに言った。


「灯りを嫌いにならない限りは――って、さっき親方さんから聞きました。灯塔さんの、お父さんの言葉」


「……聞かれましたか」


「廊下、薄いので」


 澪は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「灯りを嫌いになれない人間が、港にもひとりぐらいはいるので。

 “戻れる”って言葉、私にも少し、届きました」


 夜人は、彼女の横顔を見た。


 港で灯を数え続けてきた人の目だった。


 そのとき――


 石段の下から、かすかな気配がした。


 夜人と澪は同時に立ち上がる。


「……今の、感じました?」


「はい。灯りじゃないです。“灯のない灯”みたいな」


 澪の灯守が、微かに震えた。


 倉の扉に背を向けたまま、夜人は石段の下を覗き込む。


 暗がりの奥で、小さな光がひとつ揺れていた。

 懐中灯ほどの大きさ。だが、光に“影”が混ざっている。


 闇と灯りが、同じ場所で渦を巻いているような光。


「……誰か、いますか」


 夜人が声をかけると、光が一瞬だけ止まった。


 次の瞬間、石段の下の闇から、ひらりと細い影が飛び出した。


 布を被った人影――点灯夫の半纏によく似た肩のライン。

 顔は影になって見えない。


 その手には、小さな灯守と懐中灯が握られていた。


「待て!」


 夜人は咄嗟とっさに叫んで飛び出そうとしたが、同時に扉の向こうから銀次の怒鳴り声が響いた。


「おい! 中に入ったぞ、何か!」


「――っ!」


 夜人は一瞬迷った。外を追うか、中を守るか。


「外は、私が」


 澪が羅針盤灯守を握りしめる。


「港で、逃げる灯は慣れてます」


「……お願いします!」


 夜人は倉の扉のかんぬきを外し、中へ飛び込んだ。


     *


 倉の中は、紙と灯りの匂いで満ちていた。


 壁際の棚には、びっしりと帳面が詰まっている。

 その間を、黒い何かが走っていた。


「ちっ、速ぇ!」


 銀次が、一本の棚の前で点灯棒を振り回していた。

 足元には、インクつぼがひっくり返った跡。黒い墨が床を這っている。


 墨の中から、節くれだった脚が何本もせり出した。

 まるで巨大なさそりのような影が、棚の上に躍り上がる。


『……記録、記録、記録』


 蠍の尾のように伸びた尻尾の先には、ペン先が付いていた。

 走り書きのような音が、空気の中に擦れている。


「また“記録喰い”の仲間か!」


「夜人、父ちゃんの帳面はあっちだ!」


 銀次が顎で指した棚の前に、灯塔の灯区帳が鎮座していた。

 蠍のような影は、別の棚から帳面を一冊ずつ引きずり出し、ページに黒い線を走らせている。


『並べる、並べる。線、繋ぐ。口へ、道を』


「勝手に繋ぐな!」


 夜人は行灯を掲げた。


 白い灯が、倉の天井近くまで浮かび上がる。


導灯どうとう!」


 白い線が、棚と棚の間を走り、蠍の脚を縫うように結ぶ。


 だが、ここは狭い倉の中。

 大きく技を放てば、周りの帳面ごと焼きかねない。


(広場みたいにはいかない……!)


「灯を狭く――」


 夜人は、行灯の灯をぐっと絞った。


「……導灯・細綴さいとじ!」


 棒先から飛び出した白い光が、糸のように細くなる。

 蠍の脚の一本一本に巻きつき、動きを封じる。


 しかし、尾だけは自由だった。

 ペン先が、灯塔の灯区帳に向かって振り下ろされる。


「させるか!」


 銀次が飛び込んだ。


 点灯棒の鉄輪がペン先を弾き、火花が飛ぶ。

 蠍が、不快そうに身をよじった。


『邪魔、邪魔』


「記録喰いの餌にしてやる帳面なんざ、一冊もねえよ!」


 銀次が吠える。


 蠍の影が、今度は銀次の方へ跳びかかろうとした――その瞬間。


 灯塔の灯守が、棚の上でちり、と鳴った。


 誰も触れていないのに、焦げた紙障子の奥で、赤い火がひとつ灯る。

 白い夜人の灯と、赤い父の灯が、狭い倉の中で向かい合った。


「……またか」


 夜人は思わず笑ってしまった。


「さっき、家でやったばっかりですよ」


 だが、灯は応えるように揺れる。


「じゃあ、もう一回――」


 夜人は、蠍に巻きついた細い光をさらに引き絞った。


灯塔二灯とうとうにとう照応しょうおう綴封てっぷう!」


 白と赤の光が、蠍の影を挟み込む。


 足に巻きついた白い糸が、父の赤い印へと吸い寄せられ、

 蠍の体に、細かい「閉じ目」のような印がいくつも刻まれていく。


『――――っ』


 蠍の脚が、ひとつ、またひとつ、動かなくなる。

 ペン先から零れた黒いインクが、床の上でじゅっと音を立てて蒸発した。


『記録……残らない……』


「残させません」


 夜人は、灯塔の灯区帳を抱え上げた。


「ここに残す記録は、俺たちが選びます。

 灯喰の口に並べるためじゃなくて――次の灯夫が迷わないように」


 最後の一本の脚が、赤い印に縫い止められる。


 蠍の影は、ばらばらの細い線になって崩れ、床の上で黒い砂となって静かに消えた。


 倉の中の灯りが、ほっとしたように明るさを取り戻す。


「ふー……」


 銀次が、棒を肩に担ぎ直した。


「お前、本当に新技をぽんぽん生むな」


「口が勝手に……」


 夜人は、少し息を切らしながら笑う。


「でも、父さんの灯がいちいち付き合ってくれるってことは、

 文句は言ってないんだと思いたいです」


「文句あったら、とっくにひっくり返してるだろ」


 銀次が、棚の上の黒ずんだ灯守をぽん、と指でつついた。


「なあ、親父さん」


     *


 倉の外では、澪が石段の上で息を整えていた。


 足元には、さっきまで揺れていた“闇混じりの灯り”の名残がかすかに残っている。

 澪の頬には、細い切り傷が一筋。


「逃げられました?」


 夜人が扉のところから声をかけると、澪は小さく頷いた。


「港で追いかけてる船に比べたら、だいぶ速い人でした」


「人、でしたか」


「はい。灯の揺れ方が、“生きている人”のそれでした」


 澪は羅針盤灯守を見下ろす。


「港の帰りの灯と同じ匂いがしました。

 ただ……途中で、闇の方に、少しだけ“引きずられる”ような歩き方をしていた」


「闇に、引きずられる……?」


 夜人は、記録喰いの紙片が言っていた「約束」という言葉を思い出した。


「顔は見えませんでした。背格好も、上着も、点灯夫と同じようなものでした」


 澪は冷静に続ける。


「ただ、ひとつだけ。懐中灯の光が――」


 言いかけて、少し迷うように視線を宙に泳がせた。


「何色でした?」


「……“唇を噛んだときの血の色”みたいな、赤でした」


 夜人は、思わず自分の胸元の行灯を見た。

 白い灯。父の灯は、煤けた赤。


 倉の中では、灯塔の灯守が、静かにひとつ鳴った。


「帳面は、無事だ」


 銀次が灯区帳を掲げて出てくる。


「中で暴れてたのは、記録喰いの“虫けら”の方だけだった。

 だが、あの影をここへ引き寄せたのは――外の奴かもしれねえ」


 夜人は、倉の入口から見下ろす石段の下を見つめた。


 闇と灯りが混ざった小さな光の残り香が、まだほんの少しだけ匂っている。


(“闇の側と話す灯夫”――十年前の誰か。その続きの誰か)


 父が灯区帳に書き残した一行が、胸の奥でくすぶる。


 今夜、倉を狙った影は、灯喰の“口”と何かを約束しているのかもしれない。


 十年前に果たせなかった“約束の続き”を。


「……親方に報告だな」


 銀次が小さく息を吐く。


「“記録は守った。けど、狙ってる奴は間違いなくいる”ってよ」


 夜人は頷いた。


 灯区帳を抱えた腕に、ずしりと重さを感じる。

 父の字と、父が記した灯りの並び。その続きに、自分の夜をどう書き足すのか。


 倉から出るとき、灯塔の灯守がもう一度だけちり、と鳴いた。


 ――灯りを見ている限り、まだ戻れる。


 父の最後の言葉が、夜人の歩幅を、ほんの少しだけ強くした。


 そのころ、町のどこかの路地裏で。


 赤い懐中灯を持った影が、灯喰の気配と薄く溶け合いながら、ひとりごとのように呟いていた。


『十年前の約束は――』


 灯の縁で、黒い影が笑う。


『まだ、果たしていない』

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