第十一話 灯塔家の夜
灯塔の家は、町の端にある。
川にも工場にも港にも、どこへ行くにも中途半端に遠い場所だ。
灯塔夜人は番屋を出て、いつもの巡回路とは逆方向へ歩きながら、久しぶりに見えてきた瓦屋根を見上げた。
軒先には、煤けた小さな行灯が吊るされている。
もう灯りは入っていない、ただの古道具だ。
それでも夜人は、子どもの頃はあの灯の下で父が帰りを待っていてくれたような気がしていた。
「……ただいま」
戸を開けると、味噌と煮物の匂いが鼻をくすぐる。
囲炉裏のそばで、母が振り向いた。少し痩せた気もするが、目の形はあまり変わっていない。
「まあ、夜人。こんな時間に」
「親方が、“ここで話せ”って」
夜人がそう言うと、奥の座敷から親方の低い咳払いが聞こえた。
畳の上には、包み紙を解かれた古い行灯がひとつと、分厚い帳面が一冊。
「十年前の夜の続きだ」
親方はそう言って、古い行灯を夜人の方へ押しやった。
煤で黒く染まった木枠の裏に、小さく刻まれた文字がある。
――灯塔。
父と同じ字だ。
「……これ」
「お前の親父の灯守だよ」
親方は煙管をいじりながら、じっと行灯を見つめた。
「爆発のあと、工場の瓦礫ん中から拾った。芯は焼けて、二度と灯りやしねえと思ってたがな」
夜人は、ごくりと喉を鳴らした。
自分の胸元の豆灯守と違って、その行灯はどこか重たく見える。
木枠にはところどころ裂け目が走り、紙障子も半分以上が焦げて失われていた。
「触ってみろ」
親方の声が落ちる。
夜人は膝をにじらせ、両手で行灯を抱え上げた。
ひんやりとした木の感触。
次の瞬間、指先に、ちくりと熱が走った。
――一瞬で、景色が変わった。
*
暗闇だった。
だが、完全な闇ではない。
遠く遠くに、いくつもの灯りが瞬いている。工場の塔、港の灯台、山の手の白い灯――十年前の町だ。
視線が勝手に工場街の方へ引き寄せられる。
配管の上で誰かが走っていた。
半纏姿の背中。胸元で揺れる行灯。今の夜人より少し広い肩。
『……灯塔さん! そこ危ない!』
若い親方の声が聞こえた。
振り向きかける横顔だけが、ちらりと見える。
夜人は息を呑んだ。
「父さん……!」
叫んだつもりなのに、声にならない。
届かない。これはただの残り灯だ。
工場の奥で、黒い“穴”のようなものが口を開けている。
そこから、町じゅうの灯りに向かって細い線が伸び――
「夜人!」
誰かに肩を揺さぶられた感覚とともに、景色がぶちぎれた。
*
気づけば、畳の上だった。
夜人は荒い息を吐きながら、膝の上の行灯を見つめた。指先がじんと熱い。
「おい、しっかりしろ」
親方が片膝をついて覗き込んでいる。母は少し離れたところで心配そうに手を握りしめていた。
「……今、父さんが」
「見えたか」
親方の目が細められる。
「工場の上を走ってました。黒い穴みたいな……灯りを、吸い込む口の前で」
「そいつが灯喰だ」
親方は煙管を握ったまま、ふっと息を吐いた。
「十年前、工場の火を爆ぜさせて、自分ごと飲ませることで、一度だけ町じゅうを喰われるのを止めやがったのが、お前の親父だ」
夜人は、ぎゅっと行灯を握った。
畳の上に置かれた分厚い帳面――古い灯区帳が目に入る。
表紙には「灯塔」と薄れた字。
「それが、親父さんの灯区帳だ。工場と下町の境目を見てた頃のな」
親方に促され、夜人は灯区帳を開いた。
細かい字で、夜ごとの灯の具合が記録されている。
「三ノ丁角 火勢弱シ」「工場裏路地 灯高シ」――まるで灯りの診察日誌だ。
ぺらり、と数ページめくったところで、夜人の指が止まった。
「……これ」
ある夜のページにだけ、赤い印がいくつもついていた。
工場、花街、山の手、港、下町。日付の横に、小さな丸印で並んでいる。
「十年前の、大停電の前の晩だ」
親方が言う。
「工場の圧が跳ねて、花街で灯りの怪談が出て、山の手で一時停電、港でロープが切れ、最後に下町の橋の灯が揺れた。……今、お前らが見てる並びと一緒だ」
背筋が冷たくなる。
夜人は、今までの異常灯火の夜を思い返した。工場、花街、山の手、港、橋。
父は十年前に、その“並び”に気づいていた。
ページの端に、震えた字で一行だけ書き足されている。
――灯夫の中に、“闇の側”と話す者あり。
「……闇の、側」
夜人は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「点灯夫の中に、闇魍と話した奴がいる。親父さんはそう睨んでた」
親方の声が静かに落ちた。
「それが誰なのか、書く暇も言う暇もねえまま、工場で死んじまった」
「十年前の灯夫、ってことですよね」
「当時の灯夫か、あるいは――その続きの誰かかもしれねえ」
親方が、意味ありげに夜人を見る。
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
灯喰と、もう二度も言葉を交わしているのは、自分だ。
「……俺も、闇と話してます」
夜人は口に出していた。
「灯喰と。橋の上でも、さっきの広場でも」
親方は眉ひとつ動かさずに聞いている。
先に反応したのは、板の間の向こうから聞こえた声だった。
「“闇と話す者”って意味だけなら、確かに、今の灯塔さんも入っちゃいますね」
襖がすっと開いて、銀次が顔を出した。
「廊下で聞いてたんですか」
「心配だから決まってんだろ」
銀次は遠慮なく上がり込むと、灯区帳を覗き込んだ。
「十年前の灯夫の誰かが、灯喰と取引したってことか? “町を全部喰われるのを一度だけ止める代わりに、次の夜を約束した”とかよ」
夜人は、さっきのビジョンの最後を思い出した。
工場の火の海の向こうで、父以外の誰かが、灯喰の口の縁に立っていた気がする。
顔は煙と光で見えなかった。
「……俺が見たのは、父さんと、灯喰と、もうひとりです。誰か、影みたいなのが」
「そいつが“闇の側”ってか」
銀次が、歯噛みする。
そのとき――家の外から、かすかなざわつきが聞こえた。
ガス灯の火が、風もないのに揺れた音だ。
母がびくりと肩を震わせる。
「……今、何か」
「外だ」
親方が立ち上がる。
「夜人、行灯持て。銀次、棒持て。家の中で揉め事はごめんだ」
「家の中で、って」
「灯塔ん家はな、十年前、“口”に目ェつけられた家だ。外からも中からも、闇が嗅ぎつけてくんだよ」
*
外に出ると、灯塔家の前の路地が薄暗くなっていた。
家のそばのガス灯が、じわりと黒ずんでいる。
灯りそのものではなく、灯柱の足元から、墨のような黒い影がにじみ出ていた。
影は、細い紙片のようにひらひらと揺れている。
「……何だ、ありゃ」
銀次が点灯棒を構える。
紙片は、風もないのに夜人たちの方へふわふわと近づいてきた。
白い裏面には、びっしりと細かい字が書き込まれている。
灯区帳の文字だ。
「灯りの記録……?」
夜人が呟くと、紙片の束がざわりと震えた。
『――――――』
声にはならない、擦れるような音。
紙が擦れ合う音そのものが、何かを喋っているように聞こえた。
「おいおい、家の前で名付きかよ……!」
銀次が一歩踏み出すと、紙片が一斉に銀次の方へ向きを変えた。
次の瞬間、紙片は細い刃物みたいに鋭くなって、銀次めがけて飛んできた。
「うわっ!」
銀次が点灯棒で薙ぎ払う。
当たった紙片は宙で裂け、墨のような粉を撒き散らして消える。だが数が多い。
「夜人! 家の壁から離れろ!」
親方が怒鳴る。
紙片の何枚かが、灯塔家の壁にぴたりと張り付いた。
しみ込むように、板壁の中へ消えていく。
「まずい、あれは――」
母が青ざめた。
「灯区帳が燃えたときに見たのと、同じ……!」
「燃えた?」
夜人は目を見開いた。
「親父の灯区帳、全部残ってるんじゃないんですか」
「全部なんざ残ってねえよ」
親方が歯を食いしばる。
「爆発のとき、半分は燃えた。残ったのは“気づいた夜”の分だけだ」
紙片が、夜人の足元にまとわりつく。
足首に冷たい文字が絡みつく感覚。
灯塔家の前の空気が、急に重くなった。
『――記録』『――並び』『――約束』
紙の擦れる音の中から、単語だけが浮かび上がる。
「……こいつ、“記録喰い”か」
親方の目つきが鋭くなる。
「灯道局の倉庫で、むかし聞いたことがある。
灯りの記録ばっかり集めて、自分の中で並べ替えようとする闇魍だ」
『並べる、並べる』
紙片が、夜人の胸元の行灯に群がる。
父の灯守も、座敷の中でちりりと鳴った気がした。
『灯塔、灯塔。十年前の続き。並び、揃える』
「並べる相手が違うだろうが!」
銀次が叫ぶ。
「夜人! 行灯を!」
「……はい!」
夜人は胸元の行灯を引き抜いた。
父の灯守も座敷から持ち出され、親方の手に握られている。
豆灯守の芯が白く灯ると同時に、父の黒ずんだ灯守も、かすかに赤い残り火を灯した。
ふたつの灯りが、夜の空気に筋を描く。
紙片が、その光に怯えたように揺れた。
『――記録、欲しい。並び、揃える。口、開ける』
「口ってのは灯喰かよ。てめえもそっち側か!」
銀次が紙片を薙ぎ払うたび、墨が舞う。
夜人は、ふたつの灯守を見比べた。
自分の白い灯。父の黒く煤けた灯。
色は違うのに、芯の形はそっくりだった。
(……並べられるのは嫌だ。けど)
夜人は、紙片に囲まれた足元を見下ろした。
紙片はみんな、何かを探している。並びを。順番を。十年前と今を繋ぐ筋を。
「だったら、こっちの順番で並べてやる」
夜人は、行灯を高く掲げた。
「導灯――灯塔二灯、照応!」
自分でも、どこから出てきたのかわからない言葉だった。
だが、口にした瞬間、白と赤の灯が一斉に強く揺らめいた。
白い光が、灯塔家の前の路地に線を引く。
父の灯が、その線に沿って赤い印を刻むように走る。
足元に散らばっていた紙片が、その線と印に吸い寄せられた。
『――順番?』
紙片たちのざわめきが変わる。
夜人の頭の中に、町の灯の並びが浮かんだ。
十年前の灯区帳の印と、今の異常灯火の印。その二つを重ね合わせ、そこから一本だけ別の道を引く。
「工場、花街、山の手、港、橋――」
夜人は紙片を見下ろしながら、ひとつひとつ灯区の名を呼んでいく。
「十年前はここで終わった。
でも今は、ここから先がある。灯喰の口じゃなくて、俺たち点灯夫の巡回の順番が、続いてる」
白い線が、路地から夜空へ登っていく。
赤い印が、その途中途中に灯っては消える。
『……違う。違う並び』
紙片が震える。
墨の粉がぽろぽろとこぼれ落ちる。
『でも、記録。記録……残る……』
紙片が弱々しく笑ったような気がした。
次の瞬間、紙片の束はふわりと舞い上がり、白と赤の線に触れて、ぱらぱらと燃え始めた。
燃え方は派手ではない。
誰かが古い帳面を静かに焚き上げるときのような、小さな炎。
最後の一片が燃え尽きたとき、路地にはふわりと温かい風が流れた。
ガス灯の炎が、いつもの黄色い揺れ方に戻る。
「……勝手に並べられるぐらいなら、自分で並べ直した方がマシだな」
銀次が点灯棒を肩に担ぎ直した。
「今の技、なんだよ。“灯塔二灯”って」
「さあ……口が勝手に」
夜人は、まだじんじんする指先を見つめた。
父の灯守は、赤い残り火をふっと消し、木枠にひびをひとつ増やしたように見えた。
親方が、それをそっと撫でる。
「……灯塔の親父さんはな」
親方は、夜人にだけ聞こえる声で言った。
「“灯りの方が俺を選んだ”って笑ってた。
十年前の夜、出ていく前に、お前の母さんに一言だけ言ったそうだ」
夜人は、自然と息を詰めた。
「なんて、言ったんですか」
「“もし何かあっても――灯りを嫌いにならないでくれ”だとよ」
胸の奥がきゅっと痛んだ。
母は家の中から、そっとこちらを見ている。
さっきの騒ぎにも、声一つ上げず、ただ行灯を見守っていた。
「……そんなの、無理ですよ」
夜人は、思わず笑ってしまった。
「こんな怖い目ばっかりしてたら、灯りなんて嫌いにもなります」
「それでも今、お前は灯り見てる」
親方が、夜人の胸元を指でつつく。
「“嫌いにならないでくれ”って言葉を、十年越しで聞いちまったな、灯塔夜人」
夜人は、掌の中の灯守を見下ろした。
白い芯が、かすかに揺れている。
十年前の灯区帳の端には、赤い印と一緒に、もう一行だけ小さく文字があった。
――灯夫の中に、“闇の側”と話す者あり。
だが、灯りを見ている限り、まだ戻れる。
誰に向けた言葉なのか、わからない。
父自身にか。
十年前の裏切り者にか。
それとも、いつか闇と話すかもしれない“灯塔の子”にか。
夜人は、行灯をぎゅっと握りしめた。
「……闇と話したからって、すぐ闇の側には行きません」
ぽつりと、夜空に向かって言った。
「灯を嫌いにならない限りは。
灯喰が口開けて待ってても、勝手に並べて喰わせたりなんか、しません」
遠くで、工場の汽笛が鳴った。
港の灯台が一度だけ強く瞬き、山の手の電灯が夜空を照らす。
町じゅうの灯りが、それぞれの場所で揺れている。
そのどこかに、“闇の側と話した点灯夫”が、今も灯りの下に立っているかもしれない。
その気配を、夜人ははっきりと感じていた。
だからこそ――
灯りから目を逸らすわけにはいかなかった。




