第十話 灯喰《ともしくい》の影
その夜、町じゅうの灯りが、妙な呼吸をしていた。
灯塔夜人は、川沿いの通りを駆けながら、胸のざわつきを抑えきれずにいた。
下町のガス灯が、一斉にふっと細くなり、また戻る。
花街の路地の灯りが、ひと息ぶんだけ暗くなっては、また灯る。
工場街の点検灯が、ボイラーの唸りに合わせて明滅する。
山の手の白い電灯が、ひとつおきに瞬いては静まる。
港の灯台と船の灯りが、波の合間に揺れながら、同じリズムで暗くなる。
灯りの引き潮が、町じゅうをひと回りして――
真ん中へ、集まっている。
「……全部、中央広場に引っ張られてる」
胸元の行灯が、衣の下でちりちりと熱を持つ。
「夜人、急げ!」
三上銀次が前を走り、振り返りもせず叫んだ。
「親方も、他の組も、みんな広場に向かってる!」
石畳を蹴る足音が、夜気に弾ける。
路地をいくつも抜けると、町の心臓――噴水と記念碑と、ひときわ背の高いガス灯が立つ広場が見えてきた。
そこに、点灯夫たちが集まっていた。
下町灯夫組の親方。
工場灯夫組の霧島灯子、樫村鉄蔵、御子柴六郎。
花街灯夫組の緒方紅市、お妙、弥吉。
山の手灯夫組の氷室灯真、斎藤清次、綾小路桂。
港灯夫組の早瀬潮、汐見澪、仁科源太。
そして広場の端っこでは、宵坂ミナトが場違いに目を輝かせて手帳を握っていた。
「来たな」
親方が短く言う。
「目ェ離すなよ。今夜の主役は、派手だぞ」
広場の中央――記念碑のそばに立つ大ガス灯を、夜人は見上げた。
炎が、逆さまだった。
本来は上へ向かうはずの火が、灯芯からするりと下へ垂れ、ガラスの中で黒く滴り落ちている。その黒い炎が、灯柱を伝って石畳へと降りていき――地面に触れる手前で、ゆっくり膨らんだ。
墨を流したような黒が集まり、人とも獣ともつかぬ影になる。
見る角度によって、姿が違って見えた。
夜人には、巨大な口を持つ何かに。
氷室には、長い腕をいくつも生やした人影に。
潮には、海底に開いた穴のように。
『ようやく、ここまで灯りが集まった』
よく通る声だった。男でも女でもなく、若くも老いてもいない。
影が、静かに夜人を見た。
『初めまして――灯塔の子』
広場を囲むガス灯と電灯が、外側から順にふっと暗くなる。
波のような暗がりが、町じゅうからここへ押し寄せているのがわかった。
「……灯喰か」
親方の声が低く沈む。
影が、わずかに揺れた。
『十年前は、途中で終わってしまったからね』
影の内側で、灯りの残り火のようなものがちらついた。
『工場の灯り。橋の灯り。花街の灯り。港の灯り。山の手の白い電灯。
どれも、ずいぶんとよく燃えるようになった』
「食いもんみてえに言うなよ」
銀次が、肩に担いだ点灯棒を握りしめる。
「灯りは、人の足元照らすもんだ。お前に喰わせるためじゃねえ」
『照らされたものの顔を、一番近くで見てきたのは私だよ』
灯喰の影の中に、いくつもの姿がちらついた。
三ノ丁の闇魍。
橋で鎖のように灯りを繋いだ朽火。
花街で願いを縫い付けていた縫灯。
工場の管に絡みついた煤王。
港で鎖を引きずっていた鎖童子。
どれも、一瞬浮かんでは、影の奥へ沈んでいく。
『君の父も、よく灯りを見ていた。
消えかけた工場の灯の前で、長く立ち尽くしていた』
喉がひゅっと鳴る。
「父さんに……何をした」
『何も』
灯喰は、愉快そうでも悲しそうでもない声で言った。
『ただ、教えてあげただけだよ。
“灯りごと私に預ければ、全部ここで眠れる”とね』
親方が煙管も持っていない手を握り込む。
「灯塔はな、自分の火を預けて楽になったんじゃねえ」
親方は、影を睨みつけたまま言った。
「続きの灯りを、こいつに託して死んだんだ」
『結果は同じさ。君がここにいる』
影の視線が夜人を刺す。
『君は、よく灯りを見ている。
怖い顔で灯の下に立っていた者も、笑いながら歩く子どもも、
戻れなかった灯りも、渡り損ねた灯りも。
――全部、ここへ持ってきなさい』
「嫌です」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
銀次が目を丸くする。
「消えた灯りの痛みも、怒りも、願いも。
全部まとめて“どこか”に預けたら、たしかに楽かもしれません」
夜人は、胸元の行灯を握りしめる。
「でも、それじゃあ――
灯りの下で何があったか、見てたことまで、なかったことになる」
『なかったことにはしない』
灯喰が、楽しげに笑う。
『私の中には、全部残る。
消えた灯りも、消える前の願いも。
君たちが忘れても、私は忘れない』
「それ、余計にタチ悪いですね」
口が勝手に動いた。
氷室が一歩前に出て、杖を構える。
「交渉は不要です」
彼の声は冷たいが、力があった。
「闇魍は現象だ。灯喰がどれほど大きかろうと、灯区を食い荒らすなら――排除する対象に変わりはない」
「話してる間に飲み込まれたら笑い話にもなりませんしねえ」
綾小路が、乾いた調子で続ける。
灯喰の影から、細長い腕のような黒い線がするりと伸びた。
『では――少しだけ、味見を』
黒い線が、周囲のガス灯と電灯に触れた。
一斉に、火が引き抜かれる。
灯りを失った街灯の影がぐにゃりと歪み、その影の中から、煤や糸や鎖火が薄い残り香のように滲み出した。
「来やがったか、寄せ集め!」
花街側で、緒方紅市が灰色の糸を指でつまみ、手際よくほぐす。
お妙が扇子で半端に縫われかけた願いをぱちんと弾き切り、弥吉が次々と灯を磨いて回る。
「工場の圧、また跳ねてます!」
工場側から灯子の声。
「六郎、あの支管開けろ! 樫村、こっち締め直しだ!」
「おうよ!」
港側では、水面から伸びかけた細い鎖火を、潮の錨灯が弾き返す。
「ここで沈めたら、町ごと沈むだろうが。おとなしくしてろ」
澪は、不自然な火花だけを指先で摘むように消していく。
山の手では、電灯の白い光が短く明滅した。
「電灯側の境界を強化!」
氷室が杖で電線の筋をなぞる。白い線が電灯と電灯を結び、闇魍の影を跳ね返す。
斎藤が隙を突いて、黒い煤の塊を点灯棒で打ち砕く。
「夜人!」
親方の声が飛ぶ。
「細けえ火の粉は各組に任せろ! お前は“町じゅうの灯り”を見ろ!」
「はい!」
夜人は広場の中央へ一歩踏み出した。
胸元の行灯が、焼けるように熱くなる。豆灯守の芯が、真っ白に燃えた。
頭の中に、町の地図が広がる。
下町の橋のガス灯。
花街の路地の、古びた一本。
工場街のボイラー前の点検灯。
山の手官庁街の、旧ガス灯跡に立つ電灯。
港の灯台の灯り。
灯区ごとにひとつずつ、“その場所らしい灯”が強く浮かび上がる。
(全部繋ぐ……いや、“代表”だけで、輪を作る)
夜人は、息を深く吸った。
「導灯――連灯・五灯環!」
点灯棒の先を地面に突き立てる。
白い火が、広場の石畳を走った。
中央から、五方向へ。
下町へ、花街へ、工場街へ、山の手へ、港へ。
それぞれの灯区の“代表”の灯から、白い光が立ち上がる。
五本の光が空中で弧を描き、輪になった。
五つの灯で形づくられた光の輪が、広場の上に浮かび上がる。
その輪の内側に、灯喰の影がいる。
『……ふむ』
影の輪郭が、初めてかすかに揺らいだ。
「灯りは、町のどこかひとつで完結してるわけじゃありません」
夜人は、両手で点灯棒を握り込む。
「下町、花街、工場、山の手、港。
灯りの色も高さも形も違っても――
まとめてひとつで、“この町の夜”です」
五灯環の光が、じりじりと強くなる。
各組の灯守が、それぞれの胸元で共鳴するように光った。
紅市の小さな紅い灯。
灯子の歯車模様の灯守。
氷室の杖の紋章。
潮の錨灯の芯。
澪の羅針盤のような灯守。
それらが、一瞬だけ同じ呼吸をする。
『ずいぶんと、欲張りな灯だね』
灯喰の影の表面で、かすかな火花が散る。
『それぞれ別々に食べればいい灯りを――わざわざ一皿にまとめて出してくれるとは』
「まとめたからって、お前の皿に乗せるつもりはありません」
夜人は、額に汗を浮かべながら答えた。
「まとめたのは、“守る”ためです。
ひとりの点灯夫じゃ抱えきれないから、みんなで見て、みんなで火を入れる」
五灯環が、じわりと縮む。
光の輪が狭まり、影を中心から押し戻していく。
『十年前の灯塔は、こんな灯を使わなかった』
灯喰の声が、わずかに愉快そうに揺れる。
『あの夜は、皆、自分の灯区だけを見ていた。
今回は――ほんの少し、違う結び方になってきたようだ』
影が、逆さまの炎へと溶けていく。
『今日は、これくらいでいい。
まだ“口”を大きく開ける時刻じゃない』
広場の大ガス灯の火が、すっと元の形に戻る。
周囲のガス灯と電灯も、一つずつ、ゆっくりと灯りを取り戻した。
だが、空気は冬の水を浴びたように冷たい。
「……今のが、“本体”じゃないんだろうな」
銀次が息を吐く。
「影だ。歯の先っぽだ」
親方が答える。
「口自体は、まだどっかで大きく開けて待ってやがる」
潮が、錨灯を地面から引き抜いた。
「喧嘩売ってきたってことだな。“次は本気で来る”って」
澪は広場の上に残る五灯環の残り香を見上げていた。
「港から見ていた灯も、山の手から見ていた灯も……」
彼女は夜人をちらりと見る。
「みんな同じ輪の中にあった。それだけで、少し安心しました」
氷室も、夜人の方へ視線を向ける。
「情に流されるな、と言いたいところだが」
杖を軽く地面に突きながら続けた。
「“灯りを繋ぐ”という発想そのものは、悪くない。
次は、もっと強い輪を用意しておけ」
「それ、褒めてますよね?」
銀次が笑うと、綾小路が肩を竦める。
「山の手流の精一杯の賛辞ですよ、きっと」
工場組の灯子は、配管図を巻き直しながら頷いた。
「町じゅうの灯りが、一本の線で繋がって見えたのは事実です。
次、大きく揺れたときに、その“道筋”を使えるかもしれません」
花街の紅市がおどけて夜人に敬礼する。
「“五灯環の夜人様”ってとこだな。花街の子らに、話のネタが増えたぜ」
「名前増やさないでください……」
ミナトは広場の端で必死にペンを走らせていた。
「“中央広場、謎の停電現象 点灯夫たち奔走”……
“灯喰の影、真夜中の点灯夫に一歩退く”……見出しが長い……」
「宵坂」
親方が呼びかける。
「書くなら、盛りすぎんなよ。
読み手が怖がりすぎると、灯りが揺らぐ」
「わかってます。表向きは“停電騒ぎ”くらいにしておきます」
ミナトは真顔で頷いた。
人々は、窓から顔を出しては、灯りが戻ったのを見て安堵し、また家の中へ引っ込んでいく。
彼らは、この広場で何が起きていたかを知らない。
それでいいのだと、夜人は思った。
胸元の行灯に視線を落とす。
豆灯守の芯が、まだ薄く光っている。
親方が近寄ってきて、火の消えた煙管を指で弄びながら言った。
「……十年前の夜な」
いつになく静かな声だった。
「俺は、“どこまでが自分の仕事か”わかんなくなって、目ェ閉じちまった瞬間があった。
消えた灯りの行き先まで全部自分で背負おうとして、潰れかけた」
夜人は黙って聞いていた。
「灯塔のおやじは、それを見て言いやがったんだ。
“続きは、若ぇのに任せる”ってな」
喉の奥が熱くなる。
「だから、お前はひとりで背負うな」
親方は、夜人の胸元を軽く指で突いた。
「今は組も、灯も、前よりずっと多い。
下町も、花街も、工場も、山の手も、港も――
気に入らねえ奴も含めて、全部まとめて使え」
その言葉に、銀次が「おっと」と笑い、氷室がわずかに眉をひそめ、潮がニヤニヤと頷く。
「真夜中の点灯夫は、“灯りを見る奴”でいい」
親方は続ける。
「“全部抱える奴”になるな。
消える灯りの顔と、消える前の願いだけ見て、
それを次の灯りにつなげりゃ、それで十分だ」
夜人は、行灯をぎゅっと握りしめた。
十年前に消えた火の続き。
灯喰の本当の“口”。
まだ来ていない、本当の夜。
それでも、目は逸らさない。
「……全部は抱えられませんけど」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「消える灯りの顔と、消える前の願いぐらいは、ちゃんと見ていたいです。
それが、俺のやれる“真夜中の点灯夫”だと思うから」
銀次が隣でにやりと笑った。
「だったら、付き合うさ。真夜中の点灯夫ご一行様としてな」
灯子がおかしそうに肩をすくめ、紅市がおどけて頭を下げる。
氷室は小さく息をつき、斎藤は黙って頷き、潮は錨灯を軽く持ち上げ、澪は遠くの灯りを一度だけ振り返る。
中央広場の大ガス灯が、町の夜を静かに照らしていた。
その光の輪の、さらに遠く。
まだ見えないどこかで、巨大な“口”が、ゆっくりと開きかけている気配がある。
その気配から、目を逸らさないまま――
夜人は、行灯の灯を、少しだけ強く灯した。




