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第一話 消えたガス灯



 この町で、真夜中にガス灯が一本消えたら、それは誰かの祈りが届かなかった印だ――と、人はひそひそ噂する。


 馬車も人力車も途絶えた石畳の通りを、灯塔とうとう夜人やひとは灯火用の長い棒を肩にかつぎ、ゆっくり歩いていた。鉄の柱の上に並ぶガス灯が、湿った夜気の中でぽつりぽつりと黄色い花を咲かせている。


 名は灯塔夜人、十九歳。町内雇いの点灯夫、夜勤専門。


 日が暮れる頃に火を入れて回り、夜が更ける前に消えかけた灯りを見回る。帳面に書かれた役目は、それだけだ。


 だがこの町で、点灯夫はただの明かり番ではない。


 灯りの届かぬ場所には、闇が溜まる。

 闇が溜まったところには、形の定まらぬ“何か”が生まれる。


 親方は、それを「闇魍やみもう」と呼んでいた。


『火は人を照らすためだけのもんじゃねえ。闇を鎖で繋いでおく楔だ。ガス灯が消えたまま放っときゃ、そのうち町ごと喰われるぞ』


 夕刻、番屋で茶をすすりながらそう言った親方の皺だらけの顔を思い出し、夜人は肩をすくめる。


 ――今夜の巡回には、一本やっかいなガス灯がある。


 三ノ丁角の灯柱。ここしばらく、「何度火を入れてもすぐ消える」と役所に苦情が来ている筋だ。風のせいでも、ガス管の具合でもない。親方は煙管をくゆらせながら「闇魍が巣食ってやがる」と短く言い、持ち場を夜人ひとりに任せた。


 初仕事だ。心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。


 三ノ丁の路地に足を踏み入れた途端、空気がひやりと変わった。さっきまで遠くで聞こえていた芸者衆の三味線も、よその世界の音のように遠のいていく。


 両側に立つガス灯は、どれもおとなしく灯っていた。けれど、角の先だけがぽっかりと穴のように暗い。


 そこに、問題の灯柱があった。


 ほかの灯りに縁どられて、鉄の柱の輪郭だけがぼんやり浮かんでいるのに、頭のガラスの中は墨を流し込んだみたいに真っ黒だ。


「……本当に真っ暗だな」


 夜人はつぶやき、足を速めた。


 ガスの元栓を確かめ、火屋を開ける。具合を見る限り、別段おかしなところはない。油に濡れた金属の匂いと、かすかに甘いガスの匂いが鼻をつく。


「風もない、雨もない。なら、点かない理由は一つだけだろ」


 胸元から、親方に渡された小さな行灯あんどん形のお守りを取り出す。木の枠に紙障子が張られ、中には豆粒ほどの灯芯が一本だけ通っている。灯りも入っていない、ただの飾り――のはずだ。


 指先に伝わる、微かな温もりだけが、気味の悪さを増した。


 夜人は息を吐き、腰の燐寸マッチ箱を開ける。


 キイ、と火花が散る。

 細い炎が生まれ、指先に宿った。


 その炎を点灯棒の先へと移し替える。皿の上で橙色の火がちろりと揺れた。


「よし。素直に点いてくれよ」


 火屋の中に棒先を差し入れた、そのとき――


 すう、と耳の奥で風が鳴った。


 次の瞬間、皿の上の炎が、何かに吸い込まれたように細くなり、音もなく消えた。


「……え?」


 夜人は思わず声を漏らす。


 風はない。自分の息すら止めていた。なのに、炎は跡形もなく消えている。


 代わりに、足元の石畳がじわりと黒くにじんでいた。


 墨を垂らしたような黒だ。だがそれはすぐに形を変え、ゆっくりと人の影のような輪郭を取り始める。


 女とも男ともつかぬ、うずくまった姿。顔のあたりだけがぽっかり抜け落ち、空洞になっている。


 喉が鳴った。冷や汗が背中を伝う。


「……闇魍、か」


 親方が昔話のように聞かせてくれた怪異の名を、夜人は思わず口にした。


 影は、その声に応えるように、ずるりと首をもたげる。

 空洞の顔がこちらを向いた瞬間、ぞわりと冷たい闇が吹き出し、肌に張りついた。


 膝が笑いそうになる。逃げ出したい。

だが、背中にある通りを思う。ここを通る子どもや、夜更かしの帰りの誰かが、あの空洞に吸い込まれるかもしれない。


 それだけは、ごめんだ。


「……ガス灯は、消させない」


 自分に言い聞かせるように呟き、夜人は胸元の行灯をにぎりしめた。


 その瞬間、手の中で、ちり、と何かが鳴る。


 見ると、紙障子の向こう側で、豆粒ほどの灯芯がひとりでに白く光り始めていた。誰も火を入れていないのに、小さな灯りが生まれている。


「なっ……!」


 驚いている間にも、行灯からこぼれた光が、石畳の上に細い線を描き始めた。夜人の足元から、闇魍の足元へ――まるで導くように。


 影が、いやそうに身をよじる。


 怖い。怖くてたまらない。

 けれど今なら、まだ間に合う。


 夜人は点灯棒を握り直した。皿をそっと行灯の灯りに触れさせる。白い火が移る。さっきまでの頼りない炎とは違う、澄んだ光だった。


 親方の声が、脳裏によみがえる。


『怖えもんを見るんじゃねえ。照らしてえもんを、ちゃんと思え』


 夜人は息を吸い込む。

 この町の夜道、笑いながら歩く子ども、暖簾をくぐる人々。そんな光景を、むりやり心に引き寄せた。


「――導灯どうとう一閃!」


 酒の席で親方がふざけて叫んでいた言葉を、そのまま真似るように叫んでいた。自分でも馬鹿馬鹿しいと思う。だが、棒先を振り下ろした瞬間、笑っている暇はどこにもなかった。


 白い火が、刃のように走る。


 線となって闇を裂き、影の体を縦に断ち割った。空洞の顔から、声にならない悲鳴があふれ、冷たい風となって一気に吹き抜ける。


 光と闇がぶつかり合い、石畳が白く、黒く、ちらついた。


 瞼を閉じる間もなく、すべてが終わる。


 次に目を開けたとき、そこにはもう影はなかった。


 ガス灯の火屋の中で、小さな炎がちろちろと揺れている。黄色くて、頼りない、それでも確かな町の灯りだ。


「……点いたのか」


 膝から力が抜け、夜人は灯柱にもたれかかった。


 足元には、焼け焦げた細い紐が一本落ちていた。誰かの髪留めだったような、くたびれた布切れが結ばれている。


 拾い上げた途端、背後から重い足音が近づいてきた。


「――やりやがったな、小僧」


 振り向くと、親方が立っていた。いつもの半纏姿だが、顔は青ざめている。


「来てたなら、もっと早く声かけてくださいよ。心臓に悪いんですけど」

「おう? おめえに任せたんだよ。お守りも渡したろうが」


 ぶっきらぼうに言いながら、親方は夜人の胸元の行灯をじっと見つめた。小さな灯りは、まだかすかに白く光っている。


「十年前にもな……似たような夜があった」


 ぽつりと落とされた言葉に、夜人は息を呑む。


「十年前、町中の灯りが一度に消えた夜だ。あのときも、三ノ丁のこの角から始まった」


 親方の視線は、灯ったばかりのガス灯の火先を射抜いている。炎は、どこか心細げに揺れながらも、消える気配を見せなかった。


「夜人。今夜からおめえは、本当の意味で点灯夫だ。灯りを点けるだけじゃねえ。闇に名を与え、切り離す係だ」


 親方はそう告げると、焼け焦げた紐を拾い上げ、指先で確かめるように撫でた。


「十年前の話も、そのうちしてやらにゃならん。おめえには、とくに、な」


「……とくにって、どういう意味です?」


 問いかけた声を、風がさらっていく。


 真夜中のガス灯が、静かに町を照らす。

 その光の輪から一歩外れた先に、まだ見ぬ闇がいくつも潜んでいることを、このときの夜人はまだ知らなかった。

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