電車で目が合った
朝。
いつもと変わらぬ通勤電車。
吊り広告のコピーも、ため息をつくサラリーマンの姿も、昨日と同じ。
俺はイヤホンもつけず、ただ揺れに身を任せていた。
世界が灰色に見えるほど、退屈で、少しだけ憂鬱だった。
──その時だった。
ふと顔を上げると、前に座っている女性と目が合う。
その女性は光の中に浮かぶような人だった。
淡いベージュのコート、静かに伏せたまつげ。
整った横顔に、朝の光がやさしく差し込むその姿はまさに天使。
そんな女性と目が合ったのだ。
その瞬間、心臓が跳ね上がった。
音が聞こえるんじゃないかと思うほどに、激しく。
俺は慌ててスマホを取り出し、AIアシスタントのアプリを開く。
「なあ、AI。今さ、電車で美人と目が合ったんだ!
俺の青春が始まったかも。」
その問いかけにすぐに答えが返ってくる。
『青春の始まりとは断定できません。
人間は無意識に周囲を観察するため、目が合うのは
偶然である確率が高いです。
ただし、複数回視線が交差し、相手が微笑む・身振りで反応するなどの継続的サインが見られる場合、関心の可能性は上昇します。』
「もっと優しく返信して」
その機械的で辛辣な返答に、ついついそう言ってしまう。
『可能性は低いです。』
こいつはどうやら優しさが理解できないらしい。
やはり、所詮はAIだ。
「そんなの分かんないだろ!」
『目が合う行動のうち、恋愛的意図を伴う確率はおよそ3%です。』
「そんな統計あるの?」
『はい。ですので、目が合っただけで恋に発展する可能性は非常に低いです。』
AIの淡々とした回答で跳ねていた心臓が落ち着きを見せる。
「でも、低いだけでゼロじゃないだろ!」
悔しくなった俺はAIに抵抗する。
そんな俺にAIは新たな提案を示した。
『もし恋愛に発展させたい場合、行動を取る必要があります。』
「行動って?」
『今すぐ、視線をもう一度合わせ、微笑んでください。視線接触+笑顔の組み合わせは、好意認識率を
32%向上させます。』
頭では分かる。簡単な動作だ。
しかし、視線を上げようと試みるが、上手く体がついてこない。
先程落ち着いたはずの心臓が再び跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
一旦落ち着くために再びスマホに目を落とすと、AIが催促してくる。
『早くしないと彼女が降りちゃいますよ。』
それと同時に電車が減速を始めた。
彼女が耳にしていたイヤホンを外して立ち上がり、ドアの前に立つ。
(早く、早くしないと。)
大きな音を立てて、扉が開くと、人の流れに乗って彼女はホームへと歩いていく。
人混みに消えていく彼女の姿は、先程と変わらず朝の光に照らされていた。
『彼女があなたを覚えている確率はおよそ 10〜20%程度です。』
「じゃあ、俺のこと覚えてくれてるかもしれないってこと!?」
『しかし、その後再会できる確率は0.003%。』
「変に期待させるなよ!」
そんなやりとりをしていると、再び電車が動き出す。
俺の目の前には彼女の姿はなく、心臓の音だけが残っていた。
そんな俺にAIが一つのメッセージが。
『あなたは“動けなかった”という選択をしました。
それもまた、人間らしい行動です。』
俺は苦笑して、スマホをポケットに戻した。
窓の外の街は、少しだけ色を取り戻して見えた。




