悪徳女領主の最期の一日
久しぶりの短編です。
朝は、薄い霧の匂いで始まった。
窓を開けると、北境の山脈から冷えた風が降りてくる。広場の鐘はまだ鳴らない。私は水差しの水で顔を洗い、鏡に映る目の下の影を指でなぞった。
硬く結んだ意志は、まだ消えていない。私は領主――アリシア・ローヴェル。この辺境の領地すべての署名の末尾に私の名がある。
国王様は体調を崩され、昨秋の霜は麦を腐らせ、預言者は広場で叫んだ――「北から不幸を運ぶ黒い風が来る」と。形のない不安は、人の胸で育ち、出口を探す。出口は、たいてい、形を持つ誰かに向かう。
領主は、形だ。名札があり、屋敷があり、責任がある。だからこそ、押しつけやすい器でもある。
明け方の屋敷は静かだ。だが、外界は揺れ続けている。
町角には噂柱が立ち、木札に炭筆の言葉が日々増えていく。
『悪徳領主が黒い風を呼んだ』
『雨乞いが失敗した夜、屋敷の灯が消えていた』
『隣の畑の牛が病気にかかった――領主の影を見た気がする』
『恋人が去った。領主のせいだ。みんなもそう言っている』
『噂を止めるのは自由を奪うことだ』
名前はない。誰の言葉でもない軽い言葉は、綿毛のようにどこまでも飛んでいく。そして、その種子は私の断罪という花を咲かせた。
広場の裁き台での審理が決まったのは昨日だ。罪状は――「不作の元凶」「国王暗殺の陰謀」「民心の不安定化」「巫女の予言の妨害」「某と某の恋の破綻」。最後の一つを読んだとき、私はさすがに笑ってしまった。しかし、それがこの街の今の真実だ。おかしいと知りながら止めない、そんな空気がいちばん重い。
朝食は、パンと塩だけにした。味覚は正直だ。塩は塩、パンはパン。今から向き合う「言葉」より、ずっと正直だ。
扉を開ける前に、廊下の向こうから足音が重なって聞こえた。執事長、侍女長、馬丁、料理長、洗濯女、文官、庭師――屋敷のすべての手がそこにあった。彼らは一斉に膝を折り、私より先に口を開く。
侍女長のモナは髪をきっちり結い上げ、細い指でエプロンの端を握りしめていた。普段は凛として張りのある声の彼女が、今日はかすれ気味だ。
「お嬢様、どうか行かないでください。こんな裁き、正しくありません。……お願いです」
執事長のトマスは古い帳簿の匂いをまとい、背筋をまっすぐに伸ばしていた。額の皺は、幾つもの冬を越えた線だ。
「正当性のない裁きです。領民の前に出る必要など、どこにもありません。ここに籠もれば一月は持ち堪えられます」
衛兵隊長は片袖に継ぎがあり、盾の縁には幾つもの傷がついている。小さな部下を庇う癖のある男だ。
「我らが塞ぎます。門も、道も、広場も。今だけ屋敷を要塞に。殿はこの身に」
料理長ヘルダは大きな掌をぎゅっと結び、台所の香りを連れてきた。洗濯場のイーダは濡れた指で前掛けを絞り、馬丁のカムは帽子を胸に当てている。文官ルイスは震える手で紙束を抱え、庭師オルソは土のついた帽子をとった。
私は皆を見回した。ひとりひとりの手に、私が積み上げてきた日々が乗っている。雨の日に傘を持って走った手。毒草の根を抜いた手。帳面に数字を写した手。私を支えてきたのは、いつだって彼らの働きだった。彼らが信じる「私」を、私自身が裏切るわけにはいかないと思った。
「ありがとう。けれど、私は領主よ」
言葉が落ちると、空気が揺れた。怒りでも涙でもなく、諦めに似た誇りが広間に満ちる。私は続ける。
「領主は、最後に人前で責任を引き受ける役。たとえ茶番でも、空虚でも、そこから逃げる顔を私は持っていない」
モナが、初めて堰を切ったように声を荒げた。
「なぜですか。なぜ、なぜ……! 誠実に働いてきた姿を私たちは見てきました。治安の維持、交易網の整備、孤児院の薪も、病の夜の見回りも、心の支えも!」
その言葉に、どうしようもなく礼を言いたくなった。彼らが見てきた「私」は確かに私だ。だが同時に、広場の空気が作り上げた「悪徳領主」も、いまこの瞬間、現実の力を帯びている。ここで言い訳を並べれば、空気は別の弱い肩へと流れるだろう。次に狙われるのは子どもか……目の前の使用人たちかもしれない。ならば器は、いま一度ここで、すべてを引き受けるべきだった。
「私が名札を持っているから。名前のついた器は、時に“的”になる。無名の悪意は、器に向かう。……ならば器は、最後まで形を保つべきだ」
私の言葉にモナが首を振った。強情な目が、濡れている。
「そんな……どんなに丈夫な器でも、壊れてしまえば取り返しがつかないんです!……どうか、ここで差し出さないでください」
トマスは喉を震わせ、低い声で言う。
「時間はたいてい、我らの味方です。ですから、今一度お考え直しを」
皆の体温が、私の背骨に重なる。私は短く指示を配った。
「……トマス、門限と夜の灯を整えて。ルイス、布告文を用意。オルソ、広場までの溝の確認。モナ、今日のことを人に語る時は事実だけでいい。イーダ、医療庫の帳尻を。カム、厩の片耳の栗毛を陽の入るところへ。ヘルダ、帰ったら薄めの甘いものをひとつ」
それから、皆の顔を順に見た。
「留守を頼む。私は逃げないけれど、戻るつもりで行く。——また、ただいまを言わせてくれ」
広間の空気が、かすかに震えた。
ヘルダが、包みを胸に抱いたまま一歩進む。布の中にはパンと干し肉、蜂蜜。旅装のためではない。帰りのための包みだ。
「……いってらっしゃいませ」
誰かがそう言った。続けて、皆が声を揃える。
「お帰りをお待ちしております。いってらっしゃいませ」
胸が痛む。けれど、その痛みは前に押す力になった。私は踵を返し、門へ向かった。
◇
馬車は出さず、歩いて広場に向かった。道の両側の軒先に、木札が揺れる。炭の字は濃淡さまざま。
『領主の顔を見ると牛が乳を出さない』
『領主は隣国の味方らしい』
『領主は苦しんでいる私たちを見て笑っていた気がする』
『領主は不幸を運ぶ商人だ』
表情が引き攣りそうになるのを抑え、歩を進める。
広場の階段を上がる。処刑台の隣に裁き台。木の椅子が三つ。中央に黒衣の裁判官。彼は私を見ると片手で合図し、役人に縄を絞めるよう指示した。縄は手首の後ろで結ばれている。
広場の周囲には、人の層が幾重にも重なっていたが、その顔は見えない。まるで霧がかかっているように。
「領主アリシア・ローヴェル。告発は多岐にわたる」と書記が読み上げる。
「一、不作の元凶として民の食卓を枯らしたること。
一、国王様への暗殺未遂の疑い。
一、巫女の予言を妨害し神意を曲げたること。
一、民心を不安定にし家々の不和を招きたること。
一、某と某の恋の破綻――」
ざわ、と笑いが起きた。誰かの緊張を薄める笑い。誰かの罪悪感を水で割る笑い。刃は笑いより沈黙に住む。
「これらの罪状を認めるか」と裁判官。
「弁明はない」と私は言い切る。
風がひと筋、頬を撫でる。黒衣の裁判官は目を細め、低く抑えた声で言う。
「……あなたに落ち度はない。この文言の多くは正義なき裁きだ。私は職務として問う。――なぜ、黙る」
私の代わりに誰かが的になる。それだけは見たくなかった。それに私は領主だ。人の機嫌ではなく、人の暮らしを見て決めてきた。
「いくら私自身が領主として勤めてきたと思っていても、事実として私はこの場に立っている。それが領民の意思であるなら、受け入れねばならない」
「意思? この沈黙が?」
「沈黙も意思になる。空気が票を持つ。誰も手を挙げないことが、手を挙げるより重くなる時がある」
裁判官は歯を食いしばった。
「――ならば、あなた自身の意思はどこへ行く」
私が選ぶのは「便利な真実」ではなく「必要な役」。
「ここにある。私が悪役になることで、皆が健やかに眠れるなら、私はここで悪役として生を終える」
「それは……」
しばしの沈黙が流れるが、ふと風が吹き、髪の端が頬に触れる。広場のどこかで、子どもの靴が石をこすった音がした。気配が、すこしだけ変わる。
「ねぇ――」
声は小さかった。けれど、小さいからこそ広場の中心に落ちた。人の層が割れ、栗色の髪の女の子が一歩前へ。膝に白い包帯。両手はぎゅっと握られている。
「どうして、領主様の手を縛って……みんなで笑ってるの?」
裁判官は沈黙し、書記は次の巻物を広げかけて止めた。人々はなお中止を求める声を上げない。多くが、心の奥で「これはおかしい」と知りながら、空気に口を塞がれている。次は自分が標的になるかもしれない。その恐れが、目を伏せさせていた。
ざわつきが別の音に変わる。誰かが笑って誤魔化そうとして、うまくいかない。
「冬のとき、スープもらった。弟、お腹が鳴ったときはパンもくれた。友達とケンカしちゃったときは、絵本を読んでくれて仲直りできた。……領主様、悪い人?」
そのまっすぐが、空気を刺した。刺された空気は逃げ場所を探すが、見つからない。
女の子の手が、包帯の端を握りしめる。「……これ、転んで怪我したとき、医療庫からお薬もらった。領主様の印があって、その印があると、怖くないって、そう思えたの」
沈黙が、沈黙の役目を忘れる。人の層の後ろから、年老いた男が歩み出た。手は土の色、爪に泥。声を出す前に、ひとつ息を吐く。
「俺は……夜、噂柱の前で人が集まるのが好きだった。『領主が悪い』って書くと、みんなが笑う。怖い話が、娯楽になる。楽だった。楽に逃げたのは俺だ。誰かを殴る代わりに木を殴った気になってた。恥ずべき行為だ……」
若い母親が上着を握りしめ、目を伏せながら続く。
「不安をどこに置けばいいか、わからなかった。『領主のせい』って書けば、少し眠れた。……眠るために、あなたを使った。違うと頭ではわかってたのに……指が止まらなかった。ごめんなさいじゃ足りないけれど……ごめんなさい」
粉だらけの前掛けのパン屋は、帽子を脱いだ。
「売れない朝、『領主のせいで小麦が湿る』って冗談を言った。笑いが客寄せになった。商売に噂を混ぜた。……俺は……人の心より数字を選んだんだ」
医師の見習いが杖をとんとんと鳴らす。
「病の理由を言い切れば家族は落ち着く。だから『領主のせい』って、診断の代わりに言った。……医者にあるまじき怠慢です」
言葉は互いに形を変え、謝罪という単語より先に、自分の弱さの説明が続く。半分の娯楽、半分の恐怖、全部の怠慢。その一つひとつに顔が生まれるたび、空気の影が薄れていった。
その時、別の声が割り込んだ。角刈りの男が腕を組み、強い声で叫ぶ。
「でっ!でもよ、皆がやってたんだぜ!皆が!」
裁判官は正面から返した。
「――名を名乗りなさい」
男は舌打ちして目をそらす。裁判官は続けた。
「この広場で言葉を放つ者は、名を名乗れ。書記、名板を」
書記が急ぎ板と炭を持って走る。裁判官は掲げた。
「今ここで『中止を求める声』を上げる者は、この板に名を書き、責任を負え。『続行を望む者』も同じだ。沈黙は、もう票にならない」
人垣がざわめく。足が前に出ない者、腕を組む者、目を閉じる者。最初に歩いたのは、さっきの女の子だった。小さな文字で自分の名を書いてから、『中止』の欄に丸を付ける――リナ。
老いた男が続き、パン屋が続き、母親が続く。列は短い。だが、動き始めた。
一方で、腕を組んだまま動かない者もいる。「次にこの空気に狙われるのは自分かもしれない」という恐れが、足首に石を結んでいた。
私は縄の内側で呼吸を整える。裁判官は名板を前に置き、静かに宣言した。
「この場は今から公議へ移る。多数決ではない。名の重さを見届ける」
『続行』の欄にも、幾つか名前が刻まれた。顔がある反対は、空気のそれよりずっと静かな音を立てる。それでも、反対は反対だ。
沈黙を破ったのは、別の方向からの声だった。巫女の付き人の青年が杖をつき、前へ出る。
「……予言の夜、巫女は熱を出していた。私は『今日はやめよう』と言ったが、周りの大人が『民は予言を望んでいる』と。巫女は泣きながら外に出た。……領主様は、『戻りなさい』と言ってくれた。後日、木札には領主様が予言の妨害をしたという内容が書かれていたが、私は……怖くて訂正できなかった。あろうことか、皆と一緒にあなたを責めた。……中止に名を書きます。これで許されるとは思わない。一から始め直すために書かせてください」
名が増える。石畳に落ちる足音が、だんだん揃っていく。反対の欄にも二、三の名が刻まれたが、彼らは顔を上げていた。空気の影ではない。
裁判官は、もう一度、私を見た。黒衣の内側で拳がわずかに動く。
「今日、影は名になった。名は重さになり、重さは責任になった。――広場は、ようやく人の場になった」
「公議の結果、この場は裁きの体を成さず。――領主アリシア・ローヴェル、無罪」
広場に拍手が起きた。雨だれのようにまばらに始まり、やがてそれぞれの胸の鼓動に合う速さで続く拍手。歓声ではない。私と、そして自分に向ける音だった。縄が解かれる。手首の皮膚に走る刺すような痛みが、まだ生きていることを知らせる。私は浅く頭を下げ、髪を耳にかけた。耳の後ろで汗が冷えた。壇から降りる段差で、リナの小さな手が私の袖をそっと摘まむ。私は微笑み、ほんの少しだけ頷いた。
裁判官が近づき、小声で問う。
「あなたは、本当に悪役になるつもりだったのか」
「……ええ。役は、空気を流す。誰かの喉が詰まっているなら、喉に指を入れる役がいる。……でも、今日は違ったみたいね」
「それでも、あなたが死ぬ必要はない」
「……ええ」
私は息を吐いた。今日は死なずに済んだ。けれど、空気はまた育つ。だから私は、もう一度立つだろう。別の役として。
◇
広場を出ると、帰り道は行きより長くなった。足取りが重いのではない。耳に入る言葉が、重さを取り戻していたからだ。
「領主様……ごめんなさい」「あの……」「さっき、名を書きました」「いつも、ありがとうございます」
年配の女は、私の腕に短い布を巻いた。
「縄の跡、沁みるから。塩水で拭くといいよ」
角刈りの男が遠巻きに立っていた。目が合うと、帽子を脱ぎ、短く頭を下げる。言葉はなかった。けれど、言葉の代わりに顔があった。
噂柱の前を通る。古い木札は外され、大工が新しい板を打ちつけている。炭の字が走るたび、板の木目が光を吸う。
『言葉には責任をもつこと』
『中傷は掲示不可――言葉は別の形で』
職人が振り返って笑った。
「領主様、文言はこれで?」
私は口角をわずかに上げる。これなら、あの綿毛は刃になりにくい。
「ええ。ただ……今度は処刑につながるような見出しは、勘弁してほしいわ」
職人たちが少し申し訳なさそうに笑う。私は軽く会釈して、屋敷への道を歩き出した。
門が見えるころには、夕陽が屋根に赤い線を引いていた。屋敷の門はゆっくり開き、使用人たちが総出で並ぶ。顔が濡れている。泣いているのを隠すのは礼儀だが、今日は礼儀はいらない。
「おかえりなさいませ!」「よくご無事で……!」
最初に駆けてきたのはモナだ。私の前でぴたりと止まり、震える指で私の襟の曲がりを直す。
「……戻って、きてくださって、ありがとうございます」
言葉の端がほどけ、短い嗚咽に変わった。
トマスは無言で白い布を差し出す。手首の縄跡に当てると、ひやりとした。
「敷居は三度蜜蝋で磨いておきました。再び跨いでいただくために」
カムが私の肩に薄い外套をかける。
「もう冷えます。……皆、首を長くしてました」
オルソは静かに一言。
「信じてお待ちしておりましたよ」
台所の方から、ヘルダが小鍋の蓋を少しだけ上げて見せた。湯気が甘い玉ねぎの匂いを運んでくる。
「味見は……お戻りになった方の役目です」
洗濯場のイーダは、私の袖口の灰色の汚れを指先でつまみ、笑った。
「今日の分は綺麗さっぱり落ちますからご安心を」
文官ルイスは大げさに咳払いして、封のない帳面を掲げる。
「ここに空白の頁を残しておきました。本日の帰還の記録で埋めます」
誰かが小さな鈴を鳴らした。澄んだ音が一度だけ跳ね、胸の固さをほどく。
私は久しぶりに、胸の奥から笑えた。
「——悪徳領主は、もう処刑されたよ」
皆が目を見開く。私は続けた。
「民衆の悪意で作られた像は、広場で死んだ。私は残った。名前のあるほうの私が」
笑いと嗚咽がいっしょに零れる。誰かが「よかった」と言い、誰かが「知ってた」と強がり、誰かがただ頷いた。
モナが袖を摘み、短く礼をする。
「湯も、浅く張ってあります。眠る前に、手首を」
トマスが目を押さえる。
「まずは、夕餉の支度を。帰りの包み、今度はほどきましょう」
私はうなずいた。
「ほどいて、また片付けよう」
誰かが笑う。笑いは連鎖し、玄関の石段まであたたかくなる。
「料理長、スープは?」
「玉ねぎと鶏。今日は塩を少し多めに。涙で薄まっても大丈夫なように」
笑いが、やさしく広がる。私は敷居をまたぎ、靴を脱いだ。踵の泥が落ちる音が、現実に戻る合図みたいに。
◇
夜。机に向かい、灯を落とす。窓辺で風が白いカーテンを持ち上げる。私は一枚の紙だけを取り出し、自分自身への手紙を書く。
――明日の私へ。
空気に押し流されそうになったら、手を動かしなさい。見回り、数字、道具、段取り。言葉より先に、暮らしを整えること。
――泣いたら、塩を足しなさい。スープにも、判断にも。甘やかさず、薄めないこと。
――名のない言葉に刺されたら、向き合いなさい。誰の言葉か、どうしてその言葉が生まれたのか。影のままにしないこと。
――怒りは提案に変えなさい。否だけで終わらせず、代案を机に置くこと。
――怖い時は、一晩寝なさい。明かりを弱め、呼吸を数え、朝の光で決め直すこと。
――そして、私が「悪役」を引き受けたくなったら、その役が本当に誰かの喉の通り道になっているか確かめなさい。なっていないのなら、役を降りる勇気を。
ペン先を置くと、外で小さく雨が降り始めた。屋根の上で、雨樋がちゃんと機能している音がする。庭の土は静かに水を吸う。北の黒い風は、今夜はただの夜風だ。
寝台に横になり、手紙を枕元に置く。
悪徳領主としての最期の一日は、こうして終わる。
残った私は、名を持って、明日を始める。