火輪
★放火、火災のシーンがあります。苦手な方はご注意ください。
朝陽が昇る前の暗闇の中に、炎が揺らめいた。
赤い穂先を伸ばして壁を這い昇り、木造のお堂を染めて飲み込んでゆく。
このところ雨が降っていなかった。
空気が乾燥している中で蝋燭から落ち葉に移した火は、飢えた餓鬼のごとくに瞬く間にお堂を食らい尽くす。圧倒的な赤黒い火焔。
あっついなぁ……。
すべてを焼き尽くして、白い灰に還すために勢いを増してゆく。その火焔の中に沈んで燃えゆくお堂は、やがて崩れ落ちてすべて消えてゆくのだろう。
周囲の闇を払う赤黒い炎はとても恐ろしく、そして、それと同じくらいに綺麗に思えた。現世の理不尽さや苦しみを燃やし尽くして、浄化してゆくようだ。
それは不動明王の背負う炎を想起させた。しばらくの間それを瞳に映していた四郎は、自分の使命を成し遂げたように思えて高揚していた。渦を巻きながら天を目指す、目の前の業火のように。
「なんじゃこれゃ!? お堂から火が出とるで!?」
「火事や! 早う皆に知らせや!」
早朝の井戸からの水汲みと境内の掃除にやってきた寺男たちの叫び声に我に返る。
四郎は一目散に駆け出し、その場から逃げだした。後ろで寺男たちが「誰じゃ!?」と叫んだような気がしたが、振り返らなかった。
*
古い燭台に差した蝋燭の灯り。その火が消えないように、ゆっくりと田んぼの土手を歩いた。
蝋燭の橙色の火は、四郎が歩く度に左右に細かく動く。
冬の早朝はまだ夜の真ん中のようだ。
擦りきれた薄い布になってしまった、兄のお下がりの粗末な上着の襟元を合わせる。同じ様に擦りきれた着物の裾を片手で直しながら歩く。それでも暖かくはならないが、着ているだけましだった。
四郎が草鞋で踏みしめる土手の土は乾いていた。
左右に広がる空の田んぼは、村人たちが地主から借りている。地主は観音寺の当代であり、村の長でもある。村一番の旧家であり、土地も金もある。そして観音寺のご本尊の聖観音様に守られている。
うちとはなにもかも大違いやな……。いくら拝んでも拝んでも、わしらには……なにもしてくれん。
四郎は自らを笑うように唇を上げた。
近くを流れる川から引いてくる水を流す用水路の底には、薄い氷が膜のように張っていた。
息を吐くと、身体の芯から凍えそうな冷たい空気の中に放たれて白くなる。それが蝋燭の灯りに微かに浮かぶ。頬も耳も氷のような空気に容赦なく晒される。
……こんなバチ当たりなことをして、本当にいいのんか?
胸の内の声に、燭台を持つ指が震えた。
いいに決まっとる。なにもしてくれんもんが、バチだけ当てるなんてそげなおかしな話がどこにある。
頭の中で内から語る声を否定する。
村の守り神様だとばっちゃんも言ってたけ。『観音様はわしらをお救いくださるよって、大事に奉らんといけん』。忘れたんか?
すぐさま、胸の内の声が反論した。
せやけど、当代様ん家ばっかりや。わしらがいくら拝んでも、栄えるのは、いい目をみるのは当代様ん家やほかばかりやぞ。いつや。いつわしらを救ってくれるんじゃ。
……いつかじゃ。
いつかっていつじゃ!? 救ってほしいときに救ってくれなくてなにが守り神様じゃ!
四郎の目に熱いものが込み上げた。
歪んだ視界を上着の袖口で雑に拭う。
目蓋に浮かんだのは母、キヨの弱々しく笑っていた顔。その頬は病のために痩けて、まるで皮が張り付いただけの骸骨のようだった。そして兄、次郎が村を出て働きに行くことを決めたときにみせた、同じ年の生まれの当代様の息子への羨望の眼差し。もらわれていった妹、サヨの小さな手。兄の一郎、三郎は幼くして世を去っていた。父親の徳二も数年前の流行り病であっけなく亡くなった。
今度は胸の内なる声は応えることはなかった。
ひゅっと風が吹きさらし、蝋燭の火はその風に消えた。
小さな明かりながらも光りを頼っていた目は、一瞬、早朝の闇の中でなにも見えなくなる。四郎はびくりと立ち止まり、闇に目が慣れるのを待った。寒さのためにその場で数回足踏みをする。少しずつ目が慣れてくると、秋の収穫が終わった田んぼは、ぼんやりと形を成していた。
四郎はまた土手を歩き出す。
このまま真っ直ぐに歩けば観音寺の裏手に突き当たる。
四郎の生きる世界と、当代様たちが暮らす世界を分けるように立つ銀杏の大樹。その木々を抜けるとお堂の裏手に出ることを知っている。何度も何度も通った道だった。
お堂の前に立って上着の袂に手を入れる。くしゃくしゃに皺枯れた燐枝箱に触れた。ひと箱を大事に大事に使っているために、箱の外側の紙は毛羽立ち、よれて柔らかくなっている。震える手で四郎は慎重に燐枝を引き出した。手が震えるのは寒さのためばかりではない。
しゅっ。
軸先を箱の横に擦る。たちまち小さい火と白い煙が上がった。特有の匂いが鼻を刺激する。
風を防ぐことができる壁の張り出しの陰に置いた燭台。そこに差した蝋燭の先に燐枝を近づけて火を分けた。
火の消えかけた燐枝はそのまま、お堂の壁に投げて捨てた。燃えかすと煙の匂いは、冷たい冬の匂いと混じって鼻の奥に残る。
燭台を置いたままで、お堂の脇にこんもりと積まれている銀杏の落ち葉に手を入れた。なるべく乾燥してかさかさとする感触の葉を両手で抱えると、壁に沿って積み上げた。
……やるぞ。やるぞ。……いいんじゃな。
胸の内なる声はなにも言わない。
四郎は燭台を手に取り、ゆっくりと下の枯れ葉から順番に火を移してゆく。
まだ渇きが足りない葉には火が乗らなかった。縁を焦がして黒くするだけ。かさかさとした枯れ葉にはすぐに火がついた。滑らかに上へ上へと昇る細い赤は、獲物を探してちろちろと動く蛇の舌のようだ。
いくつかに火を移す。合わさり、天へと帰る龍のように膨らんでゆく赤は、瞬く間に壁を駆け昇った。
*
寺男たちに見つかり、四郎は逃げだした。
来たときと同じように銀杏の大樹の隙間を走り抜けて、もと来た土手を走って走って、喉と肺が痛くなっても走り続けた。
土手はいつの間にか、村の後方に位置する小高い丘を登る道に変わっていた。
追いかけてくる者がないかと坂道の途中で振り返る。すると木々の隙間から、村を照らすような赤い炎が小さく見えた。
四郎は目を見開いて立ち止まり、そしてまた走り出す。
坂道をひと息に駆け登ると、村を一望できる開けた場所に出る。四郎は荒い息をつき、村の中央に目を凝らした。
赤く赤く昏く昏く禍々しく燃え上がる観音寺。
それはまるで、深い夜を招きながら地の底に沈んでゆく太陽のようだった。
走って汗ばんだ身体から、冷たい空気は熱を奪ってゆく。四郎はぶるっと身震いをすると、己の両腕で煙の匂いが染みた身体を抱きしめた。
頬を熱いものが伝ってゆく。しばらく落ちるにまかせてから四郎は膝をつき、声を上げて涙を流した。
やがて東の平野から空が白み、雲を橙色に染め始めても、四郎はそのまま声を上げて泣き続けていた。
明治二十年 十二月
観音寺、火災に見舞われしも本尊は焼失を免れり。これ幸と云ふべし。
―― 八井郡誌 加田村 ――
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