正直者
その日の夜、ライトが2階で深い寝息を立て始めたころ、村田とグレイスは長机を挟んで静かなダイニングルームに座っていた。
木製のランプがぽつんと机の中央に置かれ、淡い灯りが室内を柔らかく包み込んでいる。
村田は椅子に深く腰を下ろしながら、冷えた水の入った木製のカップを指でなぞる。
どこか落ち着く雰囲気ではあるが、頭の中はまだ混乱と疑問でいっぱいだった。
会話の中で、グレイスが過去にメガラニアという国で医者として働いていたこと、現在もこの街の診療所で医者として活動していることを聞いた。
「そういえば村田さんはどちらから来られたんですか?」
グレイスは冷たい水を口に運びながら、穏やかな声で尋ねた。
その仕草には余裕があり、長年医師として多くの人と向き合ってきた人物特有の落ち着きがあった。
村田は少し眉をひそめ、思案の色を浮かべながら頭を掻いた。
「えぇと、質問に質問を返すようで恐縮なんですが、ここって..どこなんですか?」
どう質問したらいいかよくわからず、あいまいな問いとなってしまう
グレイスは若干首をかしげながらも、特に怪しむ様子もなく答える。
「ここですか?ここはパシフィス王国南西部の沿岸沿いに位置する、イファスアの街ですね」
(パシフィス王国..聞いたことが無い国だ)
村田は記憶をたどるが、思い当たる節がまったくない。
世界地図を思い浮かべても、それらしい国の名前は出てこない。
村田の疑問は深まるばかりだった
「あの、ではこの..パシフィス王国が位置する大陸の名前って何ですか?」
「..?」
グレイスは少しだけ考え込むように視線を宙に漂わせ、間を置いてから答えた。
「それは、『アドリア大陸』ですが..もしや村田さん、この大陸について何もご存じないのですか?」
グレイスの表情に、僅かに驚きが混じる。
村田の心臓が強く脈打った。
想像はしていたが、実際に明確な答えが返ってくると、それは確信へと変わる。
(やっぱり..ここは俺の知ってる世界じゃない)
喉が乾き、手に持ったカップを握る指先に無駄な力が入る。
グレイスはすでに、村田の表情の変化を敏感に察しているようだった。
短い思考の末、村田は意を決して口を開く。
「あの、信じていただけるとは思っていませんが、私は恐らく..この大陸の外から来たんだと思います」
村田の声は、予想以上に落ち着いていた。
自分でも驚くほど冷静な口調だったが、内心では心臓がバクバクと跳ねている。
グレイスはその言葉を聞くと、一瞬だけ目を細めた。
だが、驚きの色は薄く、むしろ淡々とした態度だった。
「..冗談を、言っているわけではなさそうですね」
グレイスの視線が村田をまっすぐに捉えたまま、静かに水を口に運ぶ。
その仕草は悠然としていて、まるで長年診察をしてきた医者が患者の様子をじっくりと見極めているようだった。
「確かに、ちょっとこの場所には合わない服装をされていますし、どことなく私たちと顔の特徴も異なるように見受けられます」
グレイスの言葉に、村田は思わず視線を落とす。
着ているのは、明らかにこの世界のものとは異なる布地のシャツとパンツ。
無意識のうちに、指先で裾をつまんで確かめる。
村田は意を決して、問いを口にした。
「信じて..くれるんですか?」
グレイスは、ふっと優しく微笑んだ。
その笑みは、まるで「そんなことを気にする必要はない」とでも言いたげな、どこまでも穏やかなものだった。
「信じますよ。ちょっと話せばどういう人柄かはわかります、村田さんは嘘が吐けない人でしょう?」
その言葉に、村田は一瞬固まった。
図星を突かれたような感覚が背筋を駆け抜ける。
グレイスはクスリと笑い、カップを机に置いた。
「医者というのは、嘘をつく人間をたくさん見てきました。体調が悪いのに"大丈夫"と強がる人、心配をかけまいと真実を隠す人」
村田に視線を合わせ
「でも、あなたの話し方や目の動きから見て、あなたが何かを偽ろうとしているようには見えません」
村田は少し口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
彼の言葉に反論する余地がないからだ。
小さく息を吸い込み、静かに口を開く。
「流石ですね..」
それが、やっと出てきた言葉だった。
すると、グレイスは表情を改め、真剣な目つきで村田を見つめた。
さっきまでの穏やかな笑顔は消え、代わりに何かを決断するような、深く考え抜いた者の顔になっている。
「今村田さんが欲しいのはこの大陸についての情報ですね。私が知っている限りではありますが、お話しましょう」
その言葉に、村田は思わず背筋を伸ばす。
胸の奥が高鳴るのを感じながらも、深く頷いた。