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多恵さん 旅に出る Ⅵ  作者: 福富 小雪
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友人と日光へスケッチ旅に出かけた多恵さん、男児と心中した女子中学生の幽霊に出会うが・・

 2月を過ぎて徐々にホッとできる日が増えて来てはいるが、早春の女神は意地悪で油断している人々に大雪なぞと言う、大人には余り嬉しくないものをプレゼントしてくれる。それにコロナは一向に収まる気配を見せてくれない。しかし今年は疲弊しきった人々に憐れみを感じ取ったのか、雪は殆ど降らなかったし、桜も早く咲きそうだ。

多恵さんの一人娘も今年、中学生になるため、その前に1度だけ説明会が開かれた。勿論マスク消毒、椅子は互いに2メートル以上開けてである。おまけにまだ2月、それも早春の冷たすぎる風が吹きすさぶ日に窓全開で執り行われた。本来は2,3回はあるらしいが、コロナ禍の下ではそうもいかず、最低限の回数で済んだのだ。何しろ卒業式や入学式も取りやめになった学校もあったと来ているから、この位は良い方なのかもしれない。

制服、体操着やカバン、髪の色、長さや形に至るまで細々とした注意がある。どうして日本の学校はこう煩いのか、と多恵さんは思う。

でもそれに文句言う人は全然見当たらず、へいへいそうですか、畏まりましたと拝聴するのみ。ここでそれは可笑しいと声を上げれば、自分ではなく子供に害が及ぶと皆分かっているのだ。早く教員ではなく、教育委員のお偉方が自分達の頭の固さ、良識の狭さに気が付いてくれることを待ち望むしか術がないのだ。

 「今年は桜が早いのねえ」と多恵さん六色沼を覗き込みながらつぶやく。

「本当だ、もう5分か6部位咲いてるかな」大樹さんも多恵さんの言葉に誘われて覗き込む。

「でも、今年も花見は禁止らしいわ」

「ま、静かではある」

「わあ、天気良いのねえ、ちょっと出かけようかな」奥にいたはずの真理ちゃんが二人の横に並んでいる。

「そうね、コロナだからと言って内の中に閉じこもっていたんじゃ、体がおかしくなちゃうわ。みんなと少し出かけて来たら。きっとお隣の武志君もうんざりしてるわ」

「わたし、武志君にお願いしてることが有るの」

「へえ、一体なあに」多恵さんが聞く。

「内緒、でも心配するようなことではないわ」

「心配はしてないけど・・・」

「パパも真理を信用してるから心配なんかしてないさ。でも少し興味はあるけどね」と大樹さん。

「まあ、何時か話す時があるかも知れないけど、今は内緒なの、絶対」

「フフフ、マスクを付けるのを忘れずに出かけなさい。みんな待ってるんでしょう」

「うん、じゃあ、行ってくるか。必ず成果を上げて来るぞよ」

「ハイハイ、頑張ってね」

真理ちゃんは出かけ、多恵さんと大樹さんは又二人になった。

「出かけないの?」と大樹さんが尋ねる。

「え、何処へ」多恵さんは聞き返す。

「スケッチ旅行にさ。天気は良いし、花が咲いてスケッチには最高だと思うけど」

「そうよね、でもそれは誰にとっても最高なのよね。どこも彼処もこのコロナであっても人が多いわ。特に春休みが重なってるし。だから出かけるとしたらゴールデン開けね、大樹さんが良ければの話しだけど構わない?」

「僕は少しも構わないよ。出かけるとしたら、今度は何処へ行くつもり」

「そうねえ、日光にしようかな。花をテーマにするのが得意な人がいて、5月頃中禅寺湖の周りに咲く、ヤシオツツジがとても綺麗だから是非一緒に行かないかと誘われてんの」

「ああ、ヤシオツツジねえ、薄紫の優しい風情の花だよね、君にぴったりだよ」

「まあ嬉しい事言って。お昼は何か美味しい物作りましょうか?と言っても焼きそばの用意しかしてないけど」

「君の作る焼きそばは最高さ、ハハハ」

「真理が帰って来たら春山公園にでも出かけない?もう中学生になってしまったら、中々一緒に出掛けることも無くなってしまうと思うので、これが最後と心に言い聞かせてね。そうだ真理のお友達も誘って行きましょうよ。何か今の内にお菓子や飲み物など買って来るわ」

帰って来た真理ちゃんは直ぐに電話で友達に電話を入れ、女二人と、隣の武志君を含めて男3人の友人をかき集めて2時出発する事に決められた.

その春山公園も春休みと云う事もあり、遠出は自粛の雰囲気の中、近場で広くてお金もかからない、桜もちらほらのありがたい場所として大人気なのだ。

子供たちはボール遊びや(真理ちゃんには少し不満、いや、大いに不満!)公園の大冒険(?)で大騒ぎをしている。真理さんはスケッチをし、大樹さんは子供たちを見たり、持ってきた小難しい本を読んだり時折、愛おしそうに多恵さんの絵を覗き込んだりしている。

 真理ちゃんの春休みも終わって、いよいよ新中学生としての生活が始まる。所が、その真理ちゃんがおかしい。聞けば演劇部に友人に誘われ一応入部したようなしないような状態だとか。と言うのも、そこはとても恐ろしいクラブだとみんなの噂になっている。入部を中止したいのだが、その顧問になっているのがホームルームの山岡先生だとかで断り切れない。どうか両親が反対してると言う事で脱出させてくれと言う。どうやら、真理の嫌いな体力作りをさせているのだとか。でも待てよ、真理にはこれからの事を考えると、体力作りは願ったりかなったりではないか、と言う訳で、その山岡先生と協議した結果、真理はその体力増強演劇部に入部した上、台本まで引き受けさせられる事と相成った。

それともう一つ、今まで多恵さん達をママ、パパと呼んでいたのが、お母さん、お父さんに変わったのだ。多恵さん、何時かはそうなるだろうと覚悟はしてたものの、大いにショックだった。

そうやって4月は過ぎて行った。

「ねえ、日光のスケッチ旅行どうする?」と同じ絵の団体の柏木さんから電話があった。

「ええ、行きたいわ。花も木々も萌えいずる日光の遅い春、ヤシオツツジも麗しく待っているかも知れないけど、木々の新緑や若芽の微妙な色も心惹かれるわあ」

「男体山も中禅寺湖、滝も、それに戦場ヶ原、みんな暗い冬から抜け出て輝きを増す時よ。行かない手はないわ」

「5月の中旬過ぎ位が良いんじゃないかしら。でもわたしはせいぜい1泊しか出来なくてよ」

「まあ、家族持ちは仕方ないわね。でも早めに出発すれば十分回れると思うから大丈夫よ」

「そうね、そうしましょう」

「この頃はコロナの所為で観光客がググっと減ってるから、料金も抑え気味だし、宿も取りやすいわ。それにとても親切」

二人で話し合った結果、1日目は中禅寺湖を中心に西湖あたりを描くことに決め、小田代ヶ原、戦場ヶ原は2日目と言う事になった。

宿は中禅寺湖畔にあるホテルが彼女の推薦で決まった。

「前はね、民宿を利用してたのだけど,余りこの頃は料金に差がなくなって、このホテルが安い割にサービスが行き届いてお気に入りなの」

「そうなの、あなたは日光には良く行ってるから頼りにしてるわ」

 所で愛しの幽霊さん達はどうしているかと言うと、実は多恵さんは気付いていたのだ。彼らがコロナ下で何時もなら桜の花見客でごった返す六色沼には、まばらな人影しかいないのを幸いに、連日連夜、桜を見る会と称して、酒盛り、宴会をしていたのを。正しく俺達幽霊はこれ以上死ぬこともなければ、勉強は一応やってるけども、試験もないし、急かす人もいない。酒もご馳走も何処から仕入れて来たのかは不明だけれど、好きなだけある。彼らに言わせれば、ここが自分たちに一番ぴったりの場所なのだとか。

たまたま一人で六色沼を訪れた多恵さんに杉山君が話しかけて来た。

「お久しぶりです、河原崎さん、今日は珍しく一人なんですね」

「ええ、大樹さんは大学に行き始めたし、娘はどうやら中学生生活にも慣れて来始めたので、少しほっとしてここに来てみたくなったのよ。別にあなた方の・・今はツツジを見る会かしら、その宴会に加わりに来た訳じゃないのよ」

「ヘヘヘ、お目に触れてました?こうやって毎日どんちゃん騒ぎをやってたら、きっとあなたも呆れて来て下さると思いまして」

「お目に触れた所でなくってよ、遊び相手も毎日入れ替わり、料理もお酒の種類も入れ替わり。お忙しい事ね、杉山君」

「だってえ、みんな夫々忙しいんですよ。ここの連中もその趣味の為行かなくちゃならない所があるし、

石森氏は初めの頃は来てたけど、今は飽きて、自分の店の方の様子を見る方が大事だと方針を変えちゃった。それに良介や輝美ちゃんは誠天使と一緒に、あの地縛霊になりそこなった美咲ちゃんの妹を普通の状態に戻す事で忙しい。ま、桜なんぞに現を抜かす暇はないとかで、冷たいったらありゃしない。俺一人、旦那といちゃつく河原崎さんを振り向かそうと、毎日、人、否、暇な幽霊集めては焼けのやんぱちのどんちゃん騒ぎって訳なんです。可哀そうとは思いません?」

「そうねえ。少しは可哀想と思わないでもないけど、それより幸恵さん達はどうしたの?少しは気に掛けてるのかしら」

「も、勿論ですよ、気に、気に掛けてますよ、本当ですってば」

「お嬢さん、そろそろ高校受験じゃないの?」

「はあ、来年受験です」

「そう、高校に行ったらもっと心配だわよ、女の子ですもの」

「河原崎さんのように武芸をたしなんでいたら少しは心配の種が減るんですがねえ」

「じゃあ、今度お嬢さんに勧めてみたら。私の事少しだけ引き合いに出しても良いから」

「ヘヘヘ、河原崎さんの事を話しても大丈夫かな」

「だから、知ってる女性が合気道を最近始めて、旅先で痴漢に会ったんだけど、反対にその痴漢をやっつけたんだとか、そういう話をして、お嬢さんに習うように勧めるのよ」

「その女性の事を聞かれたら?俺、元来正直だから、ハハハ」

「バカねえ、単なる知り合いと言って置けば良いでしょ。私があなたの昔の思い人だなんて絶対言っちゃあ駄目よ!」

「まあね、それは言いませんがね、あの子、中々憶測に長けている子なんだもんで」

「じゃあ、新聞に載ってたんだけどと言う話にしたら」

「そうですね、あれは新聞にも載りましたから。うん、娘も心配な年ごろか。生きていたらあれこれ心配しただろうな」

「今だって心配でしょう?そろそろ娘さんの元に帰って、守護霊の見習いでもしたら、せめて学校の帰りぐらいは傍に居てやるとか」

「そりゃ彼奴が嫌がりますよ、親父の監視下にあるなんて堪りませんからね」

「だから、帰る時だけ見張るのよ、変な奴が来たらあなたの冷たい手で触れば良いわ。相手は吃驚して逃げると思う」

「少し考えさせて下さい。でも俺が監視するのが良いか、それとも合気道みたいのを習うかと言ったら、彼奴はきっと合気道の方を選ぶと思いますねえ・・ところでスケッチ旅行、そろそろ出かけるんじゃないですか、結構それはみんな楽しみにしてるんです。俺の宴会の方は断るくせに」

「まあ、日光に行こうかなと言う計画はあるんだけれど、今度も一人じゃないの」

「えー、今度もですか。この所ずーっとですよ、一人では駄目なんですか、一人では」

「そう言えばこの所画家仲間と一緒だわ、わたしが晴れ女と噂されているからなのよ」

「えー、そうなんですか。うーん、じゃあ雨降らせましょうか」

「そそれは止めて!雨はスケッチ旅行には絶対御法度なんだから。まあ今度は花の絵を描かせたら天下一品、特に野に咲く花、高山植物や山林に咲く花が得意な人なんだ。だから今度の旅行も彼女は日光に咲く花を描き、わたしは景色が主体なの」

「じゃ、じゃあ、一人になることが多いと言う訳ですね」

「特に1日目の方が可能性が高いわね。2日目は戦場ヶ原を歩いて行く事になるから,余り一人にはならないかも知れないわ」

「ううむ、でも良いや、話しかけないなら構わない訳だから、我々も一緒に歩いて行こう」

「美咲さんも来るかしら?」

「来ると思いますよ、何故?」

「広々とした湖や湿原が彼女の心を癒してくれると思うから」

「そうですね、妹さんも傷ついたかも知れませんが、一番傷ついているのは彼女自身ですから」

「ぜひ誘ってみて頂戴」

話しは終わった。杉山君とその周りにたむろする幽霊さん達に別れを告げ多恵さんは岐路に付いた。

 出発は5月の第3水曜日,東塔部電車の照壁駅を6時半に出発した.矢張り好い天気だった。柏木さん大喜び。

「あなたと来て良かったわ。噂道理の晴れ女ね。この間来たときは雨に降られて本当に大弱りだったの」

「この間って何時?」

「えーッと、あれは去年の6月だったわ」

「6月って梅雨に入ってないの?だから雨に降られたのよ。幾らわたしが晴れ女だと言っても梅雨空を青空にすることは出来ないわ。私が行く時はなるべく雨の降らない日を選んでいくのよ、わたしが行くから晴れるんじゃなくて、晴れの日を選んでいくから晴れるのよ」

周りで一緒に乗り込んだ幽霊諸君も笑っている。

「それがなのよ、ちゃんと天気予報を調べて行ったのによ、降られちゃうのよねえ。わたしって雨女なのかしら、嫌になちゃうわ。だから、あなたと行けば大丈夫だとみんなが太鼓判を押してくれたから、今回は安心して絵が描けるわ」

「でも、もし雨が降り出してしまっても責任は取れないわ。日光は高度も高いし、天気は気まぐれだし、あなたは雨女だし、うーん、ずーっと晴れてると言う保証はないわ。覚悟はしていた方が良いと思う」

「やな事言うのね、でもそれは言えるわね。ヘヘヘ、にわか雨にあっても決してあなたに文句は言いませんと誓っておきます」

電車は日光の入り口までしか行かない。東照宮が目的なら問題ないが、多恵さん達が描きたいのは中禅寺湖辺りを中心とする風景や花なのでバスに乗り換え、いろは坂を登って行く。

「紅葉も綺麗だけれど私はこの新緑の若々しい色が好き。それに桜が咲いてるなんて、素晴らしくラッキーだと思わない」と柏木さん。

「わたしもどちらかを選べと言われたら、矢張り新緑の方が好きだし、桜は格別だわ。それも芽出しの頃の柔らかい赤や黄色味がかった葉の色が桜の花の淡紅色に入り乱れているなんて、本当に何と言ったら好いのか、素晴らし過ぎて感謝するしかないわねえ。こんな色を出すのは紅葉を描くよりずーと難しいと感じるんだけど、あなたはどう?」

「そうねえ、私は花専門だから余り経験ないけど、花で言うと枯れた花を描くのと蕾を描くのに当たるかしら、そうね、初めの頃は枯れた花なんて、全く興味なかったけど、今は枯れかかったものだけでなく、枯れ切ったものも、描いてるわ。うん、これがなかなか面白くて止められないの。あ、これ、答えになっていないわよね。で、蕾も良いけど枯れ切った花もまたまた良しと言った所かしら。描くのは枯れた花の方が手がいるけどね」

「それは言えるわね、私もかれた花を描くのは面白いもの。うん、自然が作り出すもの、すべてが美しく素晴らしい、何一つ疎んじる勿れだわ」

「へーそれ誰が言ったの?」

「はーい!河原崎画伯です、ハハハ、失礼しました」

幽霊さん御一行も互いに顔を見合わせてくすくす笑う。

「でも今度のスケッチの旅、楽しくなりそう、今まで殆ど一人旅だったから、誰も絵の良しあしを言い合う相手が居なくて、少し物足りなかったの。あなたなら結構風景画なんて言いながら、花も描いてるみたいだし、大いに議論しあう価値ありだわ」

「おお怖。わたしね、昔花にジェラシーを感じていたもので、描き出したのは本のこの頃なの。お手柔らかに」

「何、花にジェラシーですって。ふーん、好きな相手にバラは君より美しい、なんて言われた?そんなあほなこと言う男がいるなんて、信じられないけど」 

「ハハ、そんなんじゃないの、母が花好きでね、もしかしたら私より花の方が大事と思ってるんじゃないかって疑ってたのよ。どうも私は焼き餅焼きみたいな性格らしいわ、弟にも働いてた同僚の子にも一種のジェラシーを感じていたんだもの」

「ふうん、あなたがねえ。あなたみたいな人が人にジェラシーを感じるるなんて考えられないわ、ま、弟さんに焼くのは分かるけど。下の子に焼くのはごく当たり前の事ですもの」

「まあそうでしょうね」

「でも花にジェラシーを感じるにはちょっとばかり異常だわねえ、母の愛を独り占めしたかったのかな」

「そうでしょうね、赤ん坊の時は抱き癖が強くって、抱かれている時はすやすや寝てて、下に降ろそうとすると、物凄い声で泣き叫んで中々寝かせつけるのに苦労したらしいわ、父も母も。乳離れも遅かったらしいわ」

「ふーん、子育ては大変よねえ、独身の私にはまるっきり分からないけれど」

「それで懲りた母は弟を仕事を始めた関係もあって、殆ど抱くこともしないし、多分話しかけもしなかったから口を利くのが無茶苦茶に遅くて、一種の自閉症みたいになってこれはこれで苦労したらしいわ」

 バスは中禅寺湖の前で降りる。湖の周りも桜が満開のようだが、それを無視して、湖の東から南の方へ回り込み、絵になる場所を求めて、てくてくと歩いて行くのだ。ま、それは何時もの事だけど、今回は絵の道具だけではない、その他の着替えや洗面道具も一緒の旅だ。何時もより体力が要りそう。

湖畔にしゃれた建物が続く。まるで外国に来たみたいだと云う感じを受ける。

「あれはね、イギリスやフランス、イタリア等の大使館の別荘だった建物なの。今は解放してちょっとした喫茶店みたいになってる所もあるわ」と柏木さんが説明する。

建物を好んで描く人にはもってこいの画材だが、生憎、二人ともあまり興味を持っていない。それにローンの支払いに追われる主婦と貧乏画家の二人にとっては、コーヒーやケーキを頼むのも中々高そうで近寄りがたい。

因ってそこも又無視して過ぎ、暫く湖に沿って歩いて行く。天気が良すぎて段々汗ばんでくる。

「今年は暖かいから、ほら、ヤシオツツジも満開と言うくらい咲いてるわ」柏木さんの指さす水際の木々の間に薄紅色にやや紫をかけたような色の花が結構沢山、群がって咲いている。

「ああ、あれが噂に聞くヤシオツツジね、優しい風情できれいな色あいだわ」

「そうねえ、ちょっと湖側によって描くとするか。あなたはどうする?」

「わたしはもう少し先の方から、男体山を入れた角度で湖とヤシオツツジを描くわ。花は隅っこの方になるけど」

「成程ねえ、風景の河原崎画伯はそう来るか。私は直ぐ花の方に目が行って、周りの様子には無頓着なのよ。これ、直さなくちゃ画家として半分くらい失格だわね」

「それはそれで良いんじゃない?花画家だったら、花が一番描いて欲しい思っている所をを感じて描くことの方が大事だと思うわ」

二人は少し離れた場所で携帯のイーゼルを立ててスケッチを始める。早速幽霊さん達がやって来る。

「中禅寺湖は何時来ても清々しい所ですが、特にこの5月の中禅寺湖は人も余りいないせいか、心洗われるような気持になりますね」と杉山君。

「こっちの方には中々足が向きませんから、日光には何度か来ていますが、この方向の中禅寺湖、なんだか初めてのような気がしますよ。大体こっち側は山と森続きですから、足と体力に自信がなければ、こっちに来ようなんて考えませんよねえ」と石森氏。

「僕も中禅寺湖は修学旅行を含めて3回来てますが、こっちの方は初めてです」良介君。

「そうよねえ、大抵は戦場ヶ原や小田代ヶ原の方に行ってしまうので、こっちの方には来ないわよ。実は私も初めてなの」多恵さんが応じる。

「でも、あのヤシオツツジと言う花はとてもきれいな花ですね、わたしも昔写真で見た時から一度見てみたいと思っていたので、今回、つれて来てもらって良かったわ」輝美さん。

「私、何だかここに来て、ああ私って今まで馬鹿な思いに囚われていたんだなと感じました。山も湖もとても清らかで、そしておおらか、まるでこの誠さんみたいです」美咲さんが呟く。

「ぼ、僕はこんなに綺麗じゃありません。僕も修学旅行以来ですが、あの時はもうみんなとワイワイガヤガヤやってただけで,余り記憶にも残っていなくて。ここがこんなに素晴らしい所だなんて全く気付いていなかったんだあ」

誠君の言葉に一同、頷く。

空が晴天のお陰で、湖の色は真っ青、男体山はまだ春の目覚め真っ最中だが、どっしりとした佇まいの中に日差しを浴びて輝くいるように見える。周りの草木は多恵さんの大好きな萌黄色で、咲き出したヤシオツツジを優しく彩る。他の木々にも黄色や白の小さな花たちが自分たちを誇示することなく、実に慎ましく遅い春を楽しんでいる。

スケッチする手を休めてバッグの中から昨日買って置いたサンドイッチを食べる。朝が早かったので、コーヒー以外殆ど食べないで来た。電車の中もバスの中もおしゃべりに夢中で飲み物は飲んだけれど、食べ物らしいものは口にしていなかった。

「あなたたちは?」一応幽霊さん達にも聞いてみた。

「あ、俺達日光駅でお弁当売ってたからちょと毒見をさせてもらいましたから、どうぞお気兼ねなく」

杉山君がシレっと答える。

サンドイッチだけでは物足りなかったが、少しはお腹が満たされたので、再びスケッチの世界に舞い戻る。

「どう、描けた」と柏木さんが声をかけて来た。

「ええ、大体描けたわ。写真も4,5枚撮ったし、そろそろ他の場所に行く?」

「そうしましょうか。ところであなたお腹空かない?私物凄く空いたけど・・」

周りの幽霊さん達が腹を抱えて笑う。多恵さん咳払い一つして、静かに答える。

「そう言えば少し空いたかなあ。あ、少し離れた所に蕎麦屋さんが見えるわ、あそこで少し食べて行きましょう」

「少し昼には早いしやってると良いんだけれど、ここいら辺りが人家のあるところの最終地点なんだけどな」不安そうな柏木さん。

でも幸いなことにお店は開けた所だった。

「ああ助かった。何時もはパンをどっさり買って来るんだけれど、昨日少し野暮用があって買ってこれなかったんだ。それに駅でお弁当売ってたけど、おしゃべりに夢中で買い損ねてしまったし」と柏木さん。

「わたし、パンぐらい少し持って来てるから、いざとなればご提供しようと思っていたけれど、ここが目に入ったから、それならここの方が絶対に良いと思うわ」

「そりゃそうだわね。で、歩いている時は結構暑かったけど、絵を描いてると奥日光は少し気温が低いから、下から冷えて来るわ、うんと温まるものを食べたいわ。この湯葉たっぷりそばを頂こうかしら」

「ええ、美味しそうね、キノコも山菜も入ってるし、湯葉は日光の特産品でもあるから。ご主人、この湯葉たっぷりそば2つお願いします」

早速あったかい湯葉たっぷりそばが来る。

幽霊諸君も同じものを食するらしい。

何となく薄ら寒かったお店の中が、お蕎麦の湯気が立ち上り、ほんわか温かく感じられる。

「も少し行くとね、野イチゴや別のツツジの花が咲く所があるの。そこからの景色もあなた好みだと保証するわ」柏木さんが嬉しい事を言う。

「それは楽しみだわ、じゃあ、ここでしっかり腹ごしらえしとかなくちゃいけないわね」

「しっかり食べて、しっかりスケッチする、それがスケッチ画家の守るべき法則である」

「それ、誰が言ったの?」

「勿論、柏木画伯が言ったのよ、ハハハ」

柏木さんも笑ったが、それよりももっと大笑いしたのは幽霊さん達だ。何しろ多恵さんがさっき、サンドイッチをぺろりと平らげたのを目撃していたのだから。

多恵さん、ここで又一つ咳払い。

「この湯葉、美味しいわね、お土産に湯葉を買って帰ろうかな」多恵さん話を切り替える。

「わたしも湯葉買って帰ろう。でもお土産じゃなくてよ、わたし用に買って帰るのよ。湯葉は高蛋白質でしょう、独り者はついついカップメンに走り勝ち、そこでこの湯葉を放り込んで食せば、栄養満点と言う訳、ヘヘヘ」

蕎麦屋を出る。その横に小さな商店を見つける。そこにはパンやお握り等もあったのでそう言ったものと飲み物を買い足した。

「さあ、第2部へ向かって出発するとしよう。今度はパンもあるし、お握りも買った。うん、これで食べ物への憂いも無くなったから、思いっきり描くとしよう。エイエイ、オーと言った所かな」

柏木さん、上機嫌だ。

再び湖沿いの細い道をてくてく歩くと気温も上がって来たのと相まって又少し汗ばんでくる。でも木々の間から見え隠れする景色は最高だ、何処を切り取っても皆がワンダホーと言ってくれる絵が描けるに違いない。

細く突き出た所は八丁出島と言って、秋の紅葉の時の写真が日光の宣伝で有名な所だ。そこも桜の花が見受けられて、紅葉に負けず劣らず美しい。

「風景画家の河原崎画伯としては、ここを描きたいのは良ーく分かるけど、ここはパスして先を急ごう。何しろ今日は20キロ近くを歩いて、しかもスケッチしなくてはならないんだから。それにも少し行くとここを背景に色んなツツジが咲いてる所があるから、そこまでは我慢我慢」と柏木画伯。

「ええ、大丈夫よ、絵に描く所が余りポピュラーなのは避けたいしねえ」

「それもあるわね、絵ハガキと腕比べしても嬉しくないか」

そこから多少行くと木々が密集した林の中を歩く。赤い杭が目印になって続いている。まだ木々は茂っていないから道に迷う事は少ないが、も少ししたらこの杭のありがたさが身に染みるだろう。今は桜も咲いて実に美しく、ここはやはり捨てがたいと多恵さんは思った。

「ねえ、少しだけ時間をくれる。わたし、どうしてもここを描きたいの」

「え、ここ?」

柏木さんはぐるっと周囲を見渡す。

「ふうん、こんな所が河原崎さんの心を捕らえるのね。分かった、私ここを出て暫く行った所にベンチがあるの、そこには比較的珍しい白ヤシオや山ツツジの一種、ミツバツツジが咲いているから、先に行ってそれを描いてるわ」

多恵さんと柏木さんはここで少し単独行動をとることにする。

「あ、春先だから熊が出るかも知れないから鈴をちゃんとつけておいた方が良いわよ」

多恵さん柏木さんに声をかける。

「そうね、忘れるところだったわ、あなたも忘れずにね」柏木さんは消えて行く。

「あなたの周りは俺達がしっから見張っていますから、大丈夫ですよ」と杉山君。

「でも、そう言う訳には行かないのよ、普通の人のようにちゃんと鈴は付けておかなくちゃ、あなた方の存在を知らない人が見たら心配するでしょう」

「ま、そうでしょうね」あっさりと杉山君引き下がる。

「柏木さんが待ってるから、ここは急いでスケッチしなくちゃならないの、だから、あなた達湖の上でも飛び回ったらどう?きっと楽しいはずよ、日差しはそんなに強くないようだし」

「ええ、そうします。俺達実は水の中でも潜れるんですよ、ここは湖探検でもしましょうかね」

「私、泳げないけど大丈夫かしら」輝美さんが心配する。

「大丈夫ですよ、溺れたりなんかしませんよ、何しろ僕たちもう、死んでるんですから」

良介君の明るい笑い声。つられてみんなが笑う。

「さあ、出発しようか」石松氏の声で幽霊さん達は湖へと出かけて行った。

やれやれこれで木々の新芽と山桜か大島桜か知らないが、大好きなこの取り合わせを一人、心行くまで描けると多恵さん、イーゼルに向かう。

柔らかい色調は水彩にもペンシル画にもとても合うが、荷物の事を考え、今回は水彩は諦め、ここは従量的に絶対軽いし、水も不要ということもあって、ペンシルだけを用意してきた。

鼻歌交じりで描きたくなるほどの多恵さん好みの構図に色合いだ。スイスイペンシルがすすむ。

おんやあ、何か変、小さな子供が目の前をちょこちょこ走り回っているような。多恵さん、描く手を止めて少しの間様子を窺う事にする。まだ6,7歳くらいの男の子だ。彼は本当に霊なのか?生きているには、余りにも影が薄い。

「坊や、どうしてこんな所にいるの?一人なんでしょう」

男の子は吃驚して多恵さんを見つめる。

「僕さあ、家族と一緒に遊びに来ててさ、道に迷ってしまったんだ。それでさあ、夜になってお腹は減るし、水も飲みたかったけど、何にも無くて、それにとても寒くなって、それから、それから、凄く眠くなってしまって・・・気が付いたら、僕は、僕から抜け出していたんだ」

「そう、それで抜け出た体は今何処にあるの?」

「この上の方だよ、ずっとね」

多恵さん、坊やが指さす方を見上げる。深そうな森が見える。とてもこれはわたしの手には負えないと考え込む。

そうだ、ここは杉山さん達の力を借りるしか方法はない、お楽しみの所を悪いけど念じて呼び出そう。

杉山君が現れた。

「どうしました、何かあったんですか?」

「ええ、見ての通り、可愛い子供の霊に出会ってしまったの」

「こりゃあ又子供の霊なんて珍しいなあ、僕名前は何と言うの」

「僕、ヒカルって言うんだ。でもさ今日は不思議な日だね、今までここで幾ら通る人達に声をかけても、着物を引っ張っても、誰も返事してくれないし、気が付かないで行ってしまうのに、おばちゃんは、おばちゃんの方から声かけてくれたし、おじちゃんは何処からともなく・・あれれれ、わんさか人が現れているよ。これ、どうなってるの?」

「坊や、良くお聞き。残念ながら坊やは死んでしまったんだよ。そしてこのおばちゃんを除いて他の人全部、この世の人ではないんだよ。つまり死んでいるんだ。だから普通は生きてる人には僕たちは全然見えないし、気付く事もないんだ.このおばちゃん見たいに僕たちが見えるのは特別の事なんだ」

石森氏が噛んで含ませるように言って聞かせる。

「良く分からないけど、僕が、僕が死んでしまったってことは・・何となく分かる。それからおじちゃんたちが・・幽霊見たいなものだって事も嫌だけど薄々分かって来た」

「そこで相談なんだけど、この子の遺体を親元に返してあげたいの。この子が言うにはこの上の方にあるらしいけど、生きてる人間にはこの森の何処を探せば良いのか分からないわ。この子の案内とあなた達の幽霊力で、何とか探し出してもらえないかしら?」

「はい、探し出すのは全員の幽霊力を合わせて、何としても探し出しますが、探した後、どうするんですか?」と杉山君。

「そしたら、今春でしょう、山菜取りに行く人たちがきっと沢山いると思うの。その中の肝の据わった人を選んで、あなた達の力でそこへ導て欲しいのよ。そうすればその人が警察に連絡してこの子の遺体は親元に帰れると思うわ」

「分かりました、親御さんはどんなに心労を重ねていらしゃるか、子を持つ身にはしみじみ身に沁みます。ね、坊や、その遺体と一緒に早くお父さんやお母さんの元に帰りなさい」輝美さんは涙声だ。

「うん僕、早く母ちゃんに会いたいよう」彼も一緒に泣き出した。

「さあ泣いていないで、僕が抜け出した体を探しに行こう!」

良介君の号令で幽霊さん達は出かけて行った。

やれやれ、少し手間取ったけれど、可哀そうな坊やの霊を救うことが出来そうだ。再びスケッチに邁進する事にしよう。写真も4,5枚程取って行こう、この微妙な色合いはスケッチと折り合わせても完全とは行かないだろうが少しは手助けには成るはずだ。

何とか仕上がったので、柏木さんを追いかけよう。

暫く行くと、川が湖に流れ込んでいて、木橋が架かっている。反対の方角から夫婦らしい二人ずれとすれ違った。

「今日は」とあいさつを交わす。

「ああ、さっき出会った絵描きさんの連れでしょう?もう少し行った処で絵を描きながら、待っていらしゃいますよ」

「はい、同じ絵描きですが、興味を引くものが少々違っているもので」

「そうですか、私たちは車で途中まで来て、途中から車を降りて、お連れさんがいる所まで歩いて行ったんですが、まあ余り歩きなれていない者には、その位迄が良いとこと、引き返して来ました」

「そうですよね、徒歩で行くにはこの南周りのコースは可成りありますからね」

「でもあなた方は重い荷物を持ち、スケッチしながら歩いて行かれるんですから、ほとほと感心しますよ」

「はい、ありがとうございます、体力だけは自信ありますから。ではこれで失礼します、お気をつけて」

二人連れは去っていった。改めて周りの景色を眺めやる。

「あらここも素敵な絵に成りそうだわ」橋の色や形、その周りの木々や湖の取り合わせが、何とも言えないハーモニーを醸し出している。

多恵さん足を止め、又画帳を取り出し、素早く鉛筆を動かす。勿論写真も撮る。でも柏木さんを待たせていると思うと、そんなに時間を取る訳には行かない。心を残しながらも大急ぎでその橋を渡って行く。しかしここは道が平坦で助かる。多分あの子も、あの子の親もそれで油断をしたのだろう。特にあの年頃の男の子は好奇心も強いし、活発だ。ついつい心は親を離れて、自分の興味のある方へ向いてしまったと言うのが大体の話が落ち着く所だろう。

少し木々が切れて視界が広がる。遠くに人影が見える。彼女に違いない。

彼女はまだ絵の真っ最中。目の前には薄紫のヤシオツツジだけでなく白や、も少しピンクの強いのが入り乱れて目が覚めるようだ。それに目前には中禅寺湖、男体山が広がっているから、画家として願ったりかなったりの場所だ。

「ここは最高の場所ねえ、お負けに椅子まであるわ」と多恵さん、感心する。

「さっき迄そこに夫婦連れが座っていたのよ」と柏木さん。

「途中まで車で来たんですって。こっちの方は来たこと無くって、日光好きだからこっちの方も見ておかなくちゃ、このまま死んだら死んでも死に切れないと言ってたわ、ハハハ」

「その夫婦連れには、さっき出会ったわ。そうよね、こっちの方は中々来ないから、日光好きにしてみたらこっちはどうなってるのか気になるわよねえ。しかもこんないい所があるなんて知らない人が殆ど」

「あなたもその一人でしょう。まあ良いから、あなたの好きな場所で早くあなたの絵を描きなさい」

「ありがとう、そうするわ。実を言うとあなたはとっくに描き終えて、いらいらしながら私が来るのを待っていると思っていたのよ」

「所がその本人はデンとここに座ってまだお絵描き中ときた。でもさあ、あなたあの場所、わたしが思う以上に好きだったのねえ。それとも何かあったの?」

「ううん何も。只子供がね、迷子になってたんでちょっとそれで・・色々探してあげてたんだ」

「まあまあ、それは大変だったわねえ、親御さんさぞ心配なさっていらしたでしょう?」

「ええそれはそうよね、死ぬほどね。ここいらは木が多くて道に迷い易いもの、迷ったら探すのだって大変だわ」

「本と私達もなるべく離れないようにしましょう、クマだって出る季節なんだし」

「あの白いツツジも山ツツジの種類なの?」

「ああ、あれもヤシオツツジの仲間なのよ。シロヤシオって呼ばれているの。とても清楚で気品に満ちてるわよね。白い花は大好きだけど、中々色を出すのが難しいのよ、あなたどうしてる?」

「うん、私も同じよ、少しクリームがかったり、ピンクがからせたり。でもこれはグリーンがかっているわね」

「クリーム、ピンク、グリーンか?分かった、それを光線に合わせて使い分けするわ。うん、それしかない」

「あ、この淡いピンクのツツジは?これもヤシオなの?

「それは葉っぱから見ると東国ミツバツツジだわね。夫々微妙に咲く時期が違っているのだろうけれど、ここは寒い時期が長く、待ちに待った花たちが暖かくなると一辺に咲き競うのよ。ツツジの仲間はとても多いから覚えるのは大変」

「そうね、所変われば花も変わるし、わたしの母は九州の方だから、こっちに来て生垣にドウダンツツジが植えてある家が多くて『あのスズランみたいのは何という名前かしら?』と思っていたらしいわ。その後ブルーベリーも馬酔木もツツジの仲間だと知って、成程互いによく似てると納得したらしいわ」

「こういう所謂ツツジ然としたのとスズラン型の花が一緒だなんて余り分からないわよね。ああそうだ、今は時期的に早すぎて見れないけど、このずっと先、この南回りの最終地、千手が浜と言う所には九輪草と言う花が咲くんだけれど、あなた知ってる?」

「ああ九輪草、写真でなら見たことあるわ。桜草によく似た花だけど、も少し華麗な花だわよね。あれ、自生する花だったの?わたし、てっきり桜草を元に人が勾配して作り上げたものだと思っていたわ」

「そうよねえ、桜草からして見ると、派手な感じがするからそう考えても不思議じゃないわね。でも千手が浜に咲きそろう姿を見たら、とても密やかで日本的な花だと思うわ。それに素晴らしくきれいで、息を飲む美しさだと思う、これ、保証する」

「うん、見てみたいわ。でも今は無理と言う事ね」

「そう、6月に入っていたら見られたかもしれないいわ」

「残念無念!もう少し後だったら良かったわね」

「ね、わたしが去年、6月に来た訳が分かったでしょう。でも、見物人が多くて、それはそれで大変だけど。絵を描いてたら邪魔者扱いされてさ」

多恵さんの頭の中を幽霊さん達が通り過ぎてゆく。そんな時には俺達が人を遠ざけて上げますよと、ハミングしながら。慌てて多恵さん、その妄想を振り払う。

「何か虫が飛んでいるの?」と柏木さんが聞く。

「あ、ちょとした小さな虫よ。それよりこれからその千手が浜まで歩くんでしょう、ここいらで何か腹拵えする?」

幽霊諸君が居たら又大笑いされそうだが、多恵さんは提案した。

「そうね、この先2,3か所見晴台みたいのがあるけど他は千手の森などと言う名前の付く遊歩道が続くけど、結構森が深くて、食べるのには躊躇するわ。ここいらでちょっと食べて行く方が利巧と言うものだわねえ」

話しはまとまって二人は仲良くお握りにかぶり付く。

お握りと飲み物を口にした二人は再び荷物をしょって歩き出す。森を歩いていたかと思うと沢にぶつかって、そこを歩いて渡る。結構岩も多いようだ。

「あなた、男体山が描きたいなら白岩だとか赤岩とか言う所があるからそこに入って描くと良いわ。そうだ、その場所にはシロヤシオも群生してるらしいから、私も描こうかな」歩いている道から少し湖の方へ出てみると、シロヤシオ超えに湖と男体山が見える。そのすぐ横に大きな石が鎮座している。成程、白岩赤岩はその岩に基づくものらしい。

ここから見る男体山は又角度が違って、別の味わいがある。男性がボートを漕いでやって来た。湖のどこからやって来たのだろう、と多恵さんは思う。二人が絵を描いているのを見てにっこり笑う。

「ここは静かで誰にも邪魔されずに自分の世界を楽しむことができますね」と言うとその舟に又乗り込みオールを漕いで去って行った。

「ほんと、人それぞれ楽しむ世界があるわねえ」柏木さんが感心して頷く。でもここは簡単に済ませ、又木々の間の道を行く。ほとんど湖は見えない程深い森だ。

「ああ云った人たちはどうやって来てるのかしら、車が通る道はここいらにはないんでしょう」多恵さんが聞く。

「多分千手が浜にボートを繋留してて、余暇を利用してこの湖を散策しているんじゃないのかな。どうしたの、歩くのが厭になったの?」

「ううん、私歩くの全然平気。只あんな大きなもの持って、遠くから歩いてくるのは大変だろうなと思って。湖を漕いで来たのか」

「そうね、あんなもの持って私達みたいに遠くから歩いてくるのは大変でしょうね。多分、千手が浜まで車で来たんだと思う。あんな舟を小脇に抱えて歩いていたら、大変も大変だけど、みんなからじろじろ見られて恥ずかしいんじゃない」

又二人は黙々とその千手が浜目指して歩き出す。

「わあ、桜、大きな桜だわ」

「あれは千手堂のオオヤマザクラよ、立派よねえ、見惚れちゃうわ」

「見惚れていないで、早く描かせてもらいましょうよ。わたしもここは桜を主人公にして描かせてもらうつもりよ」

「そう、河原崎画伯が本気で花を主体に描くとは、花専門の柏木画伯も負けてはいられませんぞ。頑張らねば」

とは言っても多恵さんは風景画家、どうしても全体的構図が気になる。あっちに行ったりこっちに行ったり、中々場所が決まらない。やっと落ち着く所を見つけて描き出すころには柏木さんはもうとっくに描き始めていた。

「早いのね、さすが花を描かせたら日本で1,2の柏木さん。どれどれ、あっ、花アップかあ,成程ね。うーん花がお堂の上にかかって、何とも言えぬ風情があるわ」

「そうよねえ、欲を言えばここに雨が少し降り注いでいたら、もっと和的な情緒が醸し出されるんだけどね、お天気女がいたんじゃ無理と言うものだわ」

「何よ、晴れていて良かったんじゃないの?それに山桜だし、晴天の中に咲いている方がずっと晴れやかで美しく見えるわ。確かに雨の中に耐えて咲く花は心に迫るものがあるけど、それはこんな満開ではなくて,精々、5,6分咲きか、殆ど散ってしまって葉桜になりかけたころの桜が一番ピッタリじゃなくて」

「ふーむ、そうかも知れないな。良しもう一枚描くか、そういう事を自分に言い聞かせて描くと、また絵は違った味わいに描きあがるものなんだ」

「じゃあわたしもこれを描き上げてから、ドアップの桜を描くとしよう」

二人の絵はまずまずの内に描き上がった。

「さあ、千手が浜へ向かって出発しよう。九輪草は咲いていないけど、九輪草を守る仙人には会えるかも知れない」

「ええっ、仙人ですって。まるで私の母みたいなことを言うのね。私の母は仙人になりたい、と言って薬草を煎じて飲むんだけれど、その薬草を煎じる臭いがねえ、何とも言えない不思議な、別にとても嫌な臭いじゃないけど、ほんとに仙人の家か魔法使いの家にいるみたいな気分だったわ」

「へええ、あなたのお母さんて変わっていると言うか面白い人というか」

「本人は真剣そのものなの、ただ煎じているものは皆干しあがったものだから固いし、母に言わせれば殆どがすこぶるまずいから、とことん煮て、その出来上がったスープを飲む。物凄い臭いがしてさ、わたしなんかその臭いだけで仙人になれそうだったもん。ハハハ」

「それで成果はあったの?」

「さあ、どうかしら?本人曰く夢の中ではたやすく飛べるんですって。体が軽くなってふわっとね。目が覚めた後ももしかしたら飛べるんじゃないかと言う感じなんですって。ただ本人は高所恐怖症なんだけど夢ではそれは関係ないらしいわ」

「それから他には?老化が止まったとかさ、お母さん若く見えるの」

「うーんその年齢の人に比べれば若いと思う。でも、祖母もその上の曽祖母も同じ年代の人より、ずいぶん若く見えたから、これはその特性スープの所為じゃないと思うわ」

「結局分からないと言う訳ね。で今でも続いているのかしら?」

「さすがの母もその味には馴染めず、今じゃお店にある中で効き目のありそうな物を試しているみたいよ」

「もし本物の仙人になれそうなものがあったら私も飲んでみたい」

「そうね、でもそういった薬は結構高価で中々気安く飲めないわ。薬草の時はそんなにお金かからなかったけどさ」

「そうか、仙人への道はどっち道険しく遠いのか、ハハハ」

まだ生い茂っていない木々の中をてくてく歩く。もう3時を過ぎて4時に近い。

「あー、今日はよく歩いたわねえ。これじゃ西湖まで行くのは無理かもね」

残念そうに柏木さんが呟く。

「そうね、私はまだ小学生の頃、夏休みに父の運転でこの近くまで来て、家族4人で西湖を見たいと道も整備されていない所を歩いて行ったの.ほんとにそのころの西湖って秘境みたいな感じだった。でも無理は禁物、ここは我慢してまたの機会に、九倫草の花を描きに来た時に取っておきましょうか」

「そうね、九倫草があったわね、あなたには」

「あら、あなた、もう九倫草は卒業なの」

「いや、そんな事ないわ。九倫草は何回挑戦しても良いわ。今まで描いて来たけれど、なかなか満足した出来の物は余りないわ。それに来るたびに見せてくれる表情が違うもの」

「それはどんな物にでも言えるわね、あの空だって見る場所や季節、心の状態で変わるもの」

その時柏木さんの足が止まった。

「あれっ、ちょと待って。あれはもしかしたら、ほらあれ」

柏木さんの指さす方を見る。新緑に燃えている木の下に何か赤いものが見える。

「も少し行ってみましょう、でもあれは九倫草よ、絶対に」

「本当に、6月に入らなくちゃ無理なんじゃない。いくら今年が暖かいと言っても」

でも多恵さんの脳裏に異常に近くのボタンが早く咲いたと言う噂や、春山公園のサクラソウも早く咲きすぎて、サクラソウ祭りの時には花が咲き終わっていたという報道も目にしていた。

「ほらやっぱり九輪草だわ、仙人さんに知らせなくちゃあ」

「仙人さんかあ,こんな所で仙人さんに会えるとは思わなかったなあ。その人男でしょう。どんな人、可成りの年の人、それとも年は取っていても若く見えるとか?」

「あなたのお母さんじゃないから、多分それ相応の人だと思うわ。前にやってた人が辞めて、後を引き継いだの、仙人堂を。九輪草を鹿等や人害から守っているのよ」

「そうなんだ、春山公園では一時、絶滅しかかってたけど、今は沢山のボランティアの人たちに守られて復活したの。只江戸時代みたいに色んな種類のサクラソウは見られないけどね。昔は江戸の商家の人達が皆争って珍しい物を見つけては自分の家に持ち帰っていたんですって。直接ではなくても、それを商売にしている人から買い取ってね。人間て一番自然界を壊す生き物なんだと思うわよね」

「そうよね、ここが春山公園のように人がもっと来安い所だったら、とっくに絶滅してたかも知れないわ。今のとこ、人より鹿の食害の方が酷いらしいわ。でも仙人さんがいなかったら、人間の盗採の方が酷いかも知れないわね」

「もっと仙人さんを助けてくれる人たち、ボランティアさんがいてくれたら助かるのに.一人じゃとても大変だと思う」

「そうね東松山の県立森林公園のヤマユリもボランティアの人達で守られているし、絵を描く身には何時も頭の下がる思いだわ」

「ええ、あそこのヤマユリ本当に沢山咲いていて見事よねえ。私もヤマユリ、描かせてもらいに行ったわ。ヤマユリは害虫に弱いし他の植物にも勢力負けすんのよね」

「そうそう、わたしみたいに遠慮深い花なのよ、あんなに美しい花なのに」

木々の間を水が流れている。その向こうに浜があり、それに続く湖が見える。結構鬱蒼とした森の道を歩いて来た身にはホッとする景色だ。

「あ、あの人が仙人さんよ、または仙さん.九輪草はまだ咲いていないわねえ、あそこだけだったわ。とにかく咲いてたことを知らせなくちゃ。今日は、お久しぶりです」

柏木さんは大きな声で作業をしている男性に手を振る。

「ああ、あなたでしたか、絵を描いてるとか言ってらした・・えーと」

「はい、画家の柏木です。ロープを張っていらしゃるんですね」

「ええ、入ってもらいたくない所にロープをしていなくては,みんなズカズカ入ってしまうので。それでもマナーを知らない人がいるんですよ」

「私たちも手伝いますよ、何をすれば良いのか教えて下さい」

二人は荷物を肩から降ろしてやる気満々。

「ああそれに立った一輪、九輪草ですが、一輪だけもう咲き始めていたのを見つけました」

「え、そうですか、去年は食害が酷く、ことごとく鹿に食べられてしまって、全滅してしまっている場所もあるんですが、今頃咲くなんてよほど居心地の良い場所なんでしょう。ここが終わったら見に行ってやりましょうか」

二人は仙人さんを手伝って暫しロープ張りを行った。そのあと三人はたった一輪咲いている早咲きの九輪草を見に行った。

「ほんとだ、あなたたちを歓迎したかったのかな、健気ですね。後から鹿予防の竹柵をして置きましょう

か。それより東からぐるっと歩いて来たんでしょう、しかもスケッチしながら」

「スケッチしながらだから歩けたんですよ、ただ何もしないで歩くだけだったら、多分へとへとです」

「ま、それは言える。兎に角中に入って、特製の仙人コーヒーを飲んで下さい」

仙人さんの後について中に入る。男所帯だから何の飾り気もなく雑然としている。多恵さん、中に立てかけられている看板みたいのに気が付いた。

「あのう、ここにイーストガーデンって書いてあるんですが、ここは湖の一番西ですよね、どうしてイーストガーデンって言うんですか」

「ああ、それはね、ここを一年中訪れる人を期待して喫茶店を開こうと、元々イーストガーデンと云う喫茶店をやってた人がその支店として、建てたからですよ.所がその管理をやってた人が、先代ですがね、年を取ってるは白髭は蓄えているわで、ついたあだ名が仙人。その人が居る所だから仙人堂とみんなが呼ぶようになって、そちらが有名になったから、こうやって仙人堂という看板もある。それに喫茶店をやるつもりだったから、こうやってコーヒーを出してるんです。誰が来てもね」

「成程そうですか、これで謎が解けました。やっとすっきりしました」

「でも、九輪草や紅葉の時以外は中々客が来なくて、喫茶店の方はずーと休業中ですがね、ハハハ」

「今はすっかり九輪草の守り人として有名ですよね、そのための住まいだと思っていました」

「九輪草管理人小屋って何で言わないのかって、大半の人がそう思っていますよ。はいコーヒー」

「ありがとうございます。私たちも菓子パンが少し残っていますので3人で分けて食べましょう」リュックの中からパンを取り出して、ささやかなコーヒータイムを暫し楽しむ。

「今度は九輪草を描きに来ます、お邪魔しました。それまでどうか、お元気で」

多恵さん達は二代目仙人さんに別れを告げ、木の橋を渡り、エコバスの乗り場へ向かう。

ヤレヤレ、すっかり疲れてしまったなあとバスを待つ。西湖や小田代ヶ原から来た人たちもいて結構にぎやかだ。バスに乗る。

「これから中禅寺湖の真ん中あたりまで戻り、普通くらいのホテルに泊まるのよ。でももてなしは大きなホテル並みだって、口コミでは書いてあるわ、ほんとか嘘かは人夫々、泊まってみなくちゃわからないけどね。わたしは気に入ってるの」

「人の感じ方は様々だけど、あなたが気に入ってるんだったら、きっと最高よ。今日は随分歩いたからすっかり疲れちゃった、普通で良いから早くくつろぎたいなあ。うん、先ずは温かいお風呂に入りたいわ。それが一番のおもてなしよ。夕食はその後のお楽しみと云う所かな」

「その通りだわ。実の所、私もクタクタ、早くお風呂に入りたい。それにこのバカでかい荷物を真っ先に放り出してね」

「そうそう、それが一番でした。何時もはどこかに商売道具以外預けて歩くんだけど、今日はそういう事も出来なくて、旅用品も一緒に担いで歩かなくちゃいけなかったんで、それもこの疲れの中にしっかり入っていそうね。そうだわねえ、3分増しという所かしら」

バスを乗り換え(何時もは歩く所を)ホテルに向かう。バスを降りて2,3分歩いたところにそのホテルはあった。

何だかロビーが慌ただしく感じる。

「何かあったのかしら」と柏木さんが首をかしげる。

多恵さんには、あの子の事がふと脳裏に浮かぶ。もしやあの子の遺体が発見され、その関係者がこのホテルに関係してるのかも知れない。ここは聞く外ないだろう。

「何か慌ただしいようですね、何があったんですか?」

多恵さん、思い切って受付の人に尋ねる。

「もうし分けありません。今、お部屋にご案内いたします。さっちゃん、手が空いたら、直ぐ柏木様御一行を桔梗の間にご案内して。間も無く参ります。実は2年程前の夏、家族連れのお客様がトレッキングに出かけられ、その御長男が蝶か何かを追いかけられて行って、そのまま行へ不明になられたのです。その後みんなで散々探したのですが、どうしても見つからなくて今まで来たのですが、今日地元の人が山菜取りに行って見つけたそうです。そういう縁がありましたので、ご家族の方がこちらにいらしたら、ここで休憩してもらおうと電話やら色んな手はずを整えていたのです。お客様には少々お手間をかけてしまいました」

「あ、それは全然かまいません。それよりもご遺体が見つかって何よりでした。私の連れ・・あ何でもないです。お部屋に案内してもらいましょうか」

多恵さん、心の中で幽霊諸君にお礼を言った。

「ああ疲れた。浴衣があるわ、これを持って早くお風呂に行こう」柏木さんに急かされる。

ちらりと杉山君の姿が見えた。

「あ、そうね。でも私、ちょっと野暮用があるから先に行っといて。すぐ後から行くわ」

柏木さん、少し戸惑ったが「じゃあ先に行っとくわ。すぐ来てね」と言って出て行った。

「遺体見つかったそうね、手間取った?」

「坊やがね、自分の遺体の場所をよく覚えていなくて、少し手間取りましたが、そこは私たちの念力で何とか乗り切りました。まあ今の季節、山菜取りの人、結構沢山いるんですね。その中の比較的若い男に白羽の矢を立てまして、その場所に誘導しました。遺体はもうすっかり白骨化してましたが、運動靴なんかで分かったみたいですよ。まあ、正確にⅮNAを検査しなくちゃならないそうですが、両親に連絡して、その後は時間の問題です」

「ヒカル君は今どこにいるのかしら、一刻も早く両親に会いたいでしょうね」

「遺体と一緒にいます。みんなも彼に付き添っていますので心配無用です」

「そう、でも確かここに両親が来る手はずになってるって聞いたわ。ロビーで見張ってたら分かると思う、どうせ検査は明日以降になると思うし。ヒカル君は早く両親に会いたいから、みんなをここに読んだらどうかしら」

「それはそれは。早速みんなを呼び寄せて両親の到着を待つとしましょう。みんなも遺体安置所より、ここにいる方がずっと良いに決まってます」杉山君が消えていった。

ロビーの方は気になりながらも一切を杉山君に任せ、多恵さんは柏木さんとその日にスケッチした物の品評と自己反省などを済ませると、明日に備え早めに床に就いた。

 翌朝になった。今日は小田代ヶ原から戦場ヶ原をスケッチして周る予定だ。

「今日も良い天気よお、雲一つない。きっとサツキと云う意味を知らない人はこんな天気を五月晴れって言うんでしょうが、知ってるものは言えないわよね」と柏木さん。

「そうよねえ卯月晴れって言ったらどうかしら。でも本当によく晴れてる、日焼け止めたっぷり縫っとかなくちゃ、真っ黒けになるわ、肌にも悪いし」

ヒカル君の事は気にはかかったが、早く出発しなければ仕事にならない。一応今日は絵描き道具と貴重品だけを肩に背負い、後はホテルに預かってもらうことにした。今日は勿論お昼の弁当も、その他のパンやお菓子飲み物もしっかり用意した。昨日より休憩する所は多そうだが、食べ物を売っている処は皆無だとか。少し残念。

「イザ出発!」柏木さんのとともにホテルからバスの中へ。昨日のエコバスに乗り換えた地点に戻る。ここは又小田代ヶ原と戦場ケ原の分岐点でもある。

「せっかく来たのだから竜頭の滝へ行きましょう」と柏木さんの後ろに従う。

「まあまあ、これは綺麗、ツツジが一杯咲いてる。滝も水量が多くて迫力満点。ここを通り過ぎては、画家の名が泣くわね」多恵さん思わず声を上げる。

「お気に召していただけたかな。早速スケッチに取り掛かろうじゃないか!」

柏木さんは今を盛りと咲き誇るシロ、アカヤシオにレンゲツツジ、ミツバツツジ、それに咲き始めたばかりの東シャクナゲなどを大きくクローズアップして描き、滝は小さく遠景にとどめる。多恵さんは二つに割れて流れる滝を龍さながら、画面一杯大きくやや斜めに構えさせると、花たちは隅の方へ散らして描き込む。ま、画家それぞれの感性に従って描いていくから、同じところを描いても画は全く違う色合いになり、味わいにもなる。

「ここをもっと描いていたいけど、これから小田代ヶ原や戦場ヶ原にも足を延ばして行けば、描きたくなる所が沢山あると思うわ。ここは一先ず写真を5,6枚ばかり取って終わりにしましょうか?」

「そうね少し心残りだけどそうしましょう」多恵さんも柏木さんに同調する。

「ここから先はクマよけの鈴をつけて行った方が良さそうね」多恵さんが立て札に気づく。

「ほんと、クマだけでなく猿も出没、って書いてあるわ」

「サルには効き目があるかは分からないけど、クマは怖いから」

二人はリュックから鈴を取り出した。

「あなたの鈴、大きいわねえ」柏木さんが驚く。

「長野の方に行った時宿屋の人が勧めてくれたのよ。このくらい大きくないと気付かないクマさんがいるんですって」

「なるほど」 

湯川に沿って木々や笹が生い茂る道を行くと、辺りが開けて小田代ヶ原に行きつく。

「まあ、男体山も見えて、あ、これ、当たり前か。兎も角清々する景色だわ」多恵さんが感動して叫ぶ。

「あまり目立たないけど、白や薄黄色い花が咲いてるわね、それに桜も咲いてる」

「描く?私、こんな景色、大好きなのよ」

「まあ、ここは景色が一番か。でも私も描くわ、あの桜を右端の上空に描き込んで、その下に男体山と春、ここはまだ春だわよね、春の小田代ヶ原が広がってる、そう、それにする」

「うーん、似てる構想だけど、私はも少し樹木を描き込むわ」

二人は場所を少しずらしてスケッチすることにした。

「あ、好いわね。新芽の頃が一番好きと言うだけあるわ、みんなそれぞれ色が違って、でも生き生きしててその上柔らかい色調」

「ありがとう、あなたの見せて。フムフムなーるほど。さすが花の画伯、この桜、花も葉っぱも素敵だわ、男体山も嬉しそう。それに小田代ヶ原の冬と春の間の煮え切らぬ草原の姿も良く描けてると思う」

ここは柏木さんのどうもお気に入りではないようなので次に行くことにしたが、戦場ヶ原に行く前に購入しておいたお弁当を頂くことにした。

景色は(多恵さんには)最高だし、空気は旨い。空はさっき名付けた卯月晴れだ,言う事なしと思いつつ

ふと幽霊さんたちの事が気にかかる。

ヒカル君はお母さんに会えたかしら、例え会ったとしても、お母さんには気づいてもらえない。そのことでショックを感じていないだろうか。そう言ったことが脳裏を掠める。

「どうしたの、何か気がかりなことでもあるの」と柏木さんが尋ねる。

「いえねえ、夕べフロントで聞いた子供とその両親の事を思い出してね、こんな素敵な所が悲しい思い出の地になるなんて、堪らないなあと思って」

「ご両親がこの中禅寺湖を嫌いにならなければ良いけど。無理かな,ヤッパリ二度と来たくないと思うだろうな」

「そうよねえ、やっぱり来たくない、二度と行きたくないと思うでしょうね、それが普通の人間だわ」

だが、お弁当はとても美味しく、しかもボリューム満点だった。二人とも顔を見合わせニッコリ。

「さあ、腹ごしらえは出来たし、次の戦場ヶ原に向かって出発!もっと万々いいとこ見つけて描くぞう」

二人は戦場ヶ原への木道を歩き出す。

その入った直ぐの所に木にしては細い灌木を見つける。小さなバラの芽のような葉が見える。

「あ、これ野バラかな?夏に来た時、白い花が咲いてたような。でも夏には咲いていないわよねえ。どこか別の所で咲いていたのと混同しているのかしら。でもきっと野バラね」

多恵さん昔の思い出を辿る。確かにこの木はあったが、花が咲いていたかは定かではない。

「はい、ご名答、野バラよ。もうじき咲くわ、白くて沢山、そりゃあ綺麗だわ。普通そこいらの山に咲くものよりこれは保護されている所為かしら、それとも種類が違う所為なのかしら、とても花付きが良く、ご覧のように木も大きくて立派、その内大木になったりして。でも野バラの大木なんて見たことある?ハハハ」

「白い野バラか、素敵な匂いがするのよねえ」

「ええ、わたし、野バラの匂い、大好きよ」

「私も勿論大好きだわ。花もそこいらのバラより清楚で素敵だし・・」

「分かった、なんか思い出があるのね、どこかの山に登って、だれか素敵な人から野バラを手折ってもらったとか」

「無い事もないわ、そう二人くらいかな。一人は大好きな人で、もう一人は見かけは良いけど、ちょっとしつこくて。うーん、それがなければ良かったんだけど」

「まあ、えりどりみどりだったのね、うらやましいわ。一人は今のご主人かしら」

「全然、だって、大樹さんは山登りする人じゃないもの。まあ何時でも簡単に登れる低い丘のような山があれば、キット大樹さんも登るでしょうが」

風が吹く。さわやかで気持ちが好い。

「さあ早く歩いて行きましょう。あ、ズミが見ごろだわ」

「ほんと、沢山咲いてるわねえ、向こうの白いのは全部ズミなんでしょう」

「多分そうよ。良く似てて花の時期も同じ物もあるから。ミヤマザクラがそう、それに花も葉っぱも全然違うけどミヤマイボタ何て名前の花があって、花の色が白いから遠目では分からないわ。あ、あれがそうよ、それこそ良い匂いがしてとても清楚な花なのよ」

「ええっ、とても綺麗じゃないの。どうしてイボタって変な名前が付いたのかしら」

「うーんそこまでは調べて来なかったなあ・・・うん成程変な名前、でも綺麗。私これを描くわあなたはこの先に、ビュースポットになってて、デッキにベンチがあるの。そこからの景色は雄大できっと景色の大画伯もお気に召すと思うわ」柏木さんが勧める。

「ありがとう、私はそこで描くことにするわ」多恵さん素直に従う事にした。

なるほど木道に同じく木製のデッキが張り出てベンチやテーブルまで備えられている。これは大いに助かる。早速スケッチ道具を取り出した。まだ若草で覆われ切れていない中に、オレンジ色のレンゲツツジが点在している。

「好いアクセントになるわ」多恵さん大満足。

レンゲツツジに元気をもらい、せっせと描く。

うん、また何かを感じる。誰?多恵さん周りを見回す。今度は中学生か高校生くらいの女の子が二人。

「あなたたち、どうして二人でここに居るの、まさか迷子になったんじゃないわよね」

二人、寂しげにほほ笑み、首を振る。

「私たちここで自殺したんです、二人で」

「修学旅行で来てとても楽しかったから」

「楽しかったのに何故死んじゃったの、みんなが悲しい思いをするじゃないの」

「私たち中学に入ってから、ずーと虐められて来たんです。汚い、臭いって言われ続けて来たんです」

「違います、私、家がとても貧しくて、だからお風呂も4,5日に一回ぐらいしか入れなくて、本当に汚くて臭かったと思います」

「そんな事ないよ、瑠璃はちっとも臭くなんかなかったよ。でもさ、だれかがそれを聞き出して、噂を広めたんだよ。それからみんなで瑠璃を虐めだしたんだ」

「奈々ちゃんだけが優しくしてくれたんだけど、私と遊んでいるから、奈々ちゃんまで、汚くって臭いと言う事になっちゃたんだ」

「中2の時、ここに修学旅行に来て二人ずっと一緒に過ごしたの。とても楽しかった。でも旅行から帰ったら、先生に二人だけで行動した事を叱られて、周りから前より酷い苛めを受けるようになったんだ」

「鉛筆や消しゴムは無くなるし、教科書にはあることないこと書かれて」

「それを先生に見つかって、それをみんなの前で大きな声で読まれて、」

「それは私が書いたものでなくて、誰か悪戯で書いたものだと言っても先生は信用してくれなくて」

「そんな事が毎日続いた上に・・・」

「瑠璃ちゃん、盗みの疑いまでかけられて。結局お金は出て来たんだけれど、みんな彼女に謝らないんだよ。酷いでしょう」

「私その時,死んだ方が増しだって思ったの。それで、奈々ちゃんにお別れの手紙を書いて渡したの」

「わたしはそれが別れの手紙だと気付いて、瑠璃ちゃんの後を追いかけ、一緒に死のうと言ったの。だって一人で死ぬのは寂しいでしょう?それに一人残されても、みんなが私を非難してもっともっと苛めが酷くなると思ったんだもん。一応、遺書らしいものを書いて、私の貯金を郵便局からおろして、二人で楽しかった思い出の地であるこの日光にやってきたと言う訳なの」

この二人の話を聞きながらも、多恵さんはせっせとペンシルを動かす。

「おばさん、絵,凄く上手ね。私たちも絵、結構得意な方だけどおばさんのようには描けないわ」奈々ちゃんが感心して覗き込んでいる。

「それにこの色鉛筆、とても描き易そうだし、好い色だし。これ高いんでしょう」

「そう、高いのよ。だから大事に使わなくちゃならないの。だけど褒めてくれて嬉しいけれど、それ生きてる時に聞きたっかったな、そしたら絵が上手くなるコツなんか教えて上げられたかもね」

「でもおばさんどうして私たちが見えるの?」

「それはね、おばさんにも分からないの。気が付いたら見えるようになってたのよ、余りありがたくもないし、人には言えない。実を言うととても気が重いのよ」

その時杉山君が現れた。

「ほらあなたたちと同じ種類の人がやって来たわ」

「どうしたんですか、まだ若い、若すぎる少女が二人。何か事故にでもあったの?」杉山君が尋ねる。

「苛めにあって、二人で楽しかった思い出の地で心中したんだって」

「そうか、今各地で苛めがエスカレートしてるからな。でもさ、両親はとても辛いと思うよ、こんなに若いし夢だって有っただろうに」杉山君がそう言ってる所に他の幽霊諸君も現れる。

「わあ凄い、この人達、みんなおばさんの知り合い?」奈々ちゃんの方が驚いて聞く。

「そうよ、本当はもっといるけどね、彼らとは特に親しくしてて、というか親しくされていて、わたしの旅行まで付いてくるの」

「そうなんだ、おばさんも大変よね」

「友達がいるからダメと言っても、日程調べてこの間なら大丈夫とか言って付いて来るの。何とかならない?」

「叱ったらダメ?」

「叱ったりしたら、酷い鬱病になってしまう人が居るもので‥」

「ハハハ、実はこの俺がその張本人。しかもこのおばさんの生前からの友人なんだ」

「俺たちは彼繋がりで仲間になって救われたし、他は仕事や旅で知り合って救われたと言うのが大半」

石森氏が説明する。

「この中で自殺したのは、彼と彼女だけだな。もう一人いるけど、彼女は旦那さんに首っ丈で、余り僕たちとは合流しないんだ」と良介君。

「あなたこの中で一番若そうね、大学?それとも高校生か浪人生かな」

「僕は大学入って直ぐの夏休み、川で溺れて死んでしまったんです」

誠君が説明する。

「彼、溺れている子を助けようとして心臓麻痺で亡くなったのよ」輝美さんがカバーする。

「本当は即天国に行けたのに、また川でおぼれる子が出るんじゃないかと、心配でそこに留まってたの。

でもそこにお地蔵さんを立てることになり、やっとそこから解放されたんだけど、少しこの世に留まって観察することになったの。彼には色々良い霊だけにしか出来ないことを手伝ってもらてるんだ」

多恵さんがそれを又補充する。

「へええ、お兄ちゃん、偉いんだね。私たちも見習わなければいけないわ」

奈々ちゃんが瑠璃ちゃんを振り返える。

「私も親不孝した代わりに、このお兄ちゃんの傍で修業したい」

「うーん、その心構えは立派だけれど、あなた方は自殺したから、まだまだ彼の手伝いは出来ないわ.暫くはこの集団の中で修業して、幽霊力をつけてからの話ね」

話している間に大体スケッチは大部分出来上がった。

「あのう、私、絵、とても好きなんです。本当は生きてる間におばさんに巡り合えたらよかったかもしれませんが、死んでしまった私でも絵の勉強は出来るんでしょうか?」

奈々ちゃんが恐る恐る尋ねた。

「そうよね、あなた、絵が大好きと言ってたわね。この世に存在しないあなただから、現実の美術展には発表できないけど、せっせと今の内に稽古して、上手くなったら、きっとあなたのような人と沢山出会うと思うから、その人たちと一緒にどこかの美術館で展覧会を開いたら良いんじゃない」

「えええっ、そんなこと出来るんですか?嬉しい!」

「良かったわね奈々ちゃん、あなたと死んでとてもありがたかったけど、私、奈々ちゃんの折角の、絵を描く才能を開かさないで死なせてしまった事を、心苦しく思っていたの」瑠璃ちゃんも嬉しそう。

「それから、あなたたち,ここで何時までもうろうろしていてはいけないわ。早く徳を積んでそれぞれのご両親の元に帰らなければいけないわ。そしてご両親の守護霊になれるように修業を積むの。そうなるにはどうするかはここに居るみんなに聞きなさい。でも本当は死んで欲しくはなかったわ、若い命、も少し絶えてほしかったわねえ、それがとても残念」

「あ、お友達がこちらにやってきますよ。私たちは彼女等を連れてあっちの方に行ってます。では又」

杉山君の声で向こうの方を見ると、柏木さんがやって来るのが見える。

「待ったー」柏木さんの元気のよい声。

「ううん、私の絵も今書き終わった所」多恵さんも調子を合わせる。

「どれどれ、あ、成程。レンゲツツジがちょうど見ごろなのね。好い色に仕上がってるわ」

「それからあの真ん中当たりにピンク色に見えるのは何かしら、あれもとても綺麗だわね」

「あれは下野。ホザキシモツケって言うらしいわ、正式には。ああこれよ、ここにもあるわ、でもここのはもう花は終わって枯れているわ」

柏木さんが木道の直ぐ傍の灌木を指さす。成程近くの学校の校庭で良く見かける下野に似た灌木がある。「良く見るとさ背が低くて気が付かないけど色んな花が咲いてるのよ、アヤメも咲いてるし、野アザミもある。あの黄色い花はウマノアシガタ、日本人て花の名前を付けるのが下手よねえ。カキドウシもあるけどこれは平地でも良くある草よね」

「カキドウシは薬草でもあるのって母が言ってたわ」

「そうらしいわね、それからウツボグサにマイヅル草、もっと有るけどここいら辺で先に進もうか?」

道具を背中に背負って二人は歩きだす。

「あなたと歩くと植物に詳しくなるわ。三日もいたら植物学者になれるかも」

「無理無理、私も知らない草花が一杯よ、植物学者だなんて足元にも及ばない」

見晴らしの良い小道をズンズン歩いて行くと、やがて木々の茂る場所に到達。湯川の流れる音。橋が見える。

「ここが青木橋、ここからの湯川の流れがとても素晴らしいと評判なの。勿論風景画家の河原崎さんは描くわよね」

「ええ、勿論描かせてもらいます。水の流れが何とも言えず清らかで、しかも神秘的」

「そうよねえ、私はズミとミヤマウグイス葛を描くわ。少しまた離れるけど悪しからずね」

そう言うと柏木さんは少し先のズミの大木の方へ行ってしまった。残された多恵さんは橋は手すりもない細い木橋だったのでそこから下へ降りて描くことにした。

心地よい音楽のような川の流れを聞きながら、スケッチの鉛筆を走らせる。

ああそうだ、と多恵さんは気付いた。私は大事なことを杉山君たちに聞きそびれている。あのヒカル君はその後どうなったのかと言う事だ。きっと彼らもその報告をしに来たに違いないのに,飛んだ二人の中学生の心中事件に巻き込まれ、聞きそびれ、話しそびれてしまったんだ。

「この橋も小いさくて細いけれど、中々風情があるし、存在感があるな」多恵さん感心する。

「はい、大きくても存在感ありましたよ、この俺。生きてる時はね」杉山君が現れた。

「ハハハ、でも、幽霊世界では顔が広い、だろ?」石森氏も出て来た。

「うわあ、緑と水の色が綺麗。本当に水を描かせたら、河原崎さんに敵う人はいないですね」

良介君と輝美さんが同時に出現。杉山君の焼けるシチュエーションだ。

「ありがとう、でも、上には上がワンサカいるんだ」多恵さん慌てて否定する。

「ここは僕達の居た秋川渓谷とはまた全然違った趣ですね。流れはずっと穏やかだし、岩が少ない」

天使の誠君が地縛霊になりそこなった美咲さんと中学生コンビを引き連れて出没。

「でもここではだれもバーベキューやってないわ。あそこでは来る人来る人バーベキューやってたわ。景色よりも食べることが目的みたいに」美咲さんが口を開く。

「ここは場所もないし、そんなことしないで欲しいな」

「そうよ、ここは自然の営みを観察したり、その自然に癒される為の場所なんだから」

中学生コンビが良い事言う。でも多恵さんはこの先にあるもう少し広いスペースのある場所では、携帯のバーベキューセットでそれを楽しむ家族がいる事も認識してる。でも今は知らんふりする事に決めた。

「忘れない内に聞いとくわ、あの子、ヒカルちゃんはどうなったの?」

多恵さん奥の方の茂みが少し気になって少しだけ色を足す。

「ああ、ヒカル君はもう心配ないです。DNAも一致しましたし、火葬して帰るそうです。お母さんにやっと会えて、それ以来お母さんの側に付きっ切りですよ」杉山君が答える。

「ちょっと手を加えるだけで、随分雰囲気も変わるし、奥行きが増すんですね。私、幽霊ですが弟子にして下さい。お願いします」奈々ちゃんが必死に頼み込む。

「私からもお願いします。今は何の力もない私たちですが、幽霊力付いたら二人でお家の事や身の周りの事等、何でもします」瑠璃ちゃんも一緒になって頼み込む。思わず多恵さん吹き出す。

「お願いは聞いてあげたいのは山々だけど今は無理なのよ。ほら、あなた達って自殺したでしょう、そう云う人達って凄い冷気を発してるの。あなた方は余り虐めた人達を恨んでいないようだから、まあそれほど酷くはないけど、でも矢張り側にいたら段々寒くなるわ。それに幽霊力って普通の人間みたいなことは出来ないのよ。まあこうやって外で描いてる時は見ていても大丈夫だから、覗きに来ても良いけども、家の中ではご免こうむりたいわね」多恵さん優しく諭した積りだったが、この二人泣きだした。

「自殺するともう、お母さんやお父さんの側には近寄れないのね」

「御免なさい、あなたを道連れにしたばっかりに、こんな悲しい思いをさせて」

「大丈夫よ、ここに居るお友達が段々その冷気が消えて行く方法を教えてくれるわ。ね、杉山君」

「そうだよ、暫く僕たちと一緒にいて、徳を積んでいけば、お母さんに近づいても大丈夫になるよ」

「あなたたちは女の子だから、矢張り私や美咲さんと一緒が好いでしょうね。ここ暫くは私たちに任せて頂戴」みんなの声に励まされてやっと二人は泣き止んだ。

「まあ、ここに居る間は、この汚れない景色を楽しもうよ。もっと元気を出してね、若いんだろう。と言ってももう僕たち年を取らないんだけど」誠君。

「きっと君たちも、自分で死んでしまった事は反省するだろうけど、ここに居る仲間といれば幽霊であることを受け入れ、自分を磨く事、成長する事が出来る事を理解して歩んでいけるさ」良介君。

「あ、絵が出来上がりましたね。お友達待ってるんでしょう、早く行きましょう。途中までなら良いですよね」杉山君とみんなもぞろぞろ付いて来た。多恵さんは少し肌寒い。

柏木さんには直ぐ追いついた。

「待たせたかしら?」多恵さんが詫びようとした。

「ううん、私も今書き終わった所よ、このズミ凄いでしょう。少し絵心動かされない?」

「ええ、そりゃ勿論よ。時間があれば描きたいわ」

「そうねえ、この先にある泉ヤド池、字はね泉にヤドはモン、家の前に立ってる門よ、何だか言い間違われて、最後に泉門池のままイズミヤドイケと言われるようになったらしいけど,そんな事はどうでも好いわね、そこの景色の方が多分あなたのハートをがっちりつかむと思うから、ここは写真にでも取ってそっちに行きましょう」と柏木さん

多恵さん、彼女に従う。

「なんだか急に冷え込んで来たわね。ここは高地だから夜になるとぐっと冷えるけど、まだそんな時間じゃないわよね」柏木さんが頭を傾げていぶかしがる。

多恵さん、内心狼狽えて手でみんなに消えるように合図をした。

「どうしたの、何か虫でもいたの?」柏木さんが尋ねる。

「ええ、虫が飛んでいたから追っ払ているの」多恵さん、とぼける。

少し歩くともう泉門池だ。

「私はね、ここに咲いてる紫色のトウゴクミツバツツジを是非描きたいと思っていたの。あなたは適当に好い場所見つけて、描いて頂戴。素敵な所でしょう、マガモもいるし、と言うより彼等はここに一年中いるのよ」

「へえー、マガモもここの気候と環境が気に入ってるのね。うーん、鳥もそのトウゴクミツバツツジも一緒に描き込みたいわね。その方が鳥も満足、わたしも満足と言う所かしら」

「そうお、あ、あそこに咲いてる、それにあそこにも。結構咲いてるわね、これは楽しみ楽しみ」

「じゃあ、私は風景をメインに場所を決めるわ。あ、あれは何の花?ほらあの赤い花」

「あれは東シャクナゲよ。あれも今頃咲くのよね。結構あっちこっち咲いてるわよ。わたしもミツバツツジを描いたら、次にシャクナゲ描くことに決めたわ」

二人は離れて好みの場所を探す。多恵さんは池と周りの木々や草花のバランスを考えて、一番自分の心にぴったり来る所に落ち着いた。マガモも多恵さんを気にすることなく(当たり前だが)目の前をすいすい泳いでいく。

「ここが好いわ、池への枯葉の散り具合もツツジやシャクナゲの点在の位置も数の多さも丁度良い」

多恵さん、イーゼルを固定させ早速スケッチに取り掛かる。それと同時にうるさい連中も現れる。

「又あなた達なのね、何か他にすることないの?昨日みたいに、この池の中探検したりとか、反対にずっと上の方に舞い上がって、この戦場ヶ原の全景を眺めたりとかさあ。ちょっと生きてる身からしたら、羨ましい限りだわ」

「はあ、そうですがね、新入りのこの二人のお嬢さん達が河原崎画伯のスケッチしている所を、どうしても見ていたいと言うのでね、こうして煩がられるのを承知で、あなたの傍にいるんですよ」

杉山君が必死で説明する。他のみんなも大きく頷く。

「分かったわ、二人はここで私の絵を見ていて頂戴。で他の幽霊さんたちは暫く他の所で遊んでてくれるかな」

杉山君は少し不満そうだったが、石森さんや良介君に引きずられて消えて行った。

「じゃ描くとするか。あ、でもあなた方は自殺したばかりで、凄く冷気が強いのよね、まあ私は寒さに強い方だけど、でもじっと側に居られると、矢張り体に堪えるのよ。だから悪いけど時々側から離れてくれるかな?」

二人、顔を見合わせてから頷いた。

日影が多い為か、芽吹いた木々が殆どだ。そのため木漏れ日が差し込み水面がキラキラと輝く。ミツバツツジの紫色と薄紅の東シャクナゲのアクセントがなければ、この絵はずっと寂しい、または単調な風景が担ってしまうかも知れなかった、花に感謝、そして乾杯だ。

「ね、人間だけでなく、こういった処でさえ、互いの個性を認め合い、引き立てあって成り立っているのよ。そう云う事が理解できない人はとても可哀想な心を持って生きているの。大きくなってそれに気づいた人は、自分が歩んだ道をどんなに後悔するでしょうね。それに全く気付かない人は、もっと哀れ、哀れな儘で死んで行くの」

二人はおとなしく聞いている。

「あなた方が死んで、後悔した人は自分の心の狭さに慄き、これから懺悔の日々を過ごしていくでしょうよ。もし後悔してない人が居るとするなら、その人達がその人生の何処かで気付く事を祈りましょう。そしてその人達を許して上げましょうね」

「わたし達、誰も恨んでいないわ、そりゃあ、わたしに濡れ衣を着せた人達の事少しは恨みましたが、もうそれはどうでも良い事だと思えるようになりました。だって奈々と二人でこうしてあなたの絵を見ていることが出来るんですもの」

「ええ、あなたに巡り合えなかったら、まだこの戦場ヶ原で二人で迷っていたら、きっとあの人達の事、とても許す気にはなれなかったでしょう。でも今は違います、仲間も増えましたし、あの人達とても愉快な人達です。それより何より、この幽霊の身でも絵の勉強が出来、仲間を集めて、美術展が開けるなんて教えてもらって、心が明るくなりました。今までずーっと真っ暗だったんです、それがあなたに会えて、色々教えてもらって、本当に嬉しい気持ちが湧いて来ました」

二人は素直な心の持ち主だ。多恵さんはこの二人の冷気が、この戦場ヶ原で出会った時よりぐっと減っていることに気付いた。

「あなた達は本当に良い子達ねえ、あなた達の恨む気持ちが薄れてきて、冷気も大分薄れて来たわ。この調子で修業を積めば早くその冷機から抜け出て、お母さんやお父さんに近づいても大丈夫になる筈よ。出来たらあの若い大学生と行動を共にしたら良いと思う、彼って天使みたいな人だから、きっとあなた方を良い方向へ導いてくれるはずよ」

二人は顔を合わせてニッコリ笑う。若い二人には笑顔が似合うと多恵さんは思う。

「でもこうやって話しても絵はどんどん描けるんですねえ、本当に凄い」

「良い人に巡り合えたわね、奈々ちゃん」

「私も良い絵が描けそうな気がする。あ、そうだ、瑠璃ちゃんは歌が上手いのよねえ、あなたは歌を稽古して、リサイタル開いたら?」

「えええっ、私がリサイタル?そんなに上手くなれるかしら、基礎も何にも知らないのに」

「大丈夫よ、幽霊さんたちに音楽学校へ案内してもらって、そこで学んだら良いわ」

多恵さんが助け舟を出す。

「えっ、幽霊の音楽学校ってあるんですか?」

思わず多恵さん吹き出す。

「そうじゃなくて、普通の、この世の音楽学校の事よ。そこに通うの」

「でもわたし、お金もないし、入学試験も自信ないなあ」瑠璃ちゃんの寂しそうな顔。

「あなた幽霊なんでしょ。だったらお金も試験も関係ないわ、あなたの気に入った所を選んで、勉強すれば良いのよ。うーんこれも生きてる人間には羨ましい事かも」

「本当に自分の好きな物を勉強出来るんですか‥だったら、歌以外でも良いんですよね」

「ええ構わないわよ、歌以外に何をするの?」

「実は私、ピアノを弾いてみたいんです。これはわたしの夢だったんです。私が小さい時、お父さんもいて、家も貧しくなくて、その時ピアノを習っていたんです。楽しかったなあ、先生もきっとこの子は素晴らしいピアニストになるって期待してくれていて・・先生どうしてるかな、きっとがっかりしてるだろうな。先生ごめんなさい、現世では駄目だったけど、この世界では絶対にやり遂げます」

奈々ちゃんに比べて暗い顔していた瑠璃ちゃんの顔が大分明るくなった。

「それは良かったわ、幽霊になっても自分の魂を浄化するためには、何か目的がある方が良いに決まってる。奈々ちゃんには絵、瑠璃ちゃんにはピアノ。あの幽霊軍団の中の石森さんと云うおじさんは元々お蕎麦屋さんだったの、死んだ後でも美味しい蕎麦について研究してるのよ、それも自分の恋敵の為にね」

「え、そうなんですか、考えられなーい。他の人はどうなんですか」奈々ちゃんが尋ねる。

「まあ、大体が、自分の愛してくれた人のため守護霊になりたいと思って頑張っているんだけど、自分の趣味や特技を延ばしたり、勉強してる人はいないわね‥うーん今度聞いてみようかな」

「わたしみたいにピアノだとかバイオリン何かに興味がある人が居たら良いな。一緒に稽古できるし、上手くなったら合奏も出来るわ」うっとりと瑠璃ちゃんが呟く。

「そうよね、聞いてみようよ。もしいなかったら、誠さん、誘ってみよう?どうせ時間はたっぷりあるんだし,下手だって構わない、これから一生懸命勉強すれば良いのだから。もしそれでも駄目だったらわたしがやるわ。クラリネットで良ければね」

「絵も音楽も両方上手くなって、欲張りな奈々ちゃん」二人の笑い声が水面に響く。

もしこれが生きている時の場面なら、どんなに素敵な一時でしょうと多恵さんは思う。でも二人は道を間違い、道に迷って自らの命を絶ってしまった。せめて死んだ後ではあるけれど、その与えられた能力を出来るだけ磨き上げ、幽霊界のみんなを楽しませる事を目指して欲しい。

「ね、はかどってる?」

はっとして振り返ると柏木さんが立っていた。

「ええ、大体描けたわ。後は少し写真を撮ったら次行きましょう」

「そうね、暗くなる前にホテルには戻りたいから。あなたはお土産を買うんでしょう。それに何か・・・

何かわたしに隠れてやってる事あるでしょう?」

「ううん、何もないわよ。全然」多恵さん、内心たじろいた。

「ある、絶対に。わたしの目に狂いはない」確信に満ちた柏木さんの言葉。これは少し譲歩するしかないと多恵さん、観念する。

「わたしね、実は死んだ人の姿が見えるのよ」

「ギャハハハ、何言ってるのよ、そんな事では胡麻化されないわよ」

ぎょっとすると思っていた柏木さんが笑い転げた。

「本当よ、実は昨日もあの阿世潟あたりで行方不明になって死んでしまった男の子にあったのよ。それで知り合いの幽霊さん達に頼んで、遺体が人に見つけてもらえるように取り計らってもらったの。それが気がかりで昨日の夜や今朝も幽霊さんと連絡しあっていたのよ」

「ハハハ、面白い、知り合いの幽霊さん達だって。一応つじつまが合ってるけどね。それから今日は?」

「あら今日もなの?仕方がないわね、どうせ信じないんだから話しても無駄だと思うけど」

「でもさ、愉快な言い訳。幽霊話で誤魔化す人は初めてだから、も少し聞いてやってもいいと思うんだけど」柏木さんはこれっぽちも信じちゃいない。多恵さんウンザリしたが、しぶしぶ話し出す。

「今日はね、ここで二人の女子中学生の幽霊に会ったと言うか、今ここに居るの。冷気はあなたも感じるでしょう」

面白がって例の二人が冷たい手を代わる代わる柏木さんの頬にあてる。

「ううっ、夕方が近づくと冷えるわあ。特にほっぺが冷たい」柏木さん震え上がる。

「ま、良いわ。どうしても言えないなら許して上げる。それより早く次に行こう」

やっぱり彼女、全然信じちゃいない。

気を取り直して、多恵さんも写真を撮り終わると荷物をまとめて立ち上がる。

暫く行くとまた木の橋がある。

「この橋は小田代橋、でも今は通れないの、災害で今道を修復中なの。その名の通り小田代ヶ原に通じているんだけどね。ここが取れないから少し迂回して行くわよ」と柏木さん。

例の中学生も付いて来る。柏木さん少し寒そう。盛んにハンカチで鼻水を吹いている。

多恵さん可哀想になって咳払いと共に手を振って二人に離れるよう合図を送った。

「何してるの?」柏木さんが聞く。

「例の中学生があなたの側にくっ付いているから、少し離れるように合図したの」

「あら、ありがとうと言うべきか、マタマタ御冗談をと言うべきか、迷うなア。うん、でも気の所為か、何だかさっきよりすこうし増しかな、ハハハ」少し腹立たしので、多恵さん、又二人をくっ付けて首にでも手を突っ込んでもらおうかとも思ったが、大人気ないので止めといた。

暫し森の中を行くと強い水音が聞こえてくる。

「もう少しで小滝に着くわ。勿論小滝と言うのがあれば大滝もある筈よね。うーん所が残念ながら大滝はないときてる、でも安心召されよ、湯滝なる大きさもスケールも、これ同じか・・兎に角大きくて立派な堂々たる滝がすぐ近くに控えているの。そこが戦場ヶ原の最終地点と言う所かしら。も少し足を延ばせば湯の湖に辿り着けるけど、今回は湯滝までにしましょう」

「ええ、そうしましょう。あなたのお陰で見どころ満載の奥日光のスケッチ旅だったわ」

「それを言うなら描き所満載の、と言って欲しいわね。でもあなたと一緒に来て良かったわ、話は楽しかったし好天には恵まれたし、本とにありがとう」

「それは私の言うセリフよ。植物には詳しくなれたし実在する仙人にも会えた」

「みんなが思ってるような仙人じゃないけどね。九輪草を只管守るだけの仙人だけど」

「今の世の中に、一つの花を守って生きてるなんて、普通の人間には出来ないわ。彼は正しく仙人なのよ。それに誰も気づいていないだけなのよ」

「うん、そうかも知れない。今度会ったら気付かれないようによおーく観察してみよう」

小滝に着いた。小滝とは言っても中々小さいながらも勇壮で風情もある。

「私は小滝をバックにイボタと花菖蒲を描くわ」

早速柏木さん、咲き始めていた濃い紫の花菖蒲に目をつけて、スケッチの場所を確保した。

「じゃわたしはちょっと離れた向こうの方で好い場所探すわ」

多恵さんもも少し淡い色のアヤメを見つけ、そこからの風景を描くことに決めた。

二人の少女が現れる。

「全然話信じてもらえませんでしたね。もっと強引にやらなければ分かってろらえませんよ」

瑠璃ちゃんが不満そうに呟く。

「いいのよ、あれで。その方が気楽に友達付き合いが出来ると云うものよ。そういう能力を持ったものは

この世の中では、目立たずひっそりと生きて行くものなの」

「わあ、滝凄く巧いんですね。早く私も描きたーい、先生みたいに上手でなくて良いから」

奈々ちゃんが声を上げる。

「まあ、この所滝を描くのが続いたから、それに滝が好きなのよ」

ふと多恵さん、お中が空いたことを思い出した。振り返って柏木さんの方を確かめる。だが木々が邪魔をしてはっきりと見えない。

「何をしてるんですか?」瑠璃ちゃんが訝しがって尋ねる。

「生きてる人間はお中が空くのよ。だから何か食べようかとしたんだけど、彼女も空いたかなと思って見たけど、ここからは良く見えないわ」

「じゃあ、私が見てきます」瑠璃ちゃんが彼女の元へ飛んで行った。

「ヘヘヘ、彼女もお中空いてたみたいでパンを食べてましたよ」瑠璃ちゃんの報告。

でも何だかご機嫌がすこぶる良いように見える。

「そう、じゃあ私もパン食べよう」多恵さんリュックから用意してきたパンを取り出した。

「あ、あなた達、もし人間の食べてるものが食べたくなったら、実在するものならその味とか香り、お中は膨れないけど、食べてる気分は味わえるわ。後から他の仲間に詳しい事は聞いて。あの人たちの大部分は食い意地が強くて、中々幽霊家業から抜け出られない人達だから」

「わたし達ももしかしたらその仲間かも知れません。だってお中は空いていないのに、何か甘いものが欲しくてたまりません。この戦場ヶ原で彷徨っている間、二人でチョコレートやアイスの話ばっかりしてました」奈々ちゃんが恥ずかしそうに話してくれた。

「そう、分かった。リュックの中にいざと言う時の為にチョコを準備してあるの。そのチョコをサービスしましょう。と言っても実際は食べれないんだけどさ」

多恵さん、リュックの中から大好きなラムレーズン入りのチョコを取り出す。

「このチョコレートはラムレーズンチョコと言って、3月までしか売られていないのよね。このチョコの好きな人は、このチョコの独特の味に魅かれてファンになり、大抵このチョコの半中毒みたいなものに罹っているみたいなの。だから、それが無くなるのは凄く困るわけ。そこで仕方なく2月、3月にこれを買いだめするのよ。それでもって中には賞味期限切れなんてこともあるけど、そんなのわたしは全然気にしないから、それでもあなた達食べる」

「よ、喜んで」二人声を揃える。二人の手が伸びる。

「あ、それからもう一つ。さっきも言った通りこれはラム酒入りなのよ、未成年者のあなた達に勧めるべきか迷ちゃうわね」

「私たちもう死んでるんですし、実際には食べれないんでしょう?だから大丈夫です、食べさせて下さいな」二人は幻のチョコを手に取り、銀紙をはがしてチョコを口に入れようとしている。

「ええっと、もしかしたらラム酒が口に合わなくて変な味なんて思うかも知れない。私も初めて食べた時何だ、この味、って思ったもの」多恵さん空かさず口をはさむ。

「うーん、このチョコ、色々あるんですね、他に何かあります?」

「もうないと思うわ、ただ、2度、3度と食べてる内に気が付くと、半中毒になって困るのよねえ」

「はあ、何だか少し食べるのが怖くなりました」瑠璃ちゃん。

「分かった、うちのお母さんも半中毒者だったようです。3月位になるといつもこの赤い箱のチョコがこっそり積まれていたのを覚えています」奈々ちゃんが思い出しながら呟く。

「フフフ、きっと私と同類ね、奈々ちゃんのお母さんと」

多恵さんのその言葉に奈々ちゃんも笑う。

多恵さんはパンを食べ、女の子たちはそのチョコを,初めは多恵さんが想像してた通り、変な顔をして食べ,その後は・・・多恵さん、少し不安になる。

多恵さんのスケッチが終わる頃、柏木さんも終わってこっちの方へやって来た。

「どう描けた、あら素敵、本当にこの頃河原崎さん、滝の絵がすごく上手になったわよねー」

「色んな所で滝の絵、描かせてもらってますから、お陰様で」

「処でさあ、さっき変な事あったんだあ」 

その言葉に多恵さんドキッとして瑠璃ちゃんをちらりと見やる。瑠璃ちゃん、多恵さんに笑ってウインクする。悪い予感、うん、でもないか。

「何があったの?」と平然と聞く。

「さっきさ、お腹が減ったのでパン食べてたの。初めはそうじゃなかったんだけど、急に食べてたパンが冷たくなって,何だか味までしなくなったのよ」

「え!味までしなくなったの?そんな事ないはずよ」多恵さんビックリ、味が消せる力なんて彼女の幽霊力からしてある訳がない。

「何だか水を噛んでる感じなの、別に水筒の水を飲んでもいないのに。何となく薄ら寒い上に冷たい水のようなパン、これって可笑しいわよね」

「そ、それは可笑しいわね、きっと妖精かなんかの悪戯よね」

「ま、又、幽霊の次は妖精なの。幽霊よりは妖精の方がまだ益しだけど」

「本当は、あなたが幽霊さんを信じないから妖精と言っただけよ。それで妖精さんの悪戯は収まったのかしら?」

「ええ、ほんの少しの間だったわ。もしかしたら気のせいだったのかもね、ハハハ」

二人の幽霊コンビが手に水を救って来て、柏木さんの頭から流し込む。豪快に笑っていた彼女は縮み上がる。

「ウワー、私何かおかしいわ、風邪引いたのかも知れない、何だか凄い寒気」

多恵さん、手で二人を制する。

「そうかも知れないわね、ここから早く出て次に行ったら良くなるかもよ」

「そうしましょう、ここは私的には体には良くないみたいだわ」

と言う事で二人はそこを後にし、次の大滝こと、湯滝へ向かう。

「どう気分は?」と多恵さんがチジミ上がっている柏木さんに尋ねる。

「うん少し温かくなってきた。あなたは信じないかも知れないけど、さっきは丸で頭から水をかけられている気分だったわ。ほんと最低、天気はこんなに好いのに」

「いいえ、わたしは信じるわ。可哀想だし、気の毒だと思うわよ。でももう気分が回復したのなら、もう大丈夫じゃないかしら、きっと」

話している間もさっきの音よりももっと激しい音が聞こえて来る。地響きだ。

「もう直ぐよ。この滝の勢いでわたしに取り付いている悪霊をわっと押し流して欲しいものだわ」

多恵さん、悪霊呼ばわりされた二人組を見つめる。これ以上二人が悪戯をしないことを祈るばかり。

季節的に今が好い時なのか、水量が多くてとても勇壮だ。これなら二人がもし悪霊なら、本当に洗い清めてくれるかも知れない。

「ここは河原崎さんの独り舞台ね、水量たっぷり、流れは速い。水は清らか木々も萌黄色。うーん、私は滝をバックに何を描くべきか」柏木さんが歌うようにしゃべる。

「あそこのアヤメにしたら。私はさっき描いたから、今度は向こうの花菖蒲にするわ」多恵さん提案した。

「そうね、ここはアヤメが沢山咲いているから、ここにしましょう」

柏木さん、ご機嫌直ってイーゼルを立てるとすぐにスケッチに取り掛かる。

「流石画家ね、もう心は対象物に向かってる」と多恵さん感心しながら自分の描くべき場所を求めて彼女の元を離れる。

二人も後ろからついてくる。

「あ、ここが好いわ、滝の角度も木々の配分も文句ない。水辺は白いせり科の植物で十分」

多恵さんもスケッチし始める。二人の少女も傍で見学。

暫し静寂の一時。只、滝の流れ落ちる音が響き渡る。

「あなた方の親兄弟はあなた方が亡くなった事をどう受け止めていらしゃるのかしら」

静けさを打ち消す多恵さんの一言。二人は互いの顔をじっと見つめあう。

「言いたくありません」奈々ちゃんが答える。それを言うのは耐え難く辛いに違いない。

「そう、分かったわ、それだけで十分よ」多恵さん、休むことなくカラーペンシルを動かす。

「もう少し時がたって、あなた方の心が落ち着いたら、一度あなた方の肉親の元へ帰ってあげなさい。出来たらもう少し徳を積んで、その冷気を消せるレベルになれたら是非嘆き悲しんでいる肉親の所に帰ってあげて頂戴。自らの命を絶つことがどんなにみんなの心を傷つけるか良く分かるわ。それが現世であなた方を苛め抜いた人であってもね」

「わたし達に意地悪をした人たちも傷つくのね。少しは思い知るべきだわ、ね、瑠璃ちゃん」

「ええそうよ、私に濡れ衣を着せといて、そうじゃないと分かってからも、あの人達は知らん顔だった」

「私たちの葬式の日、彼女らも来たけど、全然悲しそうではなかったわ。如何にもお義理で参加してるって感じだった。あそこで彼女らが泣いて謝ったら少しは許してあげようとは思ったけど、全くその気配なし、少しは申し訳ないという顔出来ないのかしら」

「どんな辛い思いもさっきの柏木さんが言ってたように、この滝に流せたら好いわね」

「この滝に」朗朗と流れ落ちる湯滝を二人は見つめる。

「人はね、自分が、今、相手の心をどんなに傷つけているのか、どうか、良く分からない事が多いのよ。でも時が経って、はっと気が付くの。誤りたいと思うけど、もうその人はいない。それはとても悲しく辛い事なの。せめてあなた方は許してあげなさい、それも又徳を積むことなの。わたしも沢山謝りたい人がいるの、でも今は会えない人たちばかり。誤りたい心だけ残して何時かはこの現世からサヨナラしなくてはいけない、辛いわね人生って」

「わたし、今は良く分からない。も少し考えてからあの人達を許すかどうか決めるわ」

「わたしももっと考えてからにする。だってこの冷気で今日みたいに悪戯できるんだったら、少しだけ悪戯もやって、この胸の留飲を下げてからでも好いじゃないかな」

「ふーん、単なる悪戯だったら徳には関係ないけど、恨みから行う悪戯は,悪霊の世界に足を踏み入れる事になるのよ」

「悪霊になったらどうなるの」

「そうねえ、先ず名前が悪い・・」

「え、そんな事なの?」二人が声をそろえる。拍子抜けした感じだ。

「ハハハ、これは冗談。でもないか、きっと皆に嫌われる事間違いなし。幽霊になった時点で顔色は相当悪くなってる、これが悪霊になればもっともっと凄まじい顔色になるわ、勿論その形相もぎょっとする様な感じは否めないわね。冷気も酷くなって、肉親や好きな人の傍には行くと害を及ぼすから近寄れない。悪霊力が強まれば、多分憎い相手をゾッとさせたり、風邪を引かせる事も出来る。だけど残念な事に、相手を選ぶ事が出来ないの。あなた方の大事な人も風邪やお腹を壊させる事になるの、と言うか、傍に居るもの、全部具合悪くさせてしまうの」

「だから悪霊なんだ」

「そう、中には傍に来た人を死なせてしまう悪霊もいるんだから」

「わあ、嫌だ。悪霊にはなりたくない」そう言って二人は抱き合った。

「だから、そうならないように心の奥底から、早く相手を許してあげるのが選ぶべき道なのよ」

「で、でも、心の奥底から許すなんて中々出来ないわ、ねえ瑠璃ちゃん」

「ええ、出来ないわ。口先だけでは、はい許しますなんて簡単に言えるけど、心の奥底、覗いて見たら、

ちゃーんとお座布団の上に恨みの思いが鎮座してるわ」

多恵さん苦笑しながら二人を慰める。

「今は積極的に許す事が出来ないのは当たり前だわ。今出来る事は彼女等の傍に近寄らない事、それだけ。近寄ると恨みは倍増するから、出来るだけ彼女達から離れている事、あなた達の心が彼女等の事で動じなくなる迄。きっとその頃にはあなた達の恨みも薄らぎ、ひょっとしたらもうすっかり忘れているかも知れない」

「彼女達から離れていれば好いんですね」

「それにはあなた達に紹介した幽霊さん達と一緒に幽霊業を学びなさい。結構楽しいかもよ」

ざわざわと後ろで音がする。

「はい、俺達が今ご紹介に与りましたその幽霊軍団です。さあて、何から始めようかな、女の子だから何か甘いものでもそろそろ食べたくなったんじゃないかな?」

現れた現れた、杉山君を代表とする幽霊諸君。

「それに洋服と行きたい所だけど、ここは日光、それも奥日光、洋服はもっと違う所で探しましょう」

輝美さんの声。

「温かい温泉なんて幽霊には関係ないと思うでしょうが、これが結構好いんですよ。後で試して見て下さい、ここは温泉地でもありますからね」温泉好きの良介君。

「お嬢さん達、ソバ好き?もし好きならおじさん、旨いソバ食べさせてあげるよ。おじさん、ソバを作らせたら日本一、と言いたい所だがまだまだ修行が足りない。日本一を目指している蕎麦屋の幽霊だ」

「若者には青空が一番似合います。只あなた方はお日様が苦手だから・・・」誠君

「水の中だったら平気よ。泳げなくても大丈夫。大体幽霊は溺れて死ぬなんてことないし、とっても気持ちが好いわ、浄化されてるみたいだから、試して見るといいわ」これはこれはの美咲さん。

「死んでからも色々楽しめるんですね」奈々ちゃんが尋ねる。

「そうよ、いろいろ試して、一番合ったものを極めるのも好いし、極めなくても好いの」輝美さんがやさしく二人に説明する。

「そろそろ柏木さんが来る頃よ、話は向こうでやって頂戴な」多恵さん、自分の絵も描き終わっていたので、柏木さんも終わったころと推量した。

「描き終わった?」矢張り彼女も描き終わってこちらに遣って来た。

「ええ、描き終わったわ。なごり惜しいけど今回のスケッチはここまでね。日も大分陰って来たみたいだから帰り支度を急ぎましょうか」多恵さんも道具をまとめ、スケッチしたものは小脇に抱えて立ち上がる。

「日は長いこの頃だけど、日が落ちるとここは急に寒くなるから、日のあるうちにバスに乗り込むのが利巧と云うものだわね」二人とも戦場ヶ原に未練を残しながら湯滝を後にする。

湯滝から右手に折れて少し歩くともうバス通りになっている。湯滝入り口の標識。疲れた体にはそれがとてもありがたく思える。考えてみれば、今日はホテルには泊まれない、せめてバスに乗ってこの疲れを少し癒そう。でもそのバスはあっという間にホテルのある場所に着いてしまった。

そう、問題なく懐かしのホテルに到着だ。ホテル側にしてみれば、さっさと荷物を引き取って欲しいと思っているだろうが、その前にお土産を買わねばなるまい。みんなの顔が浮かぶ。土産物店に足を向ける。

フムフム、例によってアルコール好きにはここは日光、日本酒、地酒が一番。実用的な物として、湯葉は女性たちには喜んでもらえそうなので、結構沢山買い込む。それにここの牧場のチーズやケーキのお土産を仕入れ、それらを足の速いものを除いて、宅急便で送る手はずをつけた。

ヤレヤレ大事な最後の仕事が終わったわいと思いつつホテルに入って行くと、ロビーで丁度ヒカル君がお母さんらしき人の傍にへばりつく様にしているのが目についた。

ヒカル君、多恵さんを目にして飛んでくる。

怪しまれないようにスマホで話していることにしよう。

「私、ちょっと電話して来る」と柏木さんに一言伝え、その場を離れた。

「おばちゃん、ありがとう。おばちゃんのお陰でお母さんたちと会えたんだとあの幽霊さんたちが教えてくれたんだ。だからもう一度会ってありがとうと言いたかったんだ」

「本とに良かったわねヒカル君、暫くはお母さんの傍から離れたくないでしょうから居ても良いけど、も少ししたら、お母さんの傍をちょっとだけ離れて見るのも好いわよ。時々あの仲間の人達が君を見に行くから、その人達に聞いてこれから何をしたら好いか相談してね。君は2年間ばかり一人で森の中を歩き回っていたんだから、きっとこれからも十分やっていける素質があるわ。さあお母さんの元へ早くお行きなさい、私も友達が待っているから」ヒカル君は去って行った。

「良かったですね、最後に会えて」杉山君だ。

「ええ、これで思い残すことはないわ。杉山君、だれでも良いから彼の今後の事が気になるから、時々様子を見に行ってくれる?お願い」

「勿論ですよ、任せて下さい。手の空いてるものが必ずついていますよ」

「良かったー。所であの二人は?」

「彼女等はここのホテルで食事中です。今まで何も食べていなかったし、幾ら食べても太らないと言ったら、食べる食べる,餓鬼そのものですよ。ま、人の事言えませんが、ヘヘヘ」

「二人の事もお願いね、一人は画家志望、もう一人はピアニスト志望。出来たら誠君に何か一緒に音楽やって欲しいらしい」

「誠に音楽?ハハハ似合うかも。聞いてみよう、何しろ時間はたっぷり、幽霊は,彼奴は幽霊じゃないのか、霊は疲れることはないんだし、ただ興味があるかないかの問題だ」

「あ、柏木さんがこっちを見てる。じゃあお願いね」

多恵さん、見せかけに手にしていたスマホをポケットにしまう。

柏木さんが笑いながら近づいてくる。

「なあに、ピアノ志望とか画家志望とか聞こえたけど、お嬢さんのこれからの事?」

「いえ、娘の事じゃないの、ちょっと知り合いの娘さんの事で相談受けててね、それで良い先生がいないかか探してもらってるのよ」

「画家志望ならあなたと云う立派な先生がいるじゃないの、まあピアノは駄目だろうけど」

「私の家は狭いし、人を教えた事ないから・・まあ時々くらいなら、私の描いてるのを見て覚えるくらいは出来るわ。娘も門前の小僧習わぬ経を読む、よろしく少しは絵が描けるようだから」

「お嬢さん、成長するのが楽しみね。どんな画家になるのかしら?」

「あら、娘は画家になる気は全然ないわよ、拍子抜けするくらい」

「え、ほんと、残念ね。でも小さい時の心って変りやすいものだから、その内自分の才能に気づいて、わたし、やっぱり画家になるというかも知れないわよ。ま、画家って殆どが貧乏人で儲からない職業だから余りお勧めできるものではないけどもね」

「それは言える、良かった娘が画家志望ではなくて」

「絵なんて、悲しいけど趣味程度が気楽でいられて好いのかもしれないわ。生きるか死ぬかの思いをして描いても、それを理解してくれる人に巡り合う事さえ難しい、しかも巡り合った人がリッチマンでなければ貧しいままで終わるのよ」

「そうよね、わたしは幸いな事にわたしの絵に惚れ込んでくれる人に巡り合い、決してリッチマンではないけども、私を支えてくれる、とてもありがたいことだわ」

「ああそうだったわ、幸運の人がここに居たんだ。うん、大いに羨ましいぞよ。それじゃあ、その幸運の女神ならぬ男神の所に戻りましょうか」

多恵さんと柏木さんは預かってもらっていた荷物を引き取りにカウンターへ向かった。

ロビーにはまだヒカル君の家族がいた。勿論ヒカル君も他の幽霊軍団もいる。二人の中学生コンビは少し離れて。目が合うとこの二人は多恵さんの所に飛んできた。

「みんなの所に今は居て」と小さい声で多恵さん呟く。

「え、何か言った?」と柏木さんが聞き返す。

「いえ、別に何も言ってないわよ」と多恵さん慌てて否定する。

「じゃあ、バス停まで行きましょう」

多恵さんヒカル君を見る。彼は手を振っている。多恵さんも手を振りたい。柏木さんを前に遣ってからにしよう。うん、彼女が前に出る。今しかない!多恵さん後ろを振り向き、急いで手を振る。ヒカル君の両親がそれに気が付いて,それに答えて手を振ってくれる。

「何をしてるの?知り合いなの」と柏木さん。

「あの人たち、子供を亡くしたご両親なの、ちょっとした励ましになればと思って」

「ふーん、そう。でも良く分かったわねえ、あの人達が亡くなった子供の両親だなんて」

多恵さん内心狼狽えたが、平然として答える。

「さっきあなたがトイレに行ってる間に、ホテルの人が教えてくれたの。わたしが昨日とても心配してたから」

「そうか、でも子供の遺体が見つかって良かったわ。あの森の中だったんでしょう、本当に偶然にしか見つからないわよね、良かった、良かった」

多恵さん達バスの乗客になる。夕暮れのいろは坂を下って行く。それは又格別の美しさだ。

「この景色、色合いと云い、アングルと云い、画家としては見過ごすことが辛いわあ」

「そうよねえ、せめてこの目とこの胸に刻んで置きましょうよ」

二人はこの麗しい景色を瞼に焼き付けながら、又ここに戻ってくることを誓った。

バスから今度は電車の乗客となり、多恵さんは六色沼へ、柏木さんは東京へと帰って行った。

 「ああ疲れた、とても景色は美しく素晴らしかったけど我が家が一番。そうね、そう思うために旅に出るのかも。ハハハ、これは皆に内緒」

そう思いつつ多恵さんは懐かしの(立った一泊二日の旅でしかなかったけど)我が家のドアを開ける。

「お帰りなさい、お母さん。お父さんもお料理作って待ってるよ」真理ちゃんの元気の好い声がお出迎えだ。そうか、お母さんなんだ、あの可愛かったママと言う言葉をもう聞くことはなかったんだ。多恵さんしみじみと押し寄せる寂しさを感じないではいられなかった。

 帰ってからと云うもの、多恵さんの旅行が終わるのを待つように雨が毎日のように降り続いている。

「あなたと行ってほんとに良かったわ、あれからまだ5月だというのに雨ばっかりじゃない。これからもぜひご一緒したいわ」と柏木さんから電話があった。

「だからあれは偶然なのよ、あてにしないで欲しいわ。でも本当に雨ばっかり、まだ梅雨入りしていないんでしょう。これじゃあ、眩しい青空が恋しくなるわよね、それはそれできっと熱いでしょうけど」

「フフフ、そこでさあ、今度晴れたら、多分6月の中頃か下旬ごろ、長野のビーナスラインに行ってみない?その頃だったら美しい花が描き放題、いえあなたには雄大なる山と湖が手招きしてるわよ」

柏木さん、2年前の美術展に多恵さんがビーナスラインで取材した絵を覚えていないのだろうか?

「わたしは絵描きであると同時に主婦でもあるの。この間スケッチ旅行をさせてもらったばかりなのに、

また出かけるなんて当分出来ないわ。それに2年前、ビーナスラインは取材に行って、八島ケ原湿原の画なんかを描いて出品してるわよ」

「え、あれかあ、あの八島ケ原湿原の画は河原崎画伯の手によるものだったのね。そうよあの絵にいたく感動した私は、その時河原崎画伯の名を胸に深く刻んだった。もしわたしがリッチマンだったら、即第2のパトロンに成っただろうけど、何せ名もない、増して何の力もない貧しい貧しい貧乏画家、ここは諦めるしかない、悪しからず。でそれを何で失念してしまったかというと、あなたの晴れ女と言う噂が姦しいので、じゃあ私もとなって、話して見たらこれが気さくで全然画伯とは縁遠い人物で、今まですっかり忘れていたのよねえ。悪しからず」

「大体がねえ、わたしは画伯というタイプではないの。近所の人は絵が趣味の気楽なおばさんとしか認識してないのよ。まあそう思われても仕方のない半主婦のわたし、今回はサッパリ諦めて、他の晴れ女とか晴れ男を探してその人達と出かけて頂戴」

電話は終わった。絵の事を素人の人に褒めてもらうのも、嬉しくてありがたい事だけど、自分と同業者に褒めてもらうのは、数倍も嬉しく、何かこそばゆい感じがするものだと多恵さんは感じた。

 その激しい雨の間を縫って、多恵さんは幽霊情報を聞き出すことと、幽霊さんのご機嫌取りも兼ねて、

久々に六色沼へと出かけて行った。

「はいお久しぶりです。ご尊顔を拝しこの杉山嬉しく存じます」相変わらず杉山君は朗らかだ。

「今日は、あなたの元気なのは良く分かったわ。で他の幽霊さんたちはどうしてるかな?」

「はいはい、幽霊情報ですね。まず初めにヒカル君ですか、あの子はまあ甘ったれですね。お母さんの傍から離れようとしないんですよ。まあ2年間ぐらい離れていたんですから、今は仕方のない事ですが、後の事を考えると、少し親との距離を離さないといけないとは思います。ま俺たちの誰かが交代で面倒を見てやります」

「そう、お願いね。あの子は本来天国に行く身なのに、幽霊修行をあなた達と一緒に遣ることになるのかな。でも仕方がないわよね、幽霊さん達に助けてもらったんだから」

「次にあの二人ですが、美術や音楽に力を入れている高校で先ずは学んでもらう事になりました。所があの二人、他の学科も学びたいと言って、その高校に住み込むことに決めたようです。これで良かったんでしょうか?」

「若いまま死んだんですもの、学問への意欲は消えていなかったのよ、喜ぶべき事だわ。それに夜の間に絵やピアノの練習が出来るから、なお良いと思う。それで誠君の音楽へ関心はどうなの?」

「誠君ねえ、まあ、ギターぐらいは弾けるようですよ、うん、でも他の楽器はクラリネットを学校でやっただけですから、他のバイオリンとかチェロとかそういったものは二の足踏んでます」

「そうよねえ、いきなりバイオリンと言われても困るわよね」

「でもあいつは本当に心の優しい子でしてね、瑠璃ちゃんの為になるならと、自分もどこかバイオリンを教えてくれる所を探して、一からやる積りでいますよ」

「まあそうなの、ありがたい事だわ。何年先になるかは分からないけど、二人で演奏できる日が待ちどうしいわ」

「ところが続きがありまして、良介も何かやりたい、チェロは僕が引き受けたとか言い出しまして・・」

「まあ、素敵、頑張ってと伝えて頂戴」

「それだけではありません。輝美さんや美咲さん迄が二人でフルートやろうと言う事になりまして、もう幽霊軍団返上して、幽霊音楽隊ですよ、ハハハ」

「ふーん、そりゃあ、軍団より音楽隊の方が断然良いわ。ところであなたは何にもやらないの?」

「え、俺がですか、が、楽器なんて触りたいと思った事ないし、増してやってみたいなんて頭の隅っこにもありません。まあ、俺に似合うのは麻雀のパイを混ぜる時の音ぐらいかなあ」

「相変わらず、ここにいる仲間と麻雀、やってるの?」

「はい勿論です、楽しいですよ麻雀。どうです、河原崎さんもやってみませんか?」

「どんなに楽しくても、あなたの姿を見ているから、全然したいと云う気持ちは沸いてこないわよ」

「俺の姿?楽しくていつも陽気でニコニコしてる、そんな姿がお気に召さないんですか?何でだろう」

「まあ兎も角みんな当分の間は遣る事が出来て良かったわ。あなたを除いて」

「お、俺はこの界隈の幽霊達の面倒を見なくちゃならないから、結構忙しいんですよ。石森だってソバ打ちに忙しいし・・」

「そうよね、ここいらのお仲間にももしかしたら、自分も何か音楽遣りたいなんて人たちがいたりするかも知れないわ、一度コンサートに連れて行ってみたら?」

「うんそうだな、ちょっと考えてみようかな、最近は元ガラの悪いのばかりでなく、お上品な質のも増えて来たし、その中には何か楽器遣りたいとか、歌には自信があるなんて奴も結構いると思う」

ざわざわと周りの空気がどよめく。きっと取り巻きの仲間の中に音楽を愛する者がいて、合図をおくっているのだろう。

空は相変わらずの曇り空だが,幽霊さん達の未来は結構明るいのかも知れない。

        次回に続く   お楽しみに

 注 文中にある仙人さん及び仙人堂などは実在する仙人さんや仙人庵とは全く関係ありませんので

   ご注意下さい    作者 福富小雪


































































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