狩り
冷たい夜に斬撃が響く。月の光の届かない闇に、微かな閃光と火花が弾ける。
それが漆黒の中で輝く唯一の光源であり、断続的に映えるそれらは、戦闘の証でもあった。
だが両者にあるのは圧倒的な実力差。戦闘というにはあまりにおこがましい。逃げ惑う獲物を追いかける獣の図はまるで狩りのようである。
獲物はすでに、逃げ切ることが出来ないのを悟っていた。だがそれでも逃げようとするのは本能によるものなのか。しかし、すでに冷静さを欠いている獲物にとってはどうでもよいことだった。ただ目の前の死から逃げ切る術の一つとして、この闇を駆け抜けているに過ぎない。
まともな思考は麻痺していた。ただ逃げ切ることしか考えられない醜態を恥じる暇すらなく、本能はさらに闇の中を駆けることを命じる。と、それはもはや動物的な直感だった。死に触れすぎて敏感になった本能は、死そのものを一瞬で感知し、手に持った剣を右方向に守るようにして掲げた瞬間、そこに強烈な一撃がのしかかった。感じたのは、剣から伝わる振動による痛みと、恐怖。そして絶望だった。
今まで何度か繰り返したであろう剣戟は、確実に獲物の体力と気力を削ぎ取っていた。いや、もう気力など、とうに消え失せていたであろう。今磨耗しているのは本能。いまや獲物が行動するにあたって、あらゆるものに代用しているそれは、獲物の生命を維持させているといっても過言ではない。もはや生命そのものといってもいい。だが同時に、それは[人]として破綻した姿でもあった。当然である。人が本来働かせ続かせないといけない機能を本能で代用し続けるという行為は、人を文字通り獲物に転落させることに他ならないからだ。
磨耗した本能も、もう取り返しのつかないところまで来ていた。すでにこの状況に諦観しかけ、目の前の理不尽に抵抗するだけの力は残されていない。故に―――今感じた激痛の原因を防ぐ余地も知る由もなかった。
「―――っ、はっ―――!」
右腕に激痛が走り、まるで着火したかのように灼熱した。あまりの痛みに左腕で痛む場所を抑えようとしたが、そこで違和感を覚える。軽すぎる。いつも持ちなれた剣の重さがない。今の激痛で落としたのかと思ったが、肩にかかる重さは、失ったのは剣だけではないということを、獲物に告げていた。
《やめろ》命ずる意識をよそに、獲物は右腕であるはずのものに触れようとする。《それに触れればもう戻れない》まだ生きている本能が告げる。だがその動きは止まらない。《それは確実に死に近づく行為だ》理性が咎める。分かっている。だが、もうすでに、左手は、生暖かくてぬるりとした部分に触れていた。
それが自分の■の断片であるなど、断じて認められなかった。されど、その痛みは、否応なしにそれが■の断片あることを告げ、近くに飛び散る血飛沫と■だったものの残骸が落ちている。その事実は、腕が切り落とされたということを知るには十分過ぎた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
知らず、絶叫していた。それが痛みによるものなのか、この状況によるものなのか、もう死から逃れられないという恐怖によるものなのかは分からない。知らぬ故に絶叫していたのかもしれない。
とにかく、その行動には、隙がありすぎた。
「がはぁっ……」
空気が漏れるような音はまさに断末魔だった。
腹部に激痛が襲い、血が湧き水のように溢れ出す。
臓器が破損した気がした。感覚は痛覚に支配されているので詳しいことは分からない。ただ、人として機能していたものが、その機能を停止したということが分かっただけだ。
たがその痛みとは裏腹に、その光景はあまりにあっけないものであった。獣はなんら苦することなく、ただ彼の腹に剣を突き刺しただけ。
獲物を殺すという行為には、猟奇的な残虐さも無く、芸術のような美しさも皆無だった。虫を殺すようなあっけなさで、感慨もなく、ただ死という結果を与えただけの、なんともつまらない終焉。
これが彼。レイン シュツルハルトの最後であった。
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夢から覚めた感覚は、生き返るというより自分が一から構成される感覚だった。
なぜ、そんな風に思ったか、レイン自身にもよく分からなかった。ただの夢には思えない。それほど真に迫った夢というのは、得てしてそのようなことを感じてしまうのかもしれない。
一から構成される感覚だった。と、そう思ったには別の理由もあった。この未だ拭えない死の感覚。身体が感じる違和感は、果たして本当に夢だったのかと。
だが、今見慣れた天井が見えるというのは、ここが紛れもない現実ということであり、それは安堵するには十分な光景だった。
「夢……」
知らず、事実を反復していた。まだどこか夢の中にある意識を、こちら側に引き戻す無意識下の行動。
ベッドの右側にある鏡を見る。それも、今感じている違和感は、現実ではないと証明するための行動だった。
なのに鏡に映った自分の姿に、
右腕がないというのは、一体どういうことなのか―――
耐え難い光景に、目を逸らした。有り得ない。直接見た右肩には間違いなく右腕が付いていて、触れば確かにそれは実在するものだった。
もう一度鏡を見る。右腕は、何の異常もなかった。何の異常もなかったというのに、むしろ、腕があること事態がおかしいような―――
「っ―――」
すこし、頭痛がした。頭痛とともに今までの考えを振り払う。
そう。あれは紛れもない夢であり、あの違和感など、はじめから存在しなかったのだと。
[右腕]を支えに、重心をずらして、ベッドから降りる。
鏡の上にある時計を見ると、時刻は十時を回っていた。少し寝過ごしたようだ。とはいえ、飛行機の時間までまだまだあるので、別段慌てる必要はない。
身支度を整えると、レインは部屋から出て行った。




