16 お兄ちゃん、わたし元気だよ
旅に出て三ヶ月が経った。
愛奈たちがいるのは北の大陸の端の端、黒竜までの道のりは遠い。
おまけに治安も悪く、少しはずれた道に出ると魔物も多い。
孤児院にいたころは魔物なんて見たことがなかったので、そのグロテスクな見た目に初めは悲鳴さえ出なかった。
ヒュッと息を吸うだけで、固まってしまう。
そんな愛奈を押しのけ、アルベルトが剣を振るうと、舞った血しぶきでようやく声の出し方を思い出す。
そんな調子で過ごせば、食欲も消えるというものだ。
「おい、飯を食わないと体力が持たないぞ聖女サマ」
「うう……まだ血の匂いがするぅ……」
ドロドロとした魔物の血の匂いがしみついて離れない。
切り捨てられた時の野太い悲鳴も耳にこびりついている。
魔物と遭遇し始めて二週間ほど。愛奈は食欲がなく睡眠不足が続いていた。
初めて見る魔物、肉を切られ舞う血、息絶える瞬間の悲鳴。
なにかもが悪夢だった。
きわめつけは、ロイドの存在である。
「主、危ないっ」
「死ィッ!?」
「おいバカ、危ないだろ!」
眼前を鋭い刃が横切る。
アルベルトが咄嗟に愛奈の首根っこを掴み引き寄せたおかげで、前髪以外は無事だ。
剣によって切られた前髪の残骸が地面に落ちる。同時に、真横まで迫っていた口から血しぶきが上がった。
バクバクと激しく脈打つ心臓に視界が白む。
愛奈の頭を真っ二つに裂こうとした目の前の男が、ニッコリと笑う。
「危ないところでしたね、主。魔物が迫っていることに気づかないなんて……」
「絶対わたし諸共切り捨てるつもりだったよね!?」
「そんな悲しいこと言わないでください。僕は主を守っているんですよ? 貴方は僕が殺さなくてはいけないのだから」
「お前な……」
こんなやりとりも、すっかり慣れたものである。
最初はひどく警戒していたアルベルトだったが、ロイドの行動がただの過激な戯れだと気づくと、ある程度は放っておくようになった。
しかし、愛奈はロイドから聞かされているので、油断はできない。
ドラゴンの主従契約を破棄するには、ロイドがドラゴンの姿で愛奈に勝利しなければいけないのだ。
ロイドは人前でドラゴン姿になるつもりはないようだった。
少なくとも、アルベルトの前ではならないだろうと愛奈は考えている。
アルベルトは強い。それは、この一ヶ月そばで魔物を切る姿を見てわかったことだ。
魔物が出る場所は寂れていて、空き家が多い。
街から街へ移動するときは、こういった魔物の多い場所を通ることは避けられない。
その間宿などは当然ないため、野宿だ。
瘴気から逃げようとして魔物に襲われ、命を落とす者も多いと聞く。
そんな恐ろしい場所を通るのだと聞いたときは柱にしがみついて嫌だと抵抗したが、ロイドに簡単に剥がれた上に担がれ、そのまま運ばれて以来無駄な抵抗は止めている。
何より、襲ってくる魔物は大体アルベルトが切るので、愛奈が戦うことはないのだ。
しかし、愛奈には心身ともに大きなストレスであった。
「おい、聖女サマ? おい」
「主?」
「――ぅ」
ふらりと体がかたむき、そのまま愛奈は力なく倒れた。
慌ててアルベルトとロイドが駆け寄る。
額に手を当てると、ひどく熱かった。熱がでたのだ。
慣れない食事、厳しい野宿、そしてなにより、魔物の存在が愛奈にとって大きかった。
日本でのほほんと暮らしていた愛奈は、こちらの世界にきても穏やかな東の大陸にいたため、魔物なんてものは存在すら知らなかった。
旅に出て初めて知り、目の前で切り捨てられ、繰り返される血の匂いと魔物の悲鳴は、愛奈の心身を蝕んだ。
「くそ、この辺りは確か魔狼が多い、群れで襲われたらひとたまりもないぞ」
「小娘一人ですが、病人となると運ぶのも面倒ですね。仕方ない」
「おい、ロイド? ――!?」
ミシミシ、ときしむような音を立ててロイドの体が膨らんでいく。
身にまとっていた服は鱗となり、指先は鋭い爪へ変わり、口は大きく裂けぞろりと生えた牙を覗かせる。
縦に裂けた瞳孔が愛奈を捉える。
苦しそうに小さく肩を上下させる愛奈へと手を伸ばすロイドの前に、アルベルトが剣を持って立ちはだかる。
「……こいつは、殺させない。この世界の希望だ、覚悟しろ、ドラゴン!」
「ふん、威勢だけはいいようですね。安心してください、病人を殺すほど外道じゃなりませんよ。近くの街まで飛びます。乗りなさい」
「え……」
「早くしないと主の体調も悪化してしまうかもしれませんね」
「――、わかった、頼む」
アルベルトはうつむき、唇をかみしめた。
剣を鞘に収めると、愛奈を抱いてそのままロイドの背に乗る。
街の近くに降り立ち、二人を下ろすとロイドも人間の姿に戻る。
愛奈を抱いたままアルベルトは医者の元へ走り、安静にして食事を取ればすぐに治る熱だと診断された。
その足で宿をとり、愛奈をベッドに寝かせる。
「俺は食べやすいものを買ってくる。……本当に病人は襲わないんだな?」
「ええ、誓いますよ」
「そうか、じゃあ行ってくる」
慌ただしく部屋を出ていったアルベルトを見送り、ロイドはベッドのそばに腰掛ける。
赤い顔をして荒い呼吸を繰り返している主人の姿に、眉をよせた。
本当に、人間は弱い。
弱いものは嫌いなのだ。すぐにいなくなってしまう。
親しくなっても、病気や怪我で死んでしまう。
ドラゴンと人間の寿命は大きく違う。病気や怪我でなくとも、年老いた友を見るのはつらかった。
ロイドは人間が嫌いだった。
昔からそうだ。
馴れ馴れしく話しかけ、一言二言交わしただけで友達だと笑い、仕方ないからと付き合っているうちに年数が経ち、ロイドばかりが看取る側になっていた。
――だから、嫌いなのだ。弱くてもろい人間のそばにいるのは。
「ん……」
「おや、起きましたか」
ゆっくりとまぶたを開けたマナの目はとろんとしており、まだ熱が高いことがわかる。
ふぅ、ふぅ、と息を吐き出し、マナの目がロイドを捉えた。
すると、今まで見たこともないような笑顔を見せた。
ぱあ、と。花が咲くように、朝日がさすように、それは、優しい笑顔だった。
ロイドは思わず動きを止めた。
まさか、自分まで熱が出てきたんだろうか。こんな幻覚を見るなんて。
「おにい、ちゃん……?」
「――、寝ぼけてるんですか?」
「おにいちゃん、帰ってきてくれたの……良かった。やっぱり……死んだなんて、うそだったんだ」
「……」
ポロポロと、マナの瞳から涙がこぼれ落ちる、
起きようとしたマナの体を弱い力で押し返すと、ポスンと呆気ないほど簡単にベッドに戻る。
触れた肩は細く、今にも壊れてしまいそうだった。
枕を濡らしながら、マナは言葉を紡いだ。
「わたしね、変な夢を、見てたの……異世界にきて、ドラゴンを、倒す夢。おにいちゃんだったらすごく、喜びそう……好きだったもん、ね、冒険……」
「……ある、……マナ」
「でもね、帰らなくちゃって、おもったの。だって……おかあさん、と、おとうさん、悲しむから……。おにいちゃん、事故で……死んじゃったから……。わたしまでいなくなったら、きっと……たくさん、たくさん、泣くと思うの……だから、帰らなくちゃ……わたしの、家に」
「……マナ、もう寝なさい。起きたらきっと、良くなっている」
「うん……あのね、おにいちゃん。わたし、友達が、できたの。コウとノエルって、言ってね……優しい、二人だよ。だから、ね、もう、大丈夫……だよ。おにいちゃん、心配、かけて……ごめんね」
そこで、マナはまぶたをおろした。
涙が一筋流れ、枕に吸い込まれていく。
マナは、弱い人間だ。こんなにも小さくて、生きていられるのが不思議なほどだ。
こんなにもろいのに、世界を滅ぼす黒竜を倒す光など、その肩に背負うにはあまりに重すぎる役目だった。
潰れてしまいそうなのを、必死で耐えている。
嫌いだ、人間なんて。こんなにも、心をかき乱す。弱くてもろくて小さいくせに、こんなドラゴンよりずっと強く輝いているのだ。
◇
「帰った。……聖女サマは?」
「ぐっすり寝ていますよ。寝不足もあったんでしょう、食べて寝ればまたぎゃあぎゃあと騒ぐようになるでしょう」
「ふ、そうだな。しかし、ドラゴンサマがずいぶんと熱心に看病しているようだ」
「……食い殺されたいんですか? それとも、爪で裂かれるほうがお好みで?」
「おいおい、物騒だな。普段あれほど聖女サマを殺したがっているのに、しっかり看てるのが意外だと思っただけだ」
「別に。たまには、従者らしいことでもしようかと気が向いただけです」
「ふぅん?」
「……なんだか腹の立つ顔ですね。やっぱり頭から食ってやりましょうか」
「こわ……」