2話 魔人顕現
わけわからん
どうやら昼休憩をしている間にうたた寝をしてしまったらしい。
まったく嫌な夢を見た。木に寄りかかっていた背中が少し痛かった。
空を見上げると、太陽はすこしだけ西側に傾いていた。
昼休憩をしたのが太陽が丁度てっぺんにあったときだから、おそらく3時間ほど眠ってしまっていたのだろう。
一時間だけのつもりが、余計に2時間も無駄にしてしまっていた。
木こりの仕事はただ木を切るというだけではない。
切った木を街まで運ばなければならないし、同じ場所にある木を一度に切りすぎるのは良くないため、ある程度伐採したら他の場所へと移動しなくてはならない。
それに加えて、火を起こすための燃料にするための木の枝なども拾い集めなくてはならないため、相応に大変な仕事である。
こうしたこともあって木こりのなり手は非常に少なく、人手が足りないため、余計に重労働になってしまっていた。
そんな中で2時間を無駄にするというのは結構な痛手だ。
この街では料理をするにも、風呂を沸かすにも、薪は欠かせない燃料だ。
外の街では薪に頼らずとも快適な暮らしを送ることができると人伝に聞いたことがあるが、少なくともこの街ではそんな都合のいい話は存在しなかった。
この街はそれなりに人口も多いので、いくら薪の備蓄があるといっても、木こりが薪を集めるのをサボってしまっては大勢が困ることだろう。
特に今は冬なので、薪の消費量は多い。
木を切り倒しては新しい苗を植えたり、森の中にいる獣の餌食にならないように注意を払ったり、時には余分に生えてしまっている木を間引いたり、木こりのやることは街の人が思っているよりも多い。
それを広大な森の中を迷わないように素早くこなさないといけないというのだから、2時間を無駄にするというのはたまったものではないのだ。
無駄にした時間を取り返すためには木を切り倒す速度を速めたり、森をいつもより速く駆けなければならない。
一度に持っていく薪の量を増やしたり、最近は日が落ちるのも早いから、夜に活発になる獣を避けるためにも、普段の倍は頑張らなくてはならなかった。自業自得だが仕方のないことだ。
街を3度ほど往復し全ての薪を運び終えると、今度は別の場所へと伐採をしにいった。そこで木を切っていると、突然に体から震えが止まらなくなり、 力が抜けてしまい、手のひらから斧を落としてしまった。
冷や汗が全身から吹き出て、体が嘘みたいに言うことを聞かない。
この感覚には覚えがあった。これは一年前に唯一の親友の命を奪いながら、致命の手前で逃げ延びた凶悪な魔人を見たときと全く同一のものだった。
近くにあいつがいる。親友が追い詰めながらもトドメを指すことのできなかった強大な魔人が。
胸からこみ上げてくるような嘔吐感と、腹の底が冷えるような悍ましさ。
肌を焼いてくるかのような存在感も。
全てあの魔人のもので間違いなかった。
呼吸がどんどん荒くなっていく。
見つかれば間違いなく殺されるだろう。
まだ死んでいないということは、気づかれていないということだ。
俺はうずくまって驚異が過ぎ去るのを待った。
まるで生きた心地がしなかったが、だんだんとプレッシャーが弱まっていくのがわかった。
魔人が走っているのなら、これだけ離れるのが遅いはずがない。
奴はゆっくりと街の方に向けて歩いているらしかった。
今から走ってまわり道をすれば、街の人々にこの危機を知らせることができるだろう。
けれど、そんなことは命がいくつあっても足りないだろう。
魔人はとても耳がいいかもしれない、嗅覚が優れているかもしれない。
そう考えるだけでその選択肢は取るということはなかった。
自分の命が何よりも惜しかった。
自分はもとより街の人々の名前を覚えてもいない。街の人だってそうだろう。
同じ街に住んでいるだけの他人だ。彼らが死んだところで悲しいということもないだろう。
そもそも、あいつのように英雄ではないのだ。
誰かのために命をかける気概があるわけでも、またその力があるわけでもない。ただの木こりだ。
一年前だって、魔神が身近に現れなければ唯一の親友を背後にして逃げ去っていたことだろう。
そもそも木こりだって生きていくために仕方なくやっていたんだ。
木こりをしていると獣に会うことは日常だ。獣に遭遇するたびに死んだかと思った。
落ち葉を布団にしてやり過ごしたことも、木の上で一週間も葉っぱを食べながら過ごしたこと、獣に追われたときに別の獣に押し付けたこともある。
殆どの木こりは森の獣なんてものは斧を片手に斬り殺してしまう。
けれども、自分は一度たりとも獣を殺したことはない。否、殺せなかったのだ。
獣と戦わなくてはならないと意識するだけで、体は自然と逃亡を選んでいる。
少しでも死ぬという想像をすると勝手に体が逃げるために動き出す。
街に住んでる子供でももっと勇敢なはずだろう。
自分は街一番の臆病者だ。
だから、逃げ出してしまおう。きっとあの時のようにまた誰かが彼らを助けてくれることだろう。
そう願いながら、俺は魔人の向かう街と反対の方向へと全速力で逃げ出した。
実験小説