3(完)
2週間経った。やっとあのラウルムのことを思い出さなくなった。少なくとも、1週間前のような、もしかしたら、まだこの街にいて、声をかけられるのではないか、というような感覚はなくなった。
「そうよ。書けばいいんだ。書いてスッキリしてしまえばいいのよ」
彼のことは、いいネタをもらったくらいに思えばいい。そして、ラウルムを主人公にした小説を書くのだ。
どう言う設定にしようかな。夜をまとったような髪に炎のような赤い瞳、彼に出会った時は、風が吹いていた。そして、一度だけ見せてくれた手を思い出す。あの爪はまるで獲物を捕らえる鉤爪のようだった。
「ハーピーとガーゴイルの息子の話?」
「今回は冒険譚にしたいんです」
出版社に原稿を持ち込んで、話す。モデルはもちろんラウルムだ。彼に聞いた外国を巡った時の話をベースに、いろいろと脚色したものだ。
「少し書いてみて、当たったら続ける感じでもよければ」
「ありがとうございます」
夜をまとった赤い瞳の青年の冒険譚は結果から言うと売れた。冒険者である彼は、ハーピーとガーゴイルから受け継いだ風と炎の力であちこちで起こる問題を解決していく。そんなにネタはなかったが、もう三ヶ月も連載していて、書けるところまで書いてしまって、あとはラストを考えるだけだ。
「書けない……」
どうにも筆が進まない。今まではラウルムのことを思い出し、最初の出だしさえ書いてしまえば楽勝だった。もしこんな出来事があったら、彼はどんなふうな表情をするだろう。どんなことを言うだろう。想像するのは楽しかった。でも——
本当は小説のラストは決まっていた。主人公が、真実の愛に目覚めるのだ。そう決めていたのに。書いてしまえばこの小説は終わってしまう。もうラウルムのことを思い出す必要もない。
本物の彼は、今頃どうしているだろうか。故郷に帰って恋人と一緒にいるのだろうか。どんどんへこんできた。自分は何をしているのだろう。まるで、これではラウルムに恋をしていたみたいではないか。
「もういいか」
書けないと言うことは、きっとそう言うことなのだ。私の目からこのとき初めて涙が溢れた。そうか。好きってこう言うことだったんだなって、想像じゃなくてこんなに辛いんだってわかった。
ひとしきり泣いて、でも買い物に行かなければ食料がない。ノロノロと体を起こし、支度をする。
街に出ると夕方の風は少し冷たかった。彼とあったのが初夏だったから、もう秋だ。そんな些細なことでもいまの私の涙腺にはグッとくる。
「お嬢さんどうかした? 俺でよければ相談に乗るよ?」
普段絡まれない、タチの悪いのもやってくるしもう最悪だ。
「ごめんなさい。急いでおりますので」
なんとか通り抜けようとするけれども、男は道を塞いでくる。
「そんなつれないこと言わずにさあ。泣いてたんでしょ? 慰めてあげるよ?」
舐めるような視線に吐き気がする。男の息遣いは荒い。霞む視界でギャアギャアとカラスが鳴いた。
詰め寄る男から逃れようと後ずさる。その時だった。
「ごめんなさい。さっきは。謝るから許してもらえませんか?」
いつの間にか辺りはカラスだらけだった。その異様な光景の中に、溶け込むような容姿の青年が立っている。
「ラウルム」
唇は勝手に言葉を紡ぐ。
「許してもらえませんか? あなたに嫌われると悲しい」
彼は男と私の間に入り、私を男の目から隠すように抱きしめる。彼は助けてくれるつもりなのだ。ならば、この芝居に乗らなくては。
「嫌ってなどいないわ」
本音を混ぜて彼の腕に手を添える。
チッと言う舌打ちが聞こえる。
「ここで盛るなよ」
行きましょう、と、ラウルムは私の手を引いて歩き出す。小さく頷き返し、手を引かれるまま歩いた。
男の姿が完全に見えなくなると、全身から力が抜ける。
「大丈夫ですか?」
ラウルムは、覚束ない足取りになった私の背に手を添えて支えてくれる。
「ありがとう。大丈夫よ。ラウルムはなぜここへ? 国に帰ったんじゃなかったの?」
ずっと音沙汰がなかったからもういないと思っていたのに違ったのだろうか。ラウルムは言うべきか言わざるべきか迷っているようだった。口を開き、また、閉じる。
「言いたくないのなら——」
「あなたに会いたかったから」
「え?」
「国には帰りましたよ。僕たちにとって国に帰るのは一瞬です。転移魔法を使えばいい」
え? ともう一度今度は別の意味で驚愕してしまう。この国で一番の魔術師様でも、転移魔法はせいぜい隣の国までしか飛べないだろうと言うのが、私の今までの常識だったからだ。
「帰って仕事を片付けて、また来ました」
そして、真剣な顔をしていった。
「先ほど、こちらに来た時に、あなたが泣いていると聞いたから心配していたんです」
「は?」
え? とか、は? とか先ほどから全く言葉にならない。泣いていたのを見られた?
「誰にきいたの?」
「この街のカラスです」
それよりも、と彼は言葉を続ける。
「どうしてあの新作、冒険譚を書いたんですか?」
「それは……」
ラウルムを忘れたくなかったから。心の中で勝手に言葉が出てくる。
「言えませんか?」
彼の顔を見ることができない。
「これは、個人的な感想ですが、あれは、あのモデルは僕なのではないですか?」
言葉に詰まったままの私に彼は言う。
「いいんです。勝手に話すので聞いてください。僕は、とても嬉しかった。自分のことを一人のただの男として覚えていてくれる人がいることが。だってその男は、リアナを忘れられなかったから」
思わず顔を上げてしまう。
「ラウルム……」
「少し、昔語りを聞いてくれませんか?」
静かに頷くと、ありがとう、と彼は言った。
——昔々風の乙女と炎の悪魔が恋に落ちました。風の乙女は子を身ごもりましたが、種族が違ったため、二人は引き離されました。炎の悪魔は戦争に行き、帰りませんでした。風の乙女は子供を産みました。
その子供は不思議でした。なぜ母親が寂しそうなのに再婚しないのか。そうして自分を責めました。その子供もまた、自分と同じ存在がいなくて寂しかったのです。子供は大きくなると、自分と同じ存在を求めて世界中を旅するようになりました。
そして、ある時一冊の本を手にします。それは異類婚姻譚と呼ばれる本でした。作者の名はリア。かつて子供だった大人はその人を探しにいくことにしたのです。
「リアナ。はじめ、あなたにあった時、僕は少し探したことを後悔していたのです。」
「私が、あなたのような存在ではなかったから?」
先ほどの話を聞いて悲しい気持ちになっていた私はそっと問いかける。
はい。頷いて、けれど、と彼は続ける。あなたは、紛れもなく僕の救いでした、と。
「いつも居心地悪そうな顔をしていたあなたが、僕の話を嬉しそうに聞いてくれて、日に日に明るく、綺麗になっていくのを見て、満たされたんです」
「良い友達のまま別れよう、そしてまた会いに来よう。そう、思ったんですよ? 本当です」
でもあなたがあんなものを書くから。
「ハーピーとガーゴイルのラストは衝撃でした。まさか二人が別れて死んでしまうなんて。終わってしまっても、あんなに幸せな恋があるなんて。そして、彼らに息子がいたことも」
「私、知らないわ。何も知らなかったのよ? あなたの過去とか」
「いいんです。僕が勝手に救われただけなので。それよりも言ったでしょう。嬉しかったのは、あなたが僕を忘れていなかったことですよ」
彼の瞳は喜色に輝き、しかし逃さないとばかりに触れ合っている手に力が入る。
こんな時、どうしたらいいのだろう。今まで人と触れあうことが少なすぎて、どう対処したらいいかわからなかった。ただ、困ったように彼を見上げる。
「すみません、不愉快でしたか?」
しばらくして、彼がそっと身体を離した。温もりが離れて、またどこかへ行ってしまうのかと、思わず離れた腕を掴んでしまう。
彼は微笑んでいた。
「僕が何処かへ行ってしまうのは、寂しいですか?」
「寂しいわ」
まるで誘導尋問だ。でも、ここで答えなかったら、本当に何処かに行ってしまうのだろう。わかっているから、必死に言葉を紡ぐ。
「あなたがいないのは、寂しいし、もう私のことは忘れられたと思っていたわ。だからあれを書いたのに」
すこしでも長く、想像もいいから側に居たかった。そのために書いたのだ。
別の意味で涙が溢れそうだ。
「今更戻ってきて、私、あなたを忘れられなくなっちゃうじゃない」
もうすでに忘れられなかったけれども。
ラウルムの手袋をしたままの長い指が頬をたどる。
「忘れられては困ります。少なくとも、私はリアナを忘れたりはしません。あなたを——愛しています」
胸がいっぱいに満たされる。涙が後から後から溢れて止まらない。恋って、愛ってこんなに苦しいんだ。
なにか、なにか答えなければ。
「ラウルム、好き……」
好きなんだ。今なら冒険譚のラストも書けそうだ。ぎゅっと強く抱きしめられる。我慢できないというようにキスを落とす唇も、涙を拭ってくれる指も愛しくてたまらない。
しばらくして身体を離す。恥ずかしくて目は合わせられない。これからのことをポツリポツリと話しながら、借りている部屋に向かって歩く。ラウルムは、またすぐに国に帰らなくてはいけないらしい。
手紙を書きましょう。特別なカラスを送りますので、リアナも書いて預けてください。と彼は言った。
いつもの彼が送ってくれるところまで来てしまった、ここでしばらくお別れなんだと思うと、やっぱり寂しい。でもこれだけ言っておかなければ。
「ラウルム、あのね、お願いがあるの——いつかあなたの国を見てみたい」
真面目に働いて、長い休みが取れたら、ラウルムの国を見に行ってみたかった。
「ネタじゃなくて、あなたの国を知りたいの」
彼は驚いたようだったけれども、わかりました。約束ですよ。と今までで一番綺麗に笑って見せた。
あの後、あれほど書けなかった冒険譚のラストはあっけなく書きあがった。
ハーピーとガーゴイルの息子は、旅先で一冊の本に出会う。自分のことを書いたとしか思えない内容に、作者を探しに旅立つのだ。
それから先は一切を書かず、めでたし、めでたし。と締めくくった。
どうみても打ち切りだと出版社とは揉めたけれども、これ以上に最良の終わり方は自分の中になかった。
彼が——モデルとなったラウルムが幸せであればいい。それが望みだったからこそ書けなかったのだ。
一羽のカラスが窓を叩いている。
冒険譚の最後を読んだ彼は不思議に思ったらしく、前回の手紙では、なぜめでたし、めでたしなのかと聞いてきた。だからこう返したのだ。
だって幸せになりたいでしょう? と。
今回の手紙は……
「ラウルムのバカ」
——幸せになりましょう。
そう綴られた手紙を放り投げ、慌ててまた拾い抱きしめる。
これじゃあまるでプロポーズだ。
一本取られた。次に会う時までにネタを仕込んでおかないと。出版社の人もうるさいことだし。冒険譚の続きはないんですか?と いう問い合わせが続いているらしい。
だったら、書くしかないでしょう。ハーピーとガーゴイルの息子に出会って救われる少女の話を。これは少女の視点で進む少女のための話。だから、彼の視点も心情も入らない。ギリギリのセーフ。
私は、熱烈なラブレターで仕返しをするのだ。もちろん結びはめでたし、めでたしで。
本筋は婚姻ではなかったのですが、異類婚姻譚は登録必須ワードだったので、念のため。