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癒やされたいキャンパー。異世界を癒やしに行く。  作者: カトー
第20章 激動の世界
196/201

196 自転車万歳

 ※ ※ ※ ※ ※


 誰が北部連邦軍の敗北を予見できただろうか? 帝都まで迫った北部連邦軍とすれば、南部同盟軍に勝利するのは確実だったはずだ。だが、その結果は南部同盟の勝利に終わってしまった。帝国歴399年4の月9日、帝都攻防戦に於いて北部連邦軍のエルヴェ将軍が南部同盟軍総司令官アナトル・マクシム・ヴィドンヌ将軍に降伏した為である。


 内乱開始時、北部連邦軍は魔獣大戦で疲弊し戦力を抽出した南部同盟とは違い、優秀な兵士や指揮官達がまだまだ揃っており強固な軍事的伝統が維持されていた。懸念された軍の装備も、スクロヴェーニの軍需廠を手にした事で拡充された。


 快進撃を続ける北部連邦軍は、攻勢を大きく2方面に分けて展開した。バハラス方面侵攻戦とエルヴェ将軍による帝都侵攻戦である。ある南部同盟軍将校の証言によれば、2方面とも北部連邦軍が補給路を維持できれば、その優越性は明らかであったと述べている。そして、彼が指摘したようにそここそが問題だった。


 南部同盟軍には、悪夢のような日々が続いていた。何とかバハラス防衛ラインを構築したものの、防御力は十分と言えず、兵の士気も低かった。ありていにいえば、上手くいかなかったのだ。加えて、相次ぐ敗戦で疲弊し弱体した部隊を、増強するのになんの手立ても持っていなかった。


 後に、防衛戦の最終局面と言われた時、機甲中隊の進撃が敢行されていれば、結果は大きく違っていただろう。この時、北部連邦軍の機甲中隊が、進撃していたならば、遅くとも翌朝には、南部同盟軍の部隊は押し寄せる北部連邦軍の攻撃で崩壊し、壊滅状態になっていたかもしれなかった。


「私も兵達も、塹壕の中で北部連邦軍の攻撃が突然止んだ事にとまいどいながらも、生き延びた事に神に感謝した」


 攻撃の主軸としていた機甲中隊は、激しい前日の戦闘をおえると補給がかなわず進撃を停止したのであった。そして、翌日。南部同盟軍の反撃をうけ、防戦に手いっぱいになった。補給線が限界を超えた為に破綻し、武器弾薬はもとより燃料・食糧も底をついていたのだ。おそらく後2日、イヤ1日あれば北部連邦軍は勝利できたかも知れない。


 北部連邦軍は、バハラス方面侵攻にあたって、かなりの補給品を後方に集積した。しかしながら、悪天候と交通渋滞による交通路のマヒ、燃料不足などの理由により、最前線に物資が届けられなかった。それが第一の原因であり、それが全てであったと言ってよいだろう。


 敗因は色々な事が重なって起きたと言えるが、燃料や物資の不足で重火器の戦線投入が遅れ、弾薬が不足した為にバハラス方面の攻勢が維持できず、結果的に同平原で足止めされた為とされる。北部連邦軍は戦闘継続が出来なかったのである。


  確かに天候不順で豪雨となり、補給が断念されたのも一因とされるが、南部同盟軍のゲリラ的な反撃で補給路が寸断、一部とはいえ占拠された事も忘れてはならないだろう。しかしながら近代戦の特徴は、物資と命の尋常とは言えないほどの大量の投入である。近代戦は、ありとあらゆる物を吞み込んでしまう。北部連邦軍に対処できるような物量とはかけ離れていた。


 特に補給用蒸気動トラック等の車両が不足しており、代わりに輸送主力となった輜重馬車隊は飼い葉さえ不足していた。その為、南部同盟軍の物資を奪って使用する事や、戦闘中にもかかわらず燃料の節約を各部隊に指示していた。


 つまり、物資不足である。特に機甲中隊は燃料の絶対量が不足しており、十分な機動が続けられなかった。現地調達を命じられた将校の中には、他の部隊の補給品を取り上げたほどである。この事は、同時に前線への補給も満足に行えなかった事の証左とも言える。


 一方、エルヴェ将軍の帝都侵攻を目指す戦闘部隊は、一時的とは言え、北部連邦軍は帝都第三城壁に向けて砲火を浴びせており、帝都陥落かと思われるほどであった。だが、突破する為の戦闘部隊が続かなかった。


 いかに勇猛果敢なエルヴェ将軍旗下の戦闘部隊といえども、帝都防衛に注力した南部同盟軍の動員兵数が勝った。彼らは城壁を突破されそうになると、増援部隊を無尽蔵と言えるほど次々に送り込んだのだ。南部同盟軍は人的被害を無視した防衛戦を行ったのだ。対して、北部連邦軍には予備兵力が乏しく、スクロヴェーニのような初動の奇襲効果もなかった。


 加えて急速な攻撃軸の変更や強力な打撃を与えるには、燃料弾薬などの軍需物資が不足していた。もちろん、軍は作戦に備えて、かなり努力して燃料等の補給物資をかき集めていたが、前述したように事前に集積した量では攻勢を維持するには不十分であった。第三城壁防衛戦に徹した南部同盟軍に敗退する事となった。


 戦闘には、もしと言う言葉は使えないが、北部連邦軍に十分な予備兵力があれば、第三城壁の多方面にわたり圧力を加えて戦線を拡大し、大損害を与えて城壁を突破していただろう。しかし、攻勢限界はとっくに超えており、伸びきった補給路では叶わない望みであった。


 いずれにしても、後一歩と言う処で勝利の女神は微笑まなかった。北部連邦軍は数々の戦闘で勝利を得たのだが、補給戦に負けたのだ。2方面とも南部同盟軍の防衛ラインを突破し、勝利する余力が北部連邦軍には無かったのだ。


 もちろん、敗北を認めずあくまでも徹底抗戦を唱える者はいる。補給路で使われたゲリラ戦の考えは、同じ帝国軍であった北部連邦軍にも持ち込まれていた。そのゲリラの掃討には10倍の兵力が必要とされるという。軍事の鉄則から考えると、ゲリラ化した抗戦主義者の排除は困難を極めると思われた。


 帝国歴399年6の月には、南部同盟の攻勢によって戦線が崩壊する。南部同盟の支配地域の拡大に伴って北部同盟の支配地は後退を続けた。それからは早かった。勝利した南部同盟軍により、北部連邦軍の戦闘継続能力は排除され、北部連邦は解体され消滅する事になる。


 南部同盟は帝国の名を取り戻し、北部連邦であった首都ラツィオを始め9特別行政都市は雪崩を起こしたかのように帝国に復帰した。帝国歴399年10の月には南部同盟によってスクロヴェーニを始め各特別城塞都市は戦わずして奪い返され、北部連邦は解体を待つのみとなった。


 南部同盟の願いは叶い、帝国の統一を再び果たしたかのようであったが、事はそんなに簡単ではなかった。内乱の後期になると、両軍とも後方の兵の多くは徴兵され、嘗ての帝国軍のような士気も練度も無い。


 政府や秩序を守るという意識も希薄であり、むしろ食事が支給される為に飢えから逃れれると喜んだ者が多かった。彼らは動員解除となり職も食事も失う事となる。既に魔獣大戦後には、食う為には何でもしなければならない飢えの時代となっていた。


 帝国はよく巨大なクマに例えられたが、巨大なクマは疲弊し、もはや満身創痍で死を待つのみであった。巨大な歯車は止まり、逆向きに回転し始めた。秩序は失われて荒廃し、兵の中には有力商人の私兵と化す者すら存在した。抗戦主義者がその中に混ざり破壊が続く。一度、タガが外れた者達は容易に元には戻らなかった。


 ケドニアは再び帝国の名の下によみがえるはずだった。だが、その願いとは裏腹に内乱前の帝国とは似ても似つかぬものに変わっていく。残された物は、ケドニア神聖帝国とは名ばかりの混乱した国であった。再統一されたと言う帝国は、荒廃した国土と飢えた民を抱えたまま、あたかも隕石テロ後の戦国時代に戻ったかのようであった。


 ※ ※ ※ ※ ※


イリア王国・王立ロンダ大学・ケドニア神聖帝国史研究室

歴史学講座 「帝国の経済的衰退」


「これまではおもに軍事的な面において解説を行ってきた。今回は経済的背景を中心として述べていく」


 帝国はアレキ大陸唯一の経済先進国だったのだ。その繁栄ぶりは凄まじく、首都ヴェーダは130万人を擁する都市であった。産業革命と共に進歩する工業技術や農業技術の発展によって、農作物の長期保存が可能となり、食糧生産量が劇的に増大していた。南ケドニアで溢れるように摂れる食糧はアレキ大陸中に出されていた。


 帝国は建国以来の繁栄を迎え、蒸気動車や幻影写真などの先端技術や大衆を意識した産業も広まりつつあった。人々の生活は豊かになり、産業革命による大量生産、大量消費の時代を迎えようとしていた。帝都ヴェーダの象徴とも言えるメルシェの塔もこの時に建設され、帝国はまさに黄金期を迎えていた。


 ケドニア帝国民は、地域差は在ったものの産業革命の初期段階を抜け出ようとしていた為に、必然的に無学ではなかった。識字率は上昇中であり、人々の教育水準は、かなりのレベルと言えた。特に魔獣大戦を通じての軍事科学や技術の発達や、一部の技能訓練に関してはムンドゥス最高水準であったと言える。


 さて、景気は周期的に上下するものである。ここからは魔獣大戦後の経済状態を述べねばならない。帝国の経済再生計画政策は主に公共事業と言われるもので、経済政策に大きな影響を与えるようアレンジされていた。これらの政策によって、失業は減り、経済は再び成長し、経済状況は改善すると思われていた。


 当初の混乱や魔獣殲滅の高揚感が過ぎると、深刻な不景気に陥っていく。端的に言えば不況は極めて深刻であった。帝国内の総生産量は恐慌が起きる前よりも半分以下となっていた。帝国経済のパフォーマンス悪化は、全ての内的問題を引き起こす事になった。


 長期的観点に立つと、帝国経済の成長悪化の要因は、労働力の増勢が無かった。これは大戦によって600万余の人命が失われた事が大きいが、これにより労働力不足が顕在化した事に有る。労働生産性の投資が、拡大テンポを維持できなくなり投資の分散、建設が遅れてコストが急上昇した。インフラ整備の遅れにより生産や流通面がボトルネックとして顕在化したのも大きかった。


 また、多額の帝国戦時債権発行問題も経済に大変な負担となった。順にひも解くと、帝国では産業革命の初期段階であり、資本金規模の少ない小さな都市や町の地域商業ギルドが大部分であったが、特別行政都市の大商業ギルドが倒産するという事は無かった。その、珍しい事が起きたのは帝国債の為である。


 最初、造幣省は数回にわたり金利を下げた為、一時的に経済活動の回復の兆しが見え、復興計画も進むかに見えた。ところがそこに壊滅的な食糧危機が訪れた。さらに帝国歴395年、北部連邦に対抗する為に資金が必要となり、造幣省は金利を引き上げ市中より財貨を吸い上げる事になる。


 農業部門は、重工業と並んで重視されており優遇されていた。事実、帝国債権の約2割が農業に誘導されていたが、帝国債の暴落により、計画された機械化や化学肥料の多投化などが行われる事は無かった。そして4年間の内乱が、帝国経済に止めを刺したと言える。


 穀物生産高は全人口の飢えを癒す事は出来なかった。全耕地の約3分の2が依然として回復出来ずにいた。その上、気象要因により北部は耕作地の拡大が難しかった。一旦、わずかな不作で有っても更なる不安定を生む事になる。大戦前の帝国統計によっても、その生産量は、南部の3割に止まっていた。内乱の原因はそこの有るという者も多い。


 また、エネルギーの根幹として石炭生産も種々の問題がある。石炭の主生産地は北部である。帝国は経済を維持する為に、エネルギーを賄う為にも石炭を産出しなければならない。もともと石炭生産地が遠隔である事と、大戦中の乱獲された資源の枯渇化によって生産が鈍化していた。


 だが、開発するにも人員不足と資本不足となった事により、生産地では増産が見込めず、生産自体が不安定となり帝国のエネルギー情勢は厳しくなっていく。


 確かに理由は様々な意見が有る。経済的側面から言えば、物資不足により価格が上昇し大戦前の回復をすることなく帝国債による金融暴落に見舞われた為とされる。繁栄の時代は魔獣大戦と共に脆くも過ぎ去り、大恐慌の時代に突入していったのだ。


 経済減速が起きると、貧困と経済的不平等の割合が急激に上昇し、誰もがジニ係数が異常だと言えるほどに高くなっていた。絶対的な食糧不足により都市部の住民は、帝都防戦時より採られていた配給制度では足らず、あらゆる物をパンとの物々交換によって不足する食料を補った。


 農地再生の不振が、帝国経済の成長阻害要因となったとも言える。不幸な事に帝国西部で起こった連続する穀物不作は、イリア王国やフラン王国からの穀物輸入にもかかわらず食糧危機を深刻化させ、帝国民の生活にも多大の影響を与える。


 基本的な食材が市場から消え、配給品さえも流通過程では中間搾取と横流しが横行し、都市住民の元に届いたときには低質な食材しか残されていなかった。それさえも、まだ有るだけましという世界になろうとは……。都市生活者にとって、行列と購入できる品の少なさはお馴染みとなった。


 飢えた人々は収入の全てを食糧に替えていたが、十分だとはとても言えなかった。当然、家畜が消費する為のエサも生産できず不足する事となる。肉の生産は出来ず、小川の小魚も貴重な食料となり姿を消した。肥料の生産は滞り、麦の収穫量の減少は生産者である農民さえも足らず、農民は辛うじて栽培したジャガイモによって飢えをしのいだ。


 帝国の穀物不足を補うためにイリア王国、フラン王国などから穀物が輸入される。だが、エバント王国でも、食糧危機は同様に起こっており、一部では理不尽な徴発が行われたようだ。属国支配がされていたエバントの食料不足は日を追って悪化し、前述したようにエバント王室の解体へと繋がって行く事となる。


 帝国経済は相次ぐ危機で混迷の度を深めた。農業国から工業国への急速な脱皮の過程で南ケドニアを失った事は、特に痛手となった。魔獣大戦後半では、成長率が目立って鈍化するようになり、ほとんどの分野でその主要経済指標の成長目標が実績を下回る。まさにマイナス成長が当たり前とされたのであった。


 魔獣の侵攻前と比べると、国民所得は5割減、工業生産も6割、農業生産、建設、輸送の7割以上が失われた。帝国は農業不振に伴う食品産業の伸び悩みと、エネルギー産業、鉄鋼業、化学工業などの基幹工業部門の不振によって半減した。その後は前年の平均20%を下回わり、輸送部門や、建設部門などは計画どころか話題にもならなかった。


 嘗ての帝国ならば、わずかな不作なら他の地区からの融通で何事も起こらなかっただろう。だが、内乱は流通阻害を生み、混乱はその何十倍もの影響を与えて多くの餓死者を生んだ。燃料も乏しく、生活必需品は不足し、交通機関も満足に走れなかったのだ。


 耕作人口の減少による農村の荒廃と、農村からの離脱、即ち棄農により実施された穀物の徴発は帝国歴397年から398年にかけて帝国西部を襲った飢饉を増幅し、さらに耕地の荒廃が生産に打撃を与え農村を破壊した。内乱時の混乱は、経済的混乱を作り出したのみならず、出生率においても悪化させている。栄養不良による死亡要因は、殺人や自殺と同意となり平均余命の下落を招いていた。


 この事は旧北部連邦で特に顕著とされる。北部人口は約1200万人と言われたが、810万人まで減少したと言われ、この390万人の減少に耐えれるような社会インフラは存在しない。これらをもってして、変化と移行に失敗した帝国は崩壊に向かって転落して行く事となる。帝国の経済回復は至難の業だった。


 ※ ※ ※ ※ ※


イリア王国・王立ロンダ大学・ケドニア神聖帝国史研究室

歴史学講座 「イリア王国の世紀」


 魔獣大戦前は、ケドニア帝国がアレキ大陸の情勢を決定づける存在であった。偉大な産業と工業力で、行く行くは大陸の覇者となるだろう。帝国は、国内外における使命に自信を持っていた。帝国の指導者らが唱えたように、帝国歴300年台は最後の10年を除けば、まさに帝国の世紀であった。


 帝国歴395年前から、イリア王国から人道援助として一層の食糧と物資の支援をしていた。嘗ての帝国の常識で考えれば起きないようなことでも十分に起きる。ケドニア神聖帝国の内乱は混沌を生み、秩序は乱れたままで上述したように戦国時代に戻ったかのようであった。


 旧帝国の復興が叶うとしても、それには相応の時間がかかることは間違いない。だが、イリア王国を混乱させる事はできない。イリア王国は、ケドニア帝国とエバント王国北部から秩序ある撤退を開始した。もちろん、悲劇は拡大するかもしれないので、帝国に対する支援と関与は続けられた。実際には、第2次魔獣大戦後からの数年間で、イリア王国がアレキ大陸情勢を決定づける確たる存在となっていたのだが……。


 イリア王国では、産業革命と共に工業技術や農業技術の発展によって農作物の長期保存が可能となり、食糧生産量が劇的に増大した。建国以来の繁栄を迎えていて、蒸気動車や幻影写真などの先端技術も広まりつつあった。人々の生活は豊かになり始め、産業革命による大量生産、大量消費の時代を迎えていた。


 魔獣大戦後からの半世紀、イリア王国人は、この自信に満ちた姿勢を疑わなかった。王家の権限拡大を支持し、初歩的な福祉国家の概要を容認した。そして、新たなレベルの富を生み出した繁栄を享受した。そして、イリア王国は、繁栄の恩恵をできる限り広く普及させることを望んだ。


 王国は、偉大な産業と工業力で大陸の覇者となり、王国の指導者らが唱えたように、イリア王国の繁栄は100年も続く時代となって行くだろうと語った。実際、イリア王国はアレキ大陸の情勢を決定づける存在になった。移り行く時代を称して王都タイム誌では、いみじくもイリア王国の世紀と呼んだ。


 ※ ※ ※ ※ ※


 王都ロンダから北の辺境都市ビルバオに至る、北国道と呼ばれる街道が有る。季節が冬になり寒さが増すと、度々、峠道が閉鎖される。そんな街道を、西に百キロ程進むと113野営場改め、イイサの町が見える。別名、尖塔のドラゴンシティーと呼ばれるこの町はケドニア遠征軍に追従した酒保商人達が住み着いた事から始まる。


 嘗て、転送ステーション113と呼ばれ、今では整備が進み辺りは立派な町並みとなっていた。この地は、やがて領地の町の建設のプロトタイプとなるはずで、あちらこちらに斬新なアイデアが盛り込まれていた。カトーは、辺境伯とも稀代の魔法使いとも言われた転移者である。やる事は、王国の基準からはかなり離れて考えられていたが……。


「ちょっと、散髪して来るわ」

「オ、男前になって娼館でも行くのかな?」

「何言ってるんだ。午後から、商業ギルドのお偉いさんと食事すんだよ」

「フーン。マァ、何でもあるしな。料理なんて遠く異国の物が食べれるからなぁ」

「昔の事を思うと、ここは本当にイリアか? と思うよなー」

「俺もお前も、遠征軍と一緒につき合って、ここまで来ちゃったもんなあー」

「アァ、そうだな。で、これかい? ご自慢の何とかと言うのは?」

「そうとも、俺様の足だよ。鍛冶屋の夫婦が作り出した自転車と言う乗り物だよ」

「これ、流行りだそうじゃないか。高かったろう」

「まぁな。だが、便利なんだ。少しぐらいなら荷も積めるしな」

「フーン。俺も買おうかな?」

「アァ、良いんじゃないか」


 ※ ※ ※ ※ ※


 自転車は、極めて破壊的な技術となった。イリア王国史上初めて、庶民の足が誕生したのだ。自転車は個人の移動手段として歩くより早く、好きな時に望む場所に無料で移動できた。乗り方を覚える事は乗馬や馬車の操作より簡単で、一度覚えればそれこそ体が覚えていた。その上、多少なりとも荷が積めるし、維持も簡単であった。


 そしてなにより、安かった。最初は高価で有ったが、少なくともイリア王国の庶民が手に届く価格で販売された。これもすぐにケドニアから移入された工業技術で大量生産されるようになり安くなっていった。イリア王国の高速街道整備計画の進展と相まって拡大したのも一因であるだろう。


 嘗て述べたように、魔獣製の表皮から脱却すべく南部ではコメ作りを拡大する際に、近衛魔法師団によりゴム園が作られているのも幸いした。抽出された樹脂を加工する事によりゴムパッキンばかりでなくタイヤ生産設備が作られつつあった。この空気タイヤにより、自転車は速度を3割向上させ、耐衝撃性を増して乗り心地が向上した。


 前述した道路整備により自転車を持ち達は気軽に旅に出れるようになった。高速街道は都市のみならず地方の田舎道さえも改善した。これが後の自動車産業の礎になろうとは誰も分からなかった。一日に100キロ以上の移動も簡単に行えたので、イリア王国内の何百キロの周遊サイクリングが開かれるようになった。


 そして、この事に軍が目を付けた。王都ロンダからタラゴナ間の500キロの行軍を近衛師団第1大隊500名が行い、自転車移動の有用性を立証した。尚、その500名は38式小銃を持ち完全装備の上、1日100キロを走破した。後に銀輪部隊と言われるこの大隊は、早駆けの魔法を使う近衛魔法と同等の移動時間と距離を誇った。


 蒸気動車や蒸気動トラックは、まだまだ珍しく高価で整備する技術も必要だった。それに比べたら自転車は格安であった。そして、自動車産業ほどとまでいかないが、王国に於いて自転車を作り出す為の工業製品は様々な製品を作り出し各産業に活況をもたらした。


 ボールベアリング、精密工具の製造、ボルド及びボルトゲージ、ナット及び小ねじ等規格化された工業製品の恩恵は計り知れない。


 単純に考えても、自転車のフレームは鋼材と溶接。駆動装置はチェーンと各種ギア。タイヤとブレーキからはゴム加工製造。スポーク、ブレーキワイヤー、警報装置としてのベルやブザー。照明装置として前照灯は小型発電機とガラス加工、錠等や従来から有った技術の転用で乗馬用のサドル、バスケット、バックが造られた。


 それはさておき、ブームは上から下へと流れる。そして、王宮の服装でブームを作り出しているカタリナ皇太后がいた。セシリオ陛下はもとより、フェリペ前国王陛下が試乗してサイクリングを始めたのがきっかけで有った。これはカトー卿のアイデアで有ったようだが、イリア王家の人々がプロモーション活動をした事が幸いした。


 プロモーションと聞かされた王家の人々は? と思ったが、結果的に一つの産業が創出されて広告業界が育成されると言う話に驚いた。話の通り、芸術家は広告用のポスターや幻影写真の制作・発表を通じて、今までになかった商業デザイナーと言う一分野を開き、彼らの希望に沿う為に印刷技術が進み産業を拡大させる事となった。


 やがて、この事は後のマーケティング戦略の基礎を築く事になる。次々と新しいデザインやタイプの商品(この場合は自転車である)が作られ人々の話題に上った。計画的陳腐化と言われる製品の買い替えを早める戦略が出来たのもこの頃である。


 折よく、景気は上向きで購買層の中心となる中産階級の人々がこれに目を付けた。しかも王都ロンダでは、経済活動が活発な為に慢性的な交通渋滞の緩和に役立つとして購入に当たっては補助金が出た。自転車は軽量な為、婦女子でも扱える。女性の服装にズボンが加わった。それはなにより長いスカートからの解放を意味し、女性達は熱烈に歓迎し、服飾業界は新たなる儲け口としてスポーツウェアを考案した。


 サイクリングは一大ブームとなり、自転車を持つ事は憧れから現実にと変わっていく。人々は、自転車を乗り回し外出した。その為、娯楽の支出先であった王都のレストランや劇場付き温泉施設では、一時的にせよ年間売上金額の損失が10億エキュを超えたと言われる。


 自転車の影響はそればかりではない。聖秘跡教会の地方教区の記録には、自転車の大流行で、村をまたいでの結婚が著しく増えたと報告されている。婚姻に至るまで生活のあらゆる面を変えていったのだ。さらには、身分、経済、芸術、ファッション、熱烈な自転車好きがサイクリング小説を発表して、文学にも新風を吹き込んだ。


 ほんの数十年前までは、村近くで一生を終える者が多かった。今では人々はより多くの世界を訪れる事ができ、実際に見る事ができ、世界が広がった。総人口600万ほどと言われるイリア王国で、自転車に乗る者が100万を超えたのは驚くべき事で有った。自転車は、イリア王国の王国歴190年台のマストアイテムだったと言ってよい。


 世はまさに変化の時代であった。イリア社会は実に多くの事が変化し、自転車によりまた一つ変わり、女性解放の時代を迎えていた。が、そればかりでは無い。それは、2人の機械工が自転車にワイバーンの様な翼を固定して丘から滑り出していた。既に何十回目の試みであろうか……。彼らの挑戦は空を飛ぶ日が来るまで止まないだろう。


 ※ ※ ※ ※ ※


「その頃は、皆が欲しがっていましたね。なにしろ貴重品でしたし憧れも有りましたしね」

「自転車ですか?」

「エェ、小さな子供から大の大人、それこそ老若男女問わずでしたねぇ」

「私共にはまだまだ貴重品でしたから……。そう言えば、記念の幻影写真を撮る時は自転車も入れたりしましたよ」

「そんな事もありましたね。ハハハ」

「王都一周自転車レースも、その頃始まったそうですね」

「エェ、王国歴192年11の月に王国双輪クラブが催したのが最初だそうです。人気の選手には後援会が出来るのは今と同じですね。クラブカラーが赤でね」

「赤い自転車が人気でしたよ。なぜか3倍速いってね」

「ハハハ、確かに。王国各地にクラブが出来てレースや遠乗り会も盛んになりましたから」


「ロンダでは、沢山の女の人が乗っているのを見た時は驚きましたよ」

「そうですね。まだ、地方では女性が乗るのは珍しかったですからね」

「流行りましたよ。王都ロンダというよりも、自転車の都ロンダと言う感じでしたからね」

「ハハハ、その通りです」


「エェ、自転車での移動や荷物の輸送は、生活の中心になっていきますからね」

「ロンダ商工会と王室観光課の協賛でしたね」

「はい、観戦する者はもちろん、コースの横には小旗を振る者もいますからね」

「確か、王都では魔獣凱旋パレードから始まった振興策でしたか?」

「お湯屋のキレイどころや、歌姫さん達も応援してますからね。年々、飾りや山車も増えていて、昔あった新春馬術大会の様な盛り上がりだそうですよ」

「その歌姫さんが自転車を乗り回してお湯屋の劇場を移動していたので、評判になりましてねー。小説と言う物語本ができたそうです」

「ヘー、それは知りませんでした」


「各ギルド間の連絡や、商店のちょっとした配達にはメッセンジャーボーイ達が活躍し、編成された青色の自転車隊は少年達の憧れとなりましたからね」

「時間短縮になりますし、商人なら気付きますよ」

「商店街のくじ引きでは一等は自転車でしたねぇ」

「あの頃、道には自転車が止めてありましたから。マナー違反だと騒ぐのも変わりませんが」

「そうそう、第二城区で曲乗りする者達がいましたね」

「王都守備隊の誰でしたっけ。その方が業を煮やして、やる場所を用意したと言って連れて行ったのが……」

「お湯屋の劇場ですからね。マァ、それからは曲乗りを披露するなら劇場だとなりましたからね」

「小銭も稼げますからね。ハハハ」

「変わり自転車も有りますね」

「前輪荷物台型でしたか」

「あれは、荷物が重いとハンドルの操作に力がいるんですよ」

「で、後ろに荷台を引くタイプのリヤカーと言うのが出来たんです」


 王国内の自転車保有台数は膨れ上がり100万台であったのが、5年後には2倍の210万台にまで増加した。これに伴い、王都ロンダでは自転車取締まり規則が改正され、登録、車両検査は王都守備隊の業務となった。この他、盗難捜査業務も加わり、大きな負担となる。この事は特別行政都市も同様である。


 ※ ※ ※ ※ ※


 時代の波はイリア王国の各地に及んでいく。それは、時に忘れられたような片隅でも起こる。イリア王国の北部にモンジュイック村はあった。古くからこの地を知る古老にとって、荒地は呪わしい不毛な場所だった。この村には修道院の廃墟がある。言い伝えによると、この村が出来たのもムタラゴナに修道院が築かれた頃で、王都を結ぶ街道沿いの村として出来たそうだ。


 モンジェイック村は長きに渡って平安な時を過ごした。だが、200年前・150年前と続いた2回に渡る疫病の為、歴史ある修道院も閉ざされた。村は街道沿いに有った事もあり、その歴史の証人として細々と北の荒地で生き残って来たのだ。


 イリア王国では、現セシリオ国王陛下による治世が善政と言われ久しく、平穏に時が過ぎて行く。開拓地農業改革などの効果もあって東北部の荒地の状況は好転した。魔法のような耕作地拡大により、麦が大量に生産可能となり広大な穀倉地帯が作られた。この地を最所に開拓したカトー卿の労苦を知る者は今では少なくなった。


 嘗てと異なり、今ではイリア王国全土と言えるほど近代的三圃式農業が導入されている。王国では、同時期にケドニアから学問を学んで帰って来た人々から広まった物であると言う者も多い。それと言うのも、この農法は寒冷地である北ケドニアで普及しており、東北部の農地に入植したのが遠征軍帰還兵であったからだ。


 王国全土に広まったこの農法は、輪作の一種であり、農地を冬穀(秋蒔きの小麦・ライ麦など)・夏穀(春蒔きの大麦・燕麦・豆など)・休耕地(放牧地)を3区分して順番に耕作するというものである。地力の低下を防ぐ為に、休耕地に家畜を放牧して排泄物を肥料として地力を回復させねばならない。その為に、旧来の地では、土地利用の複雑な調整が必要であり、王家の権威が有った故に農業改革が出来たとされる。


 それはともかく、何もなかった所に、北面の町行きの鉄道が作られ駅が出来た。王都ロンダとサティロ川の運河が、近衛魔法師団により、将来を見据えて整備され、大量輸送が出来るようになったのも幸いであった。生産力と利便性が増して行く。王国東部、そしてムタラゴナとミハスは再び、アレキ文明時の活気を取り戻すかのように大きくなって行くだろう。


 そんな開発ブームが有って、モンジェイック村もそれなりに変化して行く事になる。村の暮らしは豊かになりつつあるがほとんど変わらず、あたかも関係ないかの如く時は過ぎて行くはずであった。そして、時代の波はモンジェイック村にも押し寄せて来た。


 見渡す限りの草原には、風車を作れるような風が吹く丘も無い。夏の猛暑でサティロ川の水位が下がれば蒸気揚水機も動かなくなるかも知れない。井戸が止まれば、始めたばかりの馬や牛の放牧は人力が頼りとなる。村では石炭をつかう巨大なボイラーを備えた蒸気動農業機械はない。


 都市に比べれば村の時間は止まっていた。若い者が、都市での仕事や生活に憧れて村を去って行くようになった。村人が減り始め、廃村は間近であるとの声もチラホラ出始めたのである。だがここに知恵者が現れた。折からのブームとも言える観光地探しにのって、廃墟になった修道院群を逆手にとり、地域観光を始めたのである。


 東北部の荒野から生まれた観光地のモンジュイック村だが、これは特殊な例外と言えだろう。観光の発展は地域経済に効果をもたらすが、同時に地域社会や環境にも大きな影響を与える。事の初めは、沿線の村に置かれた途中駅であった。それこそ王都から日帰りで行ける長閑な村の駅と言うだけであった。


 おおげさにいえば、修道院の廃墟以外は何も無い様なこの村で、逆に何もないからと訪れる者達がいた。訪れた者が、その長閑さと廃墟となった修道院群を見て感激した。そして、王都から日帰りで行けるという気軽さが幸いした。


 折からの北の町観光や王都の自転車ブームもあり、モンジェイック村の情報が瞬く間に広まり人気にあっという間に火がついた。何も無い野原を景観にした事で、夕日の美しさを誇れた。廃墟となった修道院と相まって人々の旅情を掻き立てた。


 モンジェイック村にとって幸運は続く。学術研究の為に、修道院群の壁画調査が行われ一部で修復作業と復元工事が行われた。修道院の復元工事を見た者は、工事の進行状況を見たくなりリピーターが増えた。観光地となった村の周辺には商店やホテルができた。雇用が生まれ、地域の活性化につながっていった。


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商業ギルド発行 モンジェイック村を歩きたいより抜粋


 イリア王国東北部の荒地と言われる大地には、忘れられたかのようなモンジェイック村があります。この村には修道院の廃墟が沢山あります。諸行無常の儚さ故の美しさの中に廃墟になった修道院群の屋根は落ち、ガラリ窓は全て壊れてしまっていますが、柱や壁はまだ残っています。


 聖秘跡教会は、伝道の為に多くの教会と修道院を築きました。しかし、戦国とも言われる混乱の時代。飢饉や伝染病の流行によって、沢山あった修道院の運営もままならなくなっていきました。そこへ、この教会のある領主と対立していた近隣の領主からの侵攻にあって多くの教会が破壊されました。


 本来は破壊される事の無い聖秘跡教会の建物でしたが、防衛拠点として使用された為に破壊されたのです。教会に留まる事の出来た修道士も、わずか数人になってしまいました。再建も検討されましたが、教会を修復する資金も無く、そのまま朽ち果てて行く運命となりました。


 廃墟となった修道院群ですが、朽ち果ててしまった屋根から見える空は美しく、草に埋もれた夢の跡のようで物悲しい雰囲気よりも、平和を祈るような穏やかな空気に包まれています。遥か古のアレキ文明様式の尖塔があり、柱、壁は、未だに残っており、その完成美を留めています。


 王都ロンダから、鉄道にて日帰りができ、サイクリングのスポットとして今人気の場所です。イリア王国建設前の遥か昔、隕石テロより続く混乱状態となったアレキ大陸の中で、200年近く栄えた教会と修道院が失われていったのです。その聖秘跡教会の地を巡るのも良いかも知れません。


 諮らずも廃墟となった修道院群ですが、この地方の歴史の証人でありシンボルです。モンジェイックの歴史遺産として、今ではあらゆる年代の人々に愛されている観光地となっていいます。その修道院群の中から特に人気な箇所をご紹介しましょう。


ベナルマデナ女子修道院

 ベナルマデナ女子修道院は、時代の流れに飲み込まれていった修道院です。王都ロンダの北、ムタラゴナとを結ぶ街道沿いに有ります。400年ほど前、イリア王国がまだ無かった頃に建設された当時では最大規模の聖秘跡教会の女子修道院でした。


 時折、訪れる観光客の声が敷地内に響きます。穏やかな自然の風景、湿原を渡ってくる風を遮るものは樹齢が何百年になろうかと言う様な楢の古木です。境内の奥に立つ古木は切られる事も枯れる事も無く教会と共に過ごしてきました。


 その庭には鳥の声、草花が香っています。はるか昔に、僧侶達も去っていってしまいましたが、自然は穏やかで、変わる事無く時が過ぎて行きます。朽ち果てた教会の内部には、もう聖具はありませんが、穏やかで、豊かな自然に満ちています。


トレラベーガ修道院

 畑の中に見える白い岩山。これは岩山ではなく、長年の放置により廃墟となったトレラベーガ修道院です。中に入ると教会の屋根は落ち、翼廊と後陣の構造は分かりますが、雨による浸食でそこかしこが損壊しています。トレラベーガ修道院の歴史は古く、ベナルマデナ修道院より100年近く前と言われます。


 最初の記録とされるのは450年ほど前の風土記です。おそらく建立された時には、コジャード派(建物内部にドラゴンと魔獣達の絵や彫刻が、必ずと言ってよいほど見られるのが特徴です)の修道院では無いかと思われますが定かではありません。絶滅した第二世代ドラゴンの彫刻が柱頭に見られることから、500前のアレキ文明後期の建物と推測されたこともありました。


 建立時期が重なると思われる、同じくコジャード派の修道院とされる、エストレマドゥーラ修道院にはよく似たドラゴンの彫刻や絵画があります。建物の外観は破損していますが後陣の壁に描かれた魔獣達の絵が印象的です。


 その残骸の形からして正面で有っただろうと思われる場所に立つと、嘗ての教会や修道士達が祈りを捧げる姿が目に浮かびます。ゴジャード派が魔獣達の絵や彫刻を使用する事はミステリーですが、感慨深い場所となるでしょう。


ムリェード修道院

 ムリェード修道院は聖女レーア・アマーリア・ベネヴォリの名のもとにムリェード会によって建てられたと伝えられています。聖女レーアの名がエバント王国風なのは、遠くリヨンから伝道の旅を終えてこの地に修道院を築いた為です。


 廃院とされましたが他の修道院と比べて新しく、内部には教会と修道士の住まいがあったようで、最盛期には200人余りの僧侶がいたと言われます。麦畑に囲まれた僧院は暗い廃墟のイメージはありません。


 文献によると当時、名物と言われたエールの生産が盛んでしたが、数年に渡る凶作の為、醸造が行われなくなりました。最初は古代アレキ様式で建てられましたが、現在残る形はケドニア王国風の建築で200年ほど前の物です。


 近年の観光化に伴い宿泊所が設けられました。この宿泊所の広場では、初夏から秋の初めまで1日・15日とコンサートや子供向けの催し等が開かれています。この催しに合わせて王都ロンダからの臨時列車が出されています。


 現在は、残された麦畑で作られたエール(ムリェード修道院エールの名で復刻版が作られています)が村人によって作られています。このオーガニックエールは催し開催日に合わせて醸造所見学試飲ツアーが行われます。参加料は10エキュでお代わり自由の試飲が含まれています。修道院を眺めながら味わうビールは格別でしょう。尚、このエールは鉄道駅構内の売店でも購入できます。


バダホス修道院跡

 最後は、モンジェイック村から少し離れたエルダの村にあるバダホス修道院跡です。村の西のはずれにある廃墟化したクエンカ修道会に属する修道院です。当地に進出した豪族バルトロメ家の庇護のもと、修道士を集め、当時における信仰の中心であったと言われますが、詳しいことは不明です。その後、侵攻してきた領主の拠点となり、その敗北によって破壊され、放棄されたという伝承が有ります。


 幾度か修復が試みられたようですが、境内は荒れ果て、残された建物には、何本かの彫刻された柱が残されています。併設された墓地には古い板の墓標が残っています。おそらくこの修道院で亡くなった修道士達と思われます。摩耗した墓石が長きに渡って無人となっていたかを語っています。時折、供えられた枯れた花束が置かれているのは訪れた村人が備えたのでしょうか?


 辛うじて側壁に描かれた壁画跡が、ただの石塊となった建物の中で嘗ての姿を伺わせています。荘厳な雰囲気の中で、当時の様子を思い浮かべながら散策するのも素敵な体験となるでしょう。


インフォメーションセンター

 最初、沿線の住民の利便性を図る為に設けられた売店は規模を拡大し、北面の町にならいインフォメーションセンターが設けられています。前述した、試飲ツアーや修道院群の資料が展示されています。理解を深めると共に楽しむ事が出来るのは鉄道博物館と同じです。


 同、展示室では修道院群の歴史や修道士達がどのように生活していたかのロウ人形が置かれています。お土産コーナーにはご当地エールや修道院クッキー等が購入でき、王都の美味しいケーキの店が出店しています。行ってきました修道院と書かれたパッケージの意匠がおもしろいと評判です。


 観光客の間では日持ちのするお土産としてご当地物の修道院クッキーが人気の様です。原材料は、タマゴ不使用で地元の小麦粉に、地元のバター、麦芽糖が使用されています。また、自生しているコケモモのジャムは地元のお母さんたちの手作りの品で素朴な味わいです。


 チャンスが有れば是非とも味わいたい逸品は、氷の魔法で作られたソフトクリームで、これは修道院観光のハイライトと言っても良いかも知れません。モンジェイック近郊で牛の放牧が可能となった事により、新鮮な牛乳を使ったソフトクリームが1日と15日の期間限定で販売されます。美味し過ぎるプレミアム商品なので入手困難な品となっています。


 聖秘跡教会関連の品では、教会販売所が出店しており、王都の教会から流行り出した手首に巻く色糸や、お香、廃墟となった修道院群の幻影写真と水彩画が置かれています。


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イリア王国・王立ロンダ大学・経済経営学部

一般教養講座 「観光の発展とは」


 観光によって、地域経済の活性化や雇用機会の増大も有るが、王国民が豊かな生活や文化的な活動を支持した事もある。王国は単に住み心地良い国だけではなく、今では広く認識されている文化の向上も必要とされていた事が分かる。


 製造業とは違い旅行による消費は、買い物、宿泊、飲食、交通、娯楽など多岐にわたる。この為、幅広い分野に波及するので経済効果は大きい。


 さて、耕作地帯の中にあったモンジェイック村は王都ロンダから30キロと距離あった為、北面の町線(総延長70キロの路線には、王都北駅、北面の町駅、ビジターセンター前駅の3駅が作られている)の開通とサイクリングブームにより急速に観光地として発展をした。


 モンジェイック村を訪れる観光客は、車窓から見える自然が織りなすカラーパレットと廃墟となった修道院群の静寂にすっかり魅入られる事だろう。だが、観光客が増えすぎる事により、一部ではいずれ環境が悪化するなどの問題が発生すると思われていた。


 王国歴183年当時、北の町の開発にあたったカトー卿は、草原の中に佇む廃墟となった修道院群を見て環境保護に目覚めたと言われる。卿は観光が進化する過程で、大資本による観光の商品化や、地域の特産を無視したような商品販売を憂いたようだ。


 卿が予見したように、多くの旅人が旅行先で購入する商品は、流行の品よりも地元で生産された商品が好ましい。その土地の名物や料理であり、なお且つ新鮮な物が良いとされるのもその為で、そこでしか購入できない物や体験を重視されるべきであると言われた。


 加えて、歴史的建造物や美しい景勝地を王国民の遺産として保持して行き、その地の特徴や動植物の生態を保存し、子孫に残す事が肝要であると唱えたられた。即ち単に環境保護ではなく、ナショナル・アイデンティティを作り出して、様々な現象や問題を解明して対応していくのに相応しい事例であると言われたのだ。


 カトー卿によって提唱されたこの王国観光保全運動は、行き過ぎた観光ブームに警鐘を鳴らし、今までの反省も有って広くイリア王国民の理解を得られた。結果、試金石としてこの保全地区は観光農園と観光牧場を含む、200平方キロにもおよぶ広大な敷地に広がって設けられる事となった。


 観光地として開発されたモンジェイック村近郊であるが、最初の歴史環境保護観光地区とされ、後の観光のスタイルに一石を投じた事は意義あるものと言えるだろう。卿が言われる地産地消はまだ先の事と言われるが、観光の新しい在り方を見つけれるものかもしれない。

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